注)元の文はningen.human.tsukuba.ac.jpのネットワークニュースに投稿したものです。 ボストン旅行についての非常に私的な感想を書いてあります。適当に読んでください。


ボストン旅行記







 人生において2回目の海外旅行となったボストンへの国際学会出席の感想を記したものです。第1回のトロントにも増していいかげんなことがたくさん書いてありますので、そのつもりで読んでください。


 目標とする学会は「Human Brain Mapping '96」というもので、人間の脳の機能が脳のどの部分で行われているのか、ということを示す『脳の機能地図』を作ることを目標とした研究の学会です。今回でまだ第2回目で、研究領域自体がまだ若い、ということがうかがわれます。



では出発。





・いきなり

 残り物の始末をつけながらのんきに支度をしていたら、なんとなく時間になり、あたふたと部屋を出る。平砂のバス停まで車でゆき、そこからバスに載っていく。と、ここで空港までの直行便のバスのチケットを忘れたことに気がつく。どうしようもない。とりあえずもう一度購入可能なものであるためそのまま出かける。出だしからこれではやれやれと思う。
 バスに揺られつつ、そういえば残り物の片付けをしたつもりでいて生の肉をまだ冷蔵庫に入れたままであったことなどを思い出しもする。あれやこれやしょーがない、と思いながらつくばセンターにつく。



・光景

 バスの中から見る千葉県の景色はなかなかよろしい。もやの中に鮮やかな緑の田んぼが遠く広がっている。

 ちなみに、今回は前回のトロントと異なり同行者がいる。研究所の正規の職員の方で、私よりも二つほど年上の山内さんという男性の方である。東大の学部生時代にスイスに一年間留学していてフランス語が使えて、東大工学部の大学院に入ってからは5年のところを4年で博士論文を書いて繰り上げ卒業をなさったという、もう秀才中の秀才である。海外も何回も出掛けていて慣れておられる。さらにいろいろな面でバランスがとれている。とてもすごい人なのである。そんなすごい方がわたしのような間抜けと一緒に行ってくださるのである。これはもうありがたいとしかいいようがない。私は勝手に安心している。山内さんにしてみると厄介な荷物が一つ増えたという感じかもしれない。
 いずれにしても宿の予約など全てお任せしてしまっていた(私はクレジットカードが作れないので)わけで、今回の旅行に関しては、高橋はあまり自発的に動いていないのであった。



・行列

 バスは時間的に幸いしたのかとっとと成田について、我々は食事をし、まだ時間はあまっているがどうしよう、さて、と眺めると、どういうわけか我々乗るべきノースウエスト航空だけに右に左に折れ曲がった行列ができている。斜め上の空間にぶら下がっている四角い黒の板を眺めると、この時間帯だけに6便ほどが集中している。山内さんが『こんなことは初めてだ』と言ったほどの列であった。

 仕方なく並び、30分ほどかかって荷物チェックを行い、そこからさらに30分かかってチケットのチェックである。他の会社の窓口が空白状態で、何とも無駄な気もした。チェックの後、時間はあったのだが即座に出国窓口に向かう。これは正解であった。ここでも行列ができていた。シーズンでもないのにえらいことだ。

 無事乗り込むことに成功するが、この段階ですでに疲れている。12時間のフライトを思うといささか憂鬱になる。



・階層構造

 飛行機のシートにファーストクラス、というものがある事は知っていた。ビジネスクラス、というものがあることも話に聞いていた。だが、それが我々エコノミークラスとの差異が具体的にどの程度あるのか、という点に関してはあまり気にしていなかった。

 飛行機に乗り込む段階ですでに長い列をなしていた我々は、しかし『ファーストクラス、ビジネスクラスのお客様から先に』という台詞の下にすでに待ちぼうけを食らう羽目になっている。どうやら、受け取るときの荷物も先に出てくるのだそうだ。だがしかし、その程度の差異がなんであろうか、と私は思っていた。その程度の相違が料金の差違であるのなら大したことはない。しかし、その感覚は行きの飛行機の中において見事に粉砕された。

 身近なトイレが使用中であったため、私はふらふらとエコノミーを離れ、ビジネスクラスの領域へと入り込んだ。そうしてふと見ると、彼らのシートとシートの間の異様な長さに気がつくのであった。
(車田正美風に)「なにいっ!?こ、これは!!」
 彼らの椅子にはきちんとしたフットレストがついていた。踵に持病のある私としては、そのフットレストはとてもすばらしく見えた。だが、その程度のものがなんだと言うのだ。小宇宙(「コスモ」と読もう)を燃やして我慢すればいいのだ。エコノミークラスは負けない。決して負けない。もはやビジネスクラスは見切った(「ジャキーン」の効果音入り)。
 すると、一人のビジネスシートの客と目が合った。彼は目でフットレストを示してこう言っていた。
『ふっ、おまえの見切ったビジネスクラスとはこのことか』
「なんだとっ?!」
『おろかものよ。真のクラスの差違とはこのようなものを言うのだ。くらえ「フルコースプラズマ」!』
 何と、よく見てみれば彼らビジネスクラスは我々エコノミークラスの『トレイに載った給食』のようなものとは異なり、きちんとしたパテのようなものを皿に乗っけてナイフとフォークで食べている。おまけになんだかとてもうまそうではあーりませんか。
「うわああっっ!!!!」(背景は高級な食事の流星)
 エコノミークラスの俺はその衝撃で機外に吹き飛ばされた(うそ)。
『あがいたところで所詮はエコノミー、ビジネスとはクラスが違いすぎるのだよ。その我々にすら指一本触れられない君達が、おこがましくもファーストクラスに勝とうなど、奇跡でも起きない限り不可能だ。貧乏人の君達は、ベルリッツで話せなければきっと一生話せない』(なんか違う)

 日付変更線を越える以前に、すでに俺の小宇宙(くどいようだがコスモと読もう)は燃えつきていた。




・入国

 今回は一度シカゴで乗り換え、そこから国内線(とは行っても同じ便)でボストンまで行くことになっている。入国手続きは、こういう場合には最初の着陸地点(この場合にはシカゴ)で行う。
 シカゴはからっとして暑かった。
 日本人が多く来るためか、アメリカ入国の際の係員の人は『アリガトウ』と述べてくれた。

 それにしてもシカゴ空港は広い。国際線から国内線に移動する際には空港内部をモノレールのような交通システムで移動するのであった。



・ボストンにて

 とりあえずボストンにたどり着く。東京とほとんど変わらない気温だ。空港からバスと地下鉄に乗って市内のホテルへ向かう。地下鉄はどこからどこまで乗っても一律85セント。日本円で90円程度で安い。しばらく迷ったが、何とか予約していたホテルを見つけだす。ミルナーホテル、というところ。二人で宿泊して110$、というのはまあましなのかもしれないが、しかしやはり高い。クーラーがついていたのは幸いであったが、しかしデスクが一切ないのはつらかった。


 日米を問わずして、ホテルにきちんとした明かりがないのが不満だ。そんな無粋なこと言わないの、など物知り顔の大人たちにはとたしなめられてしまいそうなのだが、しかし明るいのがいやなら時に応じてそれを消せばいいのであって、明かりがないという事態を擁護はしない。『ビジネスホテル』と自称するところでも机と明かりがないのは解せない。


 しばらく休んだ後に外に夕食を食べに参る。当たりをうろうろした後にシーフード的なところに入る。私はソフトクラブ(とてもやわらかい甲羅のカニ)とビールを頼む。カニはふにゃふにゃしていて悪くはないのだけれど、味がないに近い。ビールの方は軽くてかつしっかりしていたように思える。山内さんの頼んだ『ベジタリアンメニュー』は、ナスとトマトの脂っこいラザニアのようなもので、実のところ、あまり健康に良いようにはみえなかった。健康を目的としたものではなく、宗教的な目的の『肉を使っていない』というだけのものなのかもしれない。インドの上流階級のベジタリアンなんかはそういうものなのだと何かの本で読んだことがある。いずれにしても、値段は高い。ビールも含めてこれらは日本円にして各々1800円位したように思う。ここに限らず、とにかくボストンは食べ物の値段が高かった。

 外に出ると薄暗くなっている。時間はすでに9時半を回っていたが、まだ随分明るい。これでは確かにサマータイムでも施行しないと時間がなんとなく無駄になりそうだ。




・謎の人物

 朝6時半頃に目が覚めてしまう。初日の朝8時からすでに学会がある。地下鉄でしばらく離れた会場(シェラトンホテル)まで出掛けたが、この途中で謎の人物と出会った。

 白人の壮年のおじさんである。我々のことを見て話し掛けてくる。どこから来たのか、どこにいくのか、今日はボストンの何日目なのか。最後の質問に『今日が初日だ』と答えると、その人物はバッグから小さな観光パンフレットを2冊取り出して我々に与えた。よく見るとパンフは日本語で書いてある。そしてその人物はその次の駅ですぐに降りてしまった。別段客引き、というわけでもないようだった。我々は顔を見合わせた。

 例えば、我々がこの筑波に住んでいて、観光客相手の英語のパンフレットを常に複数持ち歩き、ことあらばそれを誰かに渡してみよう、などということを考えるだろうか。普通は考え付かない。だがどうもあの人物はそういうことを普段から頻繁に行っているのに違いない。

 ボストンといえば確かに観光都市だから「わかるといえばわかる」、しかしやはり「わからないといえばわからない」現象であった。



・止めてくれ

 レクチャーは朝の8時半から夕方6時まで続いた。その間の最大の問題点は、とにかく寒かったことである。クーラーをかけすぎる。正直気分が悪くなってきたほどだった。この現象は学会の最終日まできちんと続き、我々は仕方なく土産物としてトレーナーを買い入れ、それを自分で着てしまうという手段に訴えざるをえなかった。実は自分はこういうこともあろうかと、一枚薄手のセーターを持ってきていたのだが、それを着ていてすらなおまだ寒かったのだ。
 ホテルの人々というものはいったい何を考えているのだろう、と不思議になった。





・いかんなあ

 二日目、レクチャの途中で調子を崩しかけるが辛うじて持ちこたえる。実際危ないところだった。突然呼吸が苦しくなり、座っていられるかどうかの瀬戸際であった。何だか胸のあたりが痙攣しているようだった。ああいうことはこれまではなかった。帰ってきてからも感じることだが、長時間のフライトの後遺症は直後ではなく、二日後くらいに現われるようだ。

 それまでは最前列に陣取っていたのだが、午後には考えをあらためて空いているすみっこの方にゆき、使われていない椅子を使って足を投げ出して聞いていた。いずれにしても踵が痛くなってくるとこうせざるをえない。これはこの後も続いた私のスタイルであった。おそらく一生続くスタイルになるような気もしている。



・狂うリズム

 アメリカ東海岸と日本との間には12時間ほどの時差がある。日本から向こうに行くときには、こちらを夜に出て向こうの同じ日の夜に着いてしまう。かつその間が12時間かかる。向こうに着いたときに高橋の体内時計は実際には日本のリズムにあっているので、昼と夜が逆転してしまっている。えらく苦しい。

 着いた翌日から、朝早くから夕方遅くまでのほとんどぶっ続けの学会が連日続く。夜は疲れてしまってもう10時過ぎには寝てしまう。ところが、リズムが未だに合わないためか、朝の4時とか5時とかにはもう目がさえてしまう。今回の旅行には相方がいるので、そちらのリズムを狂わせるわけにはいかず、起きて灯をつけることもできない。仕方なく、トイレの上に座って日記をつけている。何故か日本に帰ってきてからもそんな感じが続いている。もともと破壊的であったリズムがさらに崩壊した、という印象を持つ。



・何でもいいものか

 ポスター発表をみてまわる。概念(仮説)形成、刺激の階層性、数のWMと計算領域の違い、3段論法のメンタルモデル、メンタルローテーション、アナログ時計の読み、地図の読み。これらがすべて脳機能画像に結び付けられている。何だろう、という気もする。それは何でも差分画像をとることはできるのだろうが、しかしそれにしてもあえて脳機能画像で観察する意味があるものなのか。説明の妥当な水準という概念はないものか。



・おのぼり

 二日目の午前中、学会の方は画像の修正計算などの技術的な内容の時間帯なので、私のテーマからは遠い。この時間を使って少々観光を行う。目標はかのMITとHarvard大学である。
 地下鉄を乗りついて20分ほど行くとMITにつく。駅から1分ほど歩くともう敷地内である。うろうろと歩き回りつつ写真などをとる。建物がどれも白くてかっこよい。中に入ってみる。廊下が伸びていて、事務区のようなところを人々が歩いていたので自分も紛れる。大学の建物の中を家族連れの観光客が歩いている。建物は意外に古く、なとなく薄暗かった。途中『アテナプロジェクト』という名前の部屋を見出す。この名前は知っている気がする。もしかしたらインターネット関係で有名なものなのかもしれない。
 その後生協に出かけて土産物を買う。馬鹿でかいマグカップを買ったが、あまり大きすぎて何を飲むのにも使えそうにない。カップめんでも入れ替えて作るのにはいいかもしれない。よせばいいのに“MITプレス”の本舗を見つけてしまい『ああああもう』と言いながら本を買い込む。次いでハーバードまで足を伸ばすが、生協にちょっと寄って土産を買っただけであまり時間がなかった。まあ土産のカップがいいものだったのでよしとした。



・Oh~、たーくしーどぅむわーすく!

 朝方テレビをつけるとセーラームーンをやっている。トロントからひき続いて「うむ」という感じである。もう声がほんとにアメリカンなので、何を言ってもオーバーに聞こえてくる。山内さんはいたく感心していて、『ヒヤリングの勉強にはいいかもしれん』と言っておられた。なるほど、そういうものかもしれない。とりあえず、何を言っているのか、という程度はおよそ見当がつくわけだから、推測はしやすい。

 今頃になって思い出すのだが,実は,トロントで眺めたときもボストンで眺めたときも,いずれも“空港で飛行機に襲われる”という内容だった(なぜ「生身の人」と「ジェット機」というスケールの全く異なるものが闘えるのか,という点に関しては私に聞かない様に).セーラームーンが毎度毎度ジャンボジェット機と闘っているとは考えにくいので,もしかしたらたまたま同じものだったのではないか,という気がしている.


・怪音

 夜になって帰りつくと、どこからか得体の知れないベースのリズム音が鳴り響いてきている。それほど大きな音ではないものの、どこからしているのかわからないためなんとなく気になる。また、一度だけ朝方4時前に電話のベルが鳴って叩き起こされたことがあった。ほっておいたらしばらくしてベルは消えたものの、自分はそれから先眠れなくなってしまって困っていた。



・アメリカ

 朝から晩まで例の笑い声の聞こえるコメディーを飽きもせず流している。かと思うと、警察に密着取材している番組ではその週に起きた事件の捜査場面をそのまま画面に収めて流している。何の脈絡もなしにいきなり通りすがりの車から3発の銃弾を叩き込まれた男性、泣き叫ぶそのガールフレンド、車をぶつけられてキッドナップされた母親とそのための捜査、容疑者の自宅に踏み込んで行って会話をしながらいつのまにか「you're under arrest」とぼそっとつぶやく警官。そういったものをそのまま映す。合間合間のCMでは「自走式ホワイトボード消し器」のような珍妙な発明品を通信販売している。チャンネルを変えるとまた画面の外から笑い声がする。どれが本物のアメリカなのか、相変わらず私にはわからない。

 考えてみると、アメリカの誇る「自由と平等」は『たとえ誰であっても鉛の弾を食らえば死んでしまう』という厳然たる事実をベースにしているようだ。10歳の子供であっても、銃さえ持っていれば自分の倍以上ある大人を静止しておける。その気になれば二度と動かなくなるようにもできる。大富豪であろうとマフィアであろうと、あるいは大統領であってもその例に洩れない。みんな同じだ。鉛の弾は人類皆に平等に作用する。
 誰にも比較的簡単に手に入るワイルドカード、それが銃だ。そして誰しもがそのワイルドカードを持っている。これでは互いに勝負にならないではないか。

 ここまで書いてみて、これは何かに似ている、と思ったのだが、要するに、国家間における『核兵器』というものとそっくりであった。

 もちろん日本も一皮めくればいろいろとあるのだろう。知っている人は知っているに違いない。だからこれ以上は言わない。



・壁

 やはりヒヤリングに問題がある。わからない言葉が多すぎる。単語レベルで知らないこともあり、言い回しとして知らないものもあり、そもそも聞き取れない発音も多い。わかればさぞかし突っ込んだ話もできようと思うのだが、しかしわからない。これが現実だ。3ヶ月前とほとんど変化がない。何とかせねば、と本気で思いはじめる。



・問題点

 私がこれから行おうとしている研究領域自体に対する危惧を感じる。2回の情報集種で感じたことは、これは我々だけでは進めない、というものだ。今のところ、我々のところには工学屋さんとお医者さん、そして生理心理屋と認知心理屋(私)がいる。しかしこれだけではたぶん単に脳の機能の色分けマップを作るのがせいぜいだろう。これ以降先に進むには、神経生理屋さんと情報工学屋さんの協力が必要だ。このあたりの人脈をきちんと作っておかないと、せっかく興った領域が『あれはだめだよ』という否定的な意見でとらえられておしまい、ということになりかねない。

 いま現在工技院のシステムは、どうも各研究所間を競争させてランクづけをしよう、といった方向にあるらしい。これでは脳の研究は進むまい。脳の研究においては、これまで細分化されてきた諸サイエンスのエッセンスをもう一度統合することが必要となる。そのために、研究者各人が他の領域に対するある程度の知識を持ち、そしてそれ以上に自分の領域に対する豊富な知識を持っていることが要求される。さらに、他の領域の研究者とうまくつるむことのできる性格の人間が必要だ。ある意味で、自分の知らないことをきちんと『知らない』と言える能力が必要だろう。これができるのは本当に優秀な科学者に限られる、という気がする。引っ込み思案の自分にその能力があるかどうかはいささか怪しい。しかし、こうした『融合』的な方向を求めて、実際に行動を起こして先に進まなければこの領域にも自分にも共に未来がない。



・アート

 ボストン美術館に行き、観たいものを観るものとする。ここは世界4大美術館の一つなのだそうだ。地下鉄に乗ってたどり着くと、なんとなく威厳のありそうな建物がある。
 入り口のホールで8ドルを払い、まず横手の古代エジプトに歩を進める。ヌビア、とかいう地名で、ナイル河の中流に紀元前20世紀(もっと前か?)くらいに栄えたものらしい。像とか、石棺とか、確かにここの人たちが発掘したのだろうけれど、『この場所にこんなもの持ってきてしまった良いのか』という気がする。
 その後、銀器・金器、日本の浮世絵、日本刀、仏像、などをめぐる。日本刀の美しさと言うのには感心した。確かにあれは芸術品だ。浮世絵に関しては、もともと知識もないのでよくわからなかった。正直、版画であれだけのものを作ったのはたいしたものだが、作品自体が美しいとも思えない。もともと一種の趣味人(舞台ファン)のための役者のイラスト、といった趣のあるもののようで、あのくせを好きになれないと理解が進まないようだ。
 インドや東南アジアの神様の像の頭部だけを持ってきたものが陳列されていたが、あれは大変な迫力があった。顔が大きくて恐い。あんなのが実際に攻めてきたらたまらんなあと感じる。

 途中、美術館内の土産物屋に行く。しかしながら、あまりこれという品物がない。どうも微妙にセンスが悪い。きれいなカードゲームと絵葉書を少々買い入れただけにとどめた。ついでに昼飯を食べるがやはり高い。

 印象派のところにはモネがたくさん飾ってあった。これがなかなかよかった。ほとんど触れんばかりの距離でじっくりを見せてもらったが、とても気分がよい。絵のことはあまりよくわからないのだが、なぜだか感心した。少なくとも、色落ちのしない良い絵の具をたくさん使っている。一つ一つの色はてんでばらばらなのだが、遠くから眺めると確かにそのものの色になっていて、かつ絵になっている。

 単に写実的な作品であれば、ルネッサンス期でもすでに十分な精度を誇っている。斎藤まさおの「スーパーリアルイラストレーション」もびっくり、という感じの作品もある。しかし絵画はそれ以上をめざして進んだようだ。いわば「視覚の解体」とでも言おうか、人間がものを見ていると言う行為の根源にまで遡り、我々が脳で見ている視覚の多重に錯綜した構造を画家なりに解体し、そうしてそれを再びキャンバスの上に再構成して見せる。印象派の場合には色を分解して見せた。それが自分の物を見る感覚にマッチしている。そう思って眺めていると、真っ赤な和服?を着た女性を描いていた一枚(実は大作)だけが妙に浮いて見える。


 しばらく行くと、エドワードホッパーの「Room in Brooklyn」があった。ずいぶん前に絵葉書で見て以来、気になっていた絵だった。期せずしてここで本物を見ることができるとは、自分はたいへん運が良いと思った。ビルの一室で、後ろ向きの婦人が椅子に座って窓から外を眺めている。それだけの絵である。それがとても静かだ。部屋の中に音が何もない。動きもない。午後の日差しが部屋の中に差し込んでいるが、その光の白さが際立っている。この婦人は午後中ずっとこうして音も無く椅子に腰掛けているのに違いない。正直、この絵を書いてしまう画家の心持ちというものが恐ろしいと思った。この人は何を描いてもこんな感じになるから不思議だ。結局この絵の前には30分近く佇んだ。
 ホッパー以外のアメリカの絵画には見るべきものはなかった。唯一、クラウン(道化)を激しく描いたものだけが『この絵はもっと有名になっても良い』という気がしたくらいだ。それも画家の名は覚えていない。アメリカ美術の本領は、基本的にポップアートなどの現代絵画に発揮されるのかもしれない。この美術館はその点は弱い。アメリカというよりはヨーロッパのコレクションだ。

 以降、ふらふらと館内をさまよい、ヨーロッパのとても古い建物の内装、当時の生活用品などを見た。そこで感じたのだが、金や銀の器というものは、昔の薄暗い明りの、かつ窓もろくにないような、密かな空間に明かりが一つだけある、そういうときにこそ映えるのだと気がついた。現代のような、電気の白い光が部屋中に満ちあふれている住環境の場合には、あの輝きはむしろ目をちらつかせるだけだろう。

 出て行こうとすると、滝のような雨が降っていた。仕方なくしばらく休んでみる。頃合を見て出てみると雨は止んでいる。また地下鉄に乗って帰った。

 実は作品の写真を撮っていたのだけれど、フラッシュを使ってはいけなかったために、結局真っ暗で何も写っていなかったようだ。仕方ない。気に入ったものは実に長いこと眺めたわけなので、それはそれでいいだろうと思う。



・今度こそ

 学会が終わる際に、もう一度ホテルでレセプションがあるという。今度こそは、と思って出掛けていくと、今回は一応まともな食い物がある。各種のオードブル、マッシュルームにチーズを詰めて焼いたもの、豚肉のトマト煮込みといった普通のものから、焼き鳥、ギョーザのようなものまであったのには感心した。アスパラガスはきちんと火を通してあった。とにかくわっせわっせと食べ進む。
 しばらくすると、どうも地元ロックバンドの演奏が始まったようだったので、食べるだけ食べて日本人2名は退散した。もっとも、この頃になると疲れのためそれほど食欲はない。



・ちょっとした小物

 前回トロントに行ったときには、髭剃りを持って行ったものの電池を持って行きそびれ、なんとなく電池も買わずに結局1週間髭を伸ばしていた。今回はきちんと電池を買い、これでよしと思ったところが、ふと見ると爪が伸びていた。そうして爪切りを持っていなかった。まあ何とかなるだろう、という感じでしばらくいたのだが、1週間が過ぎるうちにじわじわと伸びてゆき、最後にはやや危険な状態にまで達していた。もしも2週間の滞在であればきちんと爪切りを買っていただろうが、1週間となると何とも半端で、ついついそのまま過ごしてしまう。このあたりタイミングがなかなか難しい。



・夜

 札幌よりも北ということで、ボストンは午後9時を過ぎるまで随分明るい。夕食を食べた後、近所のコンビニに出掛けた。品物を眺めると、まるちゃんのインスタントラーメンまであったのには驚いた。駄菓子はどれも極彩色で、何故にああした食い物らしからぬ色をつけてしまうものなのか理解に苦しむ。

 ふと気がつくと、回り中は皆黒人のお兄ちゃんばかりで、しかも表の街角にも何名かたむろしている。ちょっとやばいかな、と思ったのでジュースを一本買って即座に撤収した。
 とはいえ、日本でも公園で立ち話などしていると髪を染めた小僧どもにナイフで刺されてしまう時代になったらしいので、どの世の中も似たようなものかもしれない。





・重量

 帰国する朝、荷物をまとめる。重い。普通スーツケースというものには車輪がついているので、それをそのまま持ち上げる必要性はないことが多い。だから普段重さは気にしない。しかし、借りたスーツケースは片方の隅に取っ手がついているもので、移動させるときにはななめに持ち上げて重さを支えなくてはいけない(しかも位置の関係上右手でしか持てない)。大したことではないように思えるのだが、重さが増えると結構な苦痛になる。おまけに、世の中には階段というものがあり、そこでは車輪は使えないので、全質量を重力加速度に対して鉛直方向に持ち上げて地面に対する摩擦係数をなくしてから移動させざるをえない。などと重い方にばかり気を取られていると、背中に背負った貴重な物品の方に対する注意がおろそかになってしまいそうだ。
 自分でスーツケースを買うときには、縦長の方向においたまま横にずらして移動できるタイプにしようと決意する。

 行きと同じようにディズニーランド的行列ができていたNWの受付けで荷物を預けるときに重さを量ったところ、46ポンドという値が出た。50ポンド以上は別料金がかかってしまうらしく、何とかぎりぎりセーフと行ったところであった。学会会場で注文した学術関連書を別の船便で送ることにしたのは正解だったらしい。
 私達の横で同じように荷物を量っていたアジアのおっさんは、しかし何と98ポンドという重さを叩き出した。いったい何が入っているのか知らないが、とんでもない重さである。ここまで持ってきただけ大したものだと思う。かなりの超過であるのだが、おっさんはやおらその場でスーツケースを開け、内部からえらい量の紙束を取り出して別な荷物に積み替えはじめた。その後彼がどうなったのか我々は知らない。



・国際的なおお馬鹿野郎の巻

 シカゴで飛行機は遅れた。アナウンスによると、飛んできたときにエンジンが不調でいま現在エンジンテストを繰り返しているのだと言っていた。やれやれである。とにかく時間がかかっても良いから無事に帰国させて欲しいものだと思った。

 しばらくして何とか2時間遅れ程度で乗り込むことができた。ここから12時間という長いフライトの始まりである。最初の食事のときに自分はとっとと酔っ払って寝てしまおうと考えて、食事のときにワインを一本(とても小さい瓶だが)もらって飲んでしまった。後になりこれが問題になるとは知らぬ仏のお富みさんである。よく考えてみると、小さいとはいえコップ2杯分くらいはあり、しかもビールではなくてワインである。
 当初は気分よく眠っていたのであるが、そのうち何か変な気分がして目が覚めた。吐き気がする。どうも急性アルコール中毒で悪酔いしているらしい。酒を飲んで吐くとは、ここ7、8年以上経験していないことだ。判断を誤ったらしかった。トイレに吐きに行くが、こういうときに限って飛行機は揺れに揺れる。かなわんなあ、と思いつつしばし何とかたどり着いてげろげろしている。飛行機というものは普通は存外揺れというものは少ないもので、こういう袋というものが本当に必要なのだろうか、と常々不思議だったのだけれど、それはこういう大馬鹿者のために用意されていたのだということがよくわかった。
 5、6時間後には何とか復活し、機内映画(ジュマンジ)などを楽しむ。



・最後の試練

 日本に帰りつくと午後8時。飛行機が遅れたおかげでもう筑波センター直行のバスはない。そこで仕方なく空港の地下から電車に乗り、成田まで行ってから駅を出てJRに乗り換え(どういうわけか、そのあたりには東南アジアの人々がたくさんたむろしていた)、我孫子まで、そこで乗り換え荒川沖まで約2時間。当然駅にはエスカレーターなどない。最後の力を振り絞って荷物を移動させる。脚の痛みもピークである。荒川沖からの再終バスに何とか間に合い、山内さんの宿舎まで、さらにそこから山内さんの車で自分の車を止めておいた平砂宿舎のバス停まで送っていただく。このあたり本当に感謝である。11時に部屋に着く。前回と同じく、やはり日本に帰ってきてからが勝負だったと感じた。

 何とか晩ご飯を食べようと気力を振り絞る。しかし車を動かす力は残っておらず、歩いていけるファミリーレストランにふらふらとたどり着き、ねぎとろ丼(うどんつき)およびほうれん草のソテーを頼む。

 この時に『これが日本の味というものかもしれない』と感じたものが一つだけあった。七味唐辛子である。唐辛子自体は今は世界中どこにでもあるものだが、あの粉末の中に種々の薬味をいれて香りをつけて、かつ辛さを押さえている工夫というのは日本のものだ。味噌汁に適当に振りいれて飲んでみたが、この香りは悪くないと思った。
 いろいろ考えつつ、とにかくひたすら食べた。
 食べている間中、飛行機の揺れが体に残っていた。



・翌日以降

 土曜日に出発して日曜日に帰ってくるというような強硬な日程にしたため、実質丸3週間休みが取れなかった。おまけに帰ってきた翌日には、どうしても外せない、以降の就職に絡んでくるプレゼンテーションが控えていたので、翌日も定時に出勤する。そのプレゼンが3時に終了した後に、急激に消耗する。
 翌日、どういうわけか昼12時までまるで目が覚めず遅刻する。さらにその日の夜中、いきなり腹が減ってどんぶり飯をかきこむ。自炊の買い物に行けた翌日からは、鳥がらを煮込んで丸ごと食べ、ほやを酢の物にし、豚肉とナスの炒め物を作り、明太子とアボガドを付け合わせて、ピクルスをつまみながら朝からどんぶり飯を2杯ほど食べていた。体が回復のための栄養と睡眠を要求している。今現在まだリズムがおかしいが、いずれ何とかなるだろう。



・旅

 就職してから9ヶ月が過ぎ、海外に2回行った。ちょっと前までは考えもつかなかったことだ。世の中何がどうなるかわからないものだ。何れも公費ではなく私費であるのが痛いところだが、養う家族がいるわけでもなく、まあそのためにもらっている給料と考えてあまり気にしていない。今後も職があるのかどうかは怪しいが、今は好きなことをさせてもらっているし、どう転んでもいいだろうという感じだ。
 それに、自分がどう考えようと現実に貯金は減った。悩んだところで金は溜まらない。



 以上


go up stairs