ある折に,知合いで同士でテニスかなにかをしていた.そこで聞いたのが,そこに参加していた,爽やかそうなある青年を指して「彼,イチロー入ってるよ」という台詞だった.
「イチロー」というのは(この人を説明する必要があるのかどうかは,これを読む人の知識いかんなんだけど)野球選手であり,しかも若くして天才と呼ばれている人物のことだ.すらっとしていて,精神的にもスマートで,まるで悪い噂を聞かないほどのすごい人である.イメージでこれに対抗できるのは、将棋で意味のあるほとんど全てのタイトルを25,6歳にして全て独占してしまった羽生名人くらいではないか、という噂もある。この二人を何でもいいから激突させてみたい、というのは自分の友人達の夢なのだけれど、それはさておき、とにかくそういう人が「入っている」,ということなのだ.
入っている.
雰囲気はわかる.単に「似ている」と言うよりも,もっと積極的に,「らしさ」を伝えるための言回しとして,自分は直感的に理解した.きっと,何かの特徴を強くもった人のその一面を,その人の「名前」で直截に表現してしまう,ということなのだろう.
だが,何かが気になった.自分は素直にこの表現を使えない,と感じたのだ.
なぜだろうか,と自分でも不思議になった.
普通に,人間が他人を理解しようとする時に,普通はそのままの形でとらえることはできない.人間はいろいろな側面をもっていて,その面の各々が矛盾することも稀ではない.だから,自分の理解できる範囲で相手のことを「解釈」する.一番簡単なのはレッテルを貼ることだ.「あの人はこういう人だ」という「型」を作ってしまえば,それだけですむ.そのレッテルを既存のものから借りてくるのはもっと楽だ.いわゆる「ステレオタイプ」という,世の中で幅を聞かせている「型」を用いて,その型に相手をはめることで解釈する.
「イチロー入っている」という言い方は,要するにこの「ステレオタイプ」に個人名をあてはめているということなのだろう.
とは言うものの,どうもこの言い回しは,言われたその相手をややばかにしている印象もある.「彼,イチロー入ってるよ」という台詞の中には,その対象の人の独自の人格を他人のそれと入れ替えてしまって蔑ろにする,微妙な「意図」のようなものが見える.「彼」は「イチロー」であるのだが,しかし本物ではない.しょせんは偽物なのだ.そして,「俺はそんなつもりじゃない」と弁明しようとしても,すでに貼られたレッテルは剥がせない.
イチロー以外の人物ならどうだろう.評判の悪い人物なら論外であるが,たとえどんなに評判の良いの人物であっても,やはり自分自身を「他人」の名で呼ばれることは気分が悪いように思える.「自分は他の誰でもない自分だ」という,誰もが持っているであろう,自己の尊厳の感覚を無視している上で,この「入っている」という言い回しは成り立っている.
考えすぎ、といえばそうなんだろうけれど、そもそものはじめにこの表現を聞いた場面でこの言葉を発した人物も,どことなく人をばかにした口調だった気がする.要するに,あまり正面切って言える言葉ではないのかもしれない.だから,どうも気になったのだろう.
<完>