六畳一間家賃弐万九千円における限界
部屋に本がある。いつのまにかたくさんある。
整理整頓をして、いらないものを捨ててしまおうとしているのだけれど、これがまた簡単には行かない。
積もった埃を払って、どんな本であるのかを改めてみてみると、どの本もそれなりにいい本のように思えてくる。ぱらぱらとめくってみると、なにかと参考になるようなことが随分と書いてある。読んでは感心する。すごいものだ。
とは言うものの、それらの本が生活に必要なものであるか、というとそうでもない。そうした埃をかぶった本の群れは、たいていここ数年間は手を付けもしなかったものばかりだ。とりあえず買った、もしかすると1回くらいは読んでみたのかもしれない。でも内容はあまり覚えていない。そんなものの集まりである。
実のところ、そうした本の多くは、「今に何かお話を書くときに必要になるかもしれない」という漠然とした予期に基づいて古本屋などから自分の部屋に移行してきたものが多い。そうでなければ「会社更生法による決算報告書」というような本を手に入れることもないはずだった。
で、結局それらの本は段ボールに詰められて、最終的には元いた古本屋に戻っていくことになる。要はこの数年間を自分の部屋で過ごしただけだ。何とも言えない。
そうして、それらの本を段ボールに適当に詰めながら思ったのは、この六畳一間のアパートに住む限りにおいて、そういった将来自分が何かをしようというための「備蓄」というようなものは極力排除しておかないことには、身動きが取れなくなってしまう、ということだった。
それどころか、とりあえず、「今この瞬間」に必要なものだけを見ておかないことには、もうすぐにわけがわからなくなってしまうことに気がついた。それだけではあまりに悲しいのだけれど、情報というものが異常に収集しやすくなってしまったこの時代においては、逆に「どれだけ余計な情報を集めない・情報に触れないでいられるか」というところが大切になってくる。
実際、今の世の中では、情報というものは、今はその気になれば即座に収集することができる。だから、自分の手元にはその収集のためのツールと、どこに収集しにいけばよいのか、という「ポインタ」だけを残しておけばいい、ということに思い至った。
そうして、実際に大切なのは、情報を集める以前に、自分が何を集めたいのか、というそのあたりをきちんと考えておくことらしい、ということにも気が付いた。
まあ、そういう「当たり前」なことに気がついたからと言って急速にどこかをどうかする、というわけでもないのだけれど、とりあえずこうして辺りを見回すと、まだまだいろいろと捨てることができるものがたくさんあるのだな、ということが見えてくる。何のことはない、自分の周囲に存在するほとんどが不要なものばかりだ。
世の中には「8:2の法則」というものがあるらしい。それは、たとえば「全体の仕事を10、かかる時間の総量もまた10とすると、仕事うちの8までを仕上げるのに時間としては2しか必要としない。しかし、残りの2を仕上げるために結局あと8かかってしまう」というものらしい。
自分の周囲にも似たようなことが言えるのだろう。本当に必須なものは持ち物全体の2割程度ではないかという気がする。残りの8割は、いつ役立つでもなく、ただ呆然と時間と場所を過ごしているのに違いない。「スタージョンの法則」というのもあって、そこではもっと極端にこの割合が9:1になっていた(元の意味は若干異なるが)。
世の中の多くは無駄からなりなっており、その無駄の下に私達は生きている。それが本当に「無駄」と呼ぶべきものなのかどうか、書いてきた自分にもよくわからないのだが、少なくとも当面の自分には必要のないものなのだろうと思う。
そこで部屋の隅に転がっている段ボールにそういったいらないものを詰め込んでみる。段ボールという入れ物は存外すぐにいっぱいになって無くなってしまうので、自分はあらためて段ボールをもらえるジャスコなんかに行って買い物をしに行こうと思っている。
こんなことを何年に1回くらいは考えて、そして実行する。その度ごとに部屋は一瞬片付くのだけれど、その開いた空間にまた何かを詰め込みたくなってしまう。そうしてしばらく経つと、またなにかと部屋が狭くなったような気がしはじめる。捨て去るものの内容はその都度異なるのだろうが、似たようなことを繰り返しているわけなので、まあ概して自分が成長していないことはよくわかるものだ。
<完>