いろいろあるとは思うのだが,「万歳」はないだろう,と思う.
それはまあ,もちろんそれまでの御苦労,というのもあるのだろうし,そういう立場になってみないとわからない感慨,というのもありそうだ,という気はする.はたから見ている素人からは想像もつかないような,つらく苦しい道のりを歩んできたのかもしれない,と思えば,だるまさんに目玉を入れるくらいは許されてもいいのだろう.一度入れた目玉にもう一度筆を当ててみせて,フラッシュに向かって微笑むのもそれはそれでいい.
しかしながら,やはり万歳三唱はどうかなあ,と思う.
「万歳」と言うのは,全てにおいて「事をなした」その後に,そのお祝いとして行なうためのふるまいなのではなかったか.
もっとも、それを言うなら、だるまも同じかもしれない。
だいたいにして,これからが本番なのである.
自分の名前を連呼していればよかった時期はもう過ぎてしまった.
これからは,ありとあらゆる面倒なことを背負って進まなければならない.自分の身の回りだけでなく,国のことや,国と国の間の関係や,過去や未来のことを考えて,慎重に事を進めなければならない.誤りが許されるかどうか,という点については微妙なところなのだけれど,基本的には正しい方略を取ることが望まれる.そういうお仕事なのである.取るべき方略を誤ると,自分一人ではなく,相当数の人間に迷惑をかける.だから,慎重に,それでいてやるべきところではきちんとやる,そういう臨機応変な身の振りかたをこれからずっとしていかなければならない.
その立ち振舞の何と難しいことか.本当に大変なことだ.
こんな面倒なことを自ら進んでしたがる,ということには,どういう意味があるのだろうか.不思議でならない.そんな面倒なことは,普通は「お前やれ」と言われなければやらないだろうし,引き受けるにしても「しょうがないや」の一言が先に出そうなものだ.
おまけに,その『万歳の人』というのは,実際その人自体がどうのこうの,というわけではなくて,人々の代表に過ぎない.みこしに乗った人形のようなものだ.「本来であれば」その地域のいろいろな人の意見を汲み取って(たとえ自分と信条が異なろうと)何らかの形で取入れてゆく,という展開を取るのが華やかなみこし人形としての理想というものか,という気がする.
しかしながら,あの「万歳三唱」を見るにつけ,どうもその人およびその取り巻きの人達というのはやはり何か勘違いをしているのではないか,というように思えて仕方がない.何というのか,異なる背景を持った地域で形作られた「政治」という機構を,形の上で真似をしてきたこの百年間という長きにわたる時代の集大成が,見事にあの「万歳三唱」に現われているみたいだ.
結局,私達にはあの形の「政治」を運営する能力がないのかもしれない.「形」を整えるのに精一杯で,中の方まで気が回らない.それは,みこしの上の人形も,みこしの担ぎ手も,周りでそれを見ている人間も,たぶん同じだ.
おまけに,どうせ実際に世の中の面倒を見ているのはあの人達ではなくて,机の前のお役人たちだ,という厳然たる事実があるので,実際のところ「どうころんでも害はなかろう」と高をくくっているのも事実に違いない.
この国は,昔からそういうものだったじゃありませんか,と言われると返す言葉はない.
もう一つ,前から気になっていたことなのだけれど,この事象にからむたいていの人々は,なぜかお年寄りが多い.歳を取ると判断力や記憶力が落ちてくるのはわかっているはずのことなのだけれど,どうも周りの人は止めないらしい.そういう人達は本当に能力が落ちていないのか,それとも当人に能力が落ちているという自覚がないだけなのか,落ちていようと何だろうと,なり振り構わずその世界に向かって走って行きたいという当人の姿勢を周囲が評価しているためなのか,そのあたりはよくわからない.
だいたい,あの人達は私のおばあさん並みに歳を取っているのです.すごいよなあ.
まあ,お年寄りが元気でいるのはいいことだろうけれど.
いろいろぼやいてきたけれど,要するに言いたいことは,「終わってもいないのに祝杯を挙げる」間抜けな人々が世の中にたくさんいましたよ,ということでした.
<完>