handicapped


 スクリーニングテストによって、障害を負っているとあらかじめわかっている胎児をどのように扱うべなのか、という問題についての考察。ってほど結構なものでもないんですが。





 この問題については、私の中に立場の異なる二人の人間がおり、その各々が主張をしていて、その各々が正しいように思える。

 この二人は、ときどきこんな会話をしている。



「人間は生きていく権利があるものだし、胎児といえどもその権利は奪われるものではない」
『確かに生きていく権利があるのは事実だが、その言葉が主張するのは単に生命の保証だけであって、生きているだけでは人間とは言えない。生まれた人間を受け入れる社会がなければ意味がないのではないか。そして現在の日本の社会には受け入れる体制が整っているとは言い難い』
「それは事実だろう。だから、親は自分の子供の受け入れ体制を作るべく社会に対して働きかける義務が生じてくる。普通の子供はたまたま既存の受け入れ態勢の中におさまることが多いだけの話だ」
『親もまた自分の生活を選択する権利がある。そうした働きかけをすることは、時間的にも経済的にも精神的にも、それ以外の社会生活を圧迫する場合もある。親自身が自己実現のために行動する場合には、そうした障害児の出産を拒否する権利を実行に移すことも認められるべきだ』
「生まれてくるはずの子供の権利はどうなる」
『親の責任の下で自然に返される』
「便利な自然だ」
『もともと自然の状態で生きていけない生物は淘汰される運命にある。人間だけがそれを免れるのは傲慢だと思わないか』
「誰でも人間は普通は自然の状態では生きていけないよ。その点は障害を持った人間に限った話ではない」
『一生親に面倒を見てもらうような動物はいないだろう』
「親の面倒をみる動物もいない。そうした相互扶助が人間と動物とを分けているのだとしたら、障害を持った人間の生活はまさに人間というものの意味を示している存在だ」
『遠目にみればそういう言い方もできるだろう。だが実際に、親が死んだ後の生活を支える人間がいなくなる可能性があることを考えると、その“人間というものの意味”はいささか残酷でかつ悲惨な側面を示す場合もあるだろう』
「否定はしない」
『それでもまだ生かすつもりなのか』
「傍目から見て悲惨だと決め付けるのは勝手な話だ。各人の生は各人が意味付けをするものであって、場合によってはその当人の意味付けすら無意味なものだ。障害の有無にかかわらず、生命が生きていくことは大変なことであって、その戦いをすることがまさに生きることに他ならない。障害の有無にかかわらず、誰しも自分の生を闘う権利を持っている。親が産まないことは、リングに上がる前から闘う権利を剥奪されるようなものだ」
『リングで闘って死ぬのは仕方がないと』
「そうだ。自然淘汰で死ぬのであれば」
『それは自然淘汰なのか。むりやり敗者を生成していないか。本来であればいなくても良いはずの敗者を。リングに上がるはずのない素人を無理矢理にリングに上げていないか』
「生きてゆくことにはプロもアマチュアもない。さらに言えば、勝ち負けもない。自分で判断するだけの話だ。健常者も障害者も関係しない。自分で自分をどう見るのか、という視点があるだけだ」
『君のいうのは強者の視点だ。十分に闘うことのできる人間の視点だ。君は本当の意味で負けたことがないから、地べたを這ったことがないから、そういうことが臆面も無く言えるんだ。負けるというのはすごいことなんだぞ。もう二度と闘えなくなることすらあるんだぞ。そういうときの苦しみや悔しさや悲しみを、君はどう思うんだ』
「社会の中に生きている人間はいつか負けることがある。それを恐れていては始まらないだろう。たとえ誰であれ。立ち直れないような負け方をするときもあるだろう。仕方のないことだ。世の中は基本的には強いものが勝つ。ただ、それが何において強いものなのか、という規定はない」
『肉体や精神以外に、どんな規定があると言うのかね』
「わからない。ただ、それを作り出しさえすれば、体が動かずとも、あるいは心がうまく動かずとも、いい勝負ができるはずだ」
『誰がそれを作るって言うんだ。自分か、親か、それともあてにならない他人か。闘いの最中のライバルが、どうしてわざわざそういうことをしてくれると思えるのかね』
「それがまさに人間だと自分は信じているからだ」
『人間社会と言うものが、他人様とのライバル意識と信頼関係との間で微妙に成立しているものである以上、確かにそれも一つの姿勢だろうとは思う。しかしどこにも保証はない』



 ふらふらと揺れていて、最初と最後の関連がなんだかよくわからない会話なのだけれど、それでも自分の中に主としてこの二人のような立場の人物がいるのは確かだ。

 以上の会話の中で、「」の人物はどちらかといえば“中絶反対”、『』の人物は“中絶賛成”という基本姿勢を取っているが、実のところ話はそれほど単純ではない。

 この問題は、もはや生き方のようなものの領域に絡んでいて、どちらの意見も絶対手放しで賛成することはできない。自分の中でも、上記のような会話が頻繁に行われていて、結局答えは出ない。

 自分の中においては、それでいいのだろうと、自分は思っている。自分の内部においては。





 自分には、自閉症の知恵送れの姉がいる。
 自分よりも一つ上なので、今年もう既に30歳になっているはずだ。当然のように、結婚していない。
 今現在は自宅から授産所と言うところに通っていて、毎日の面倒は親が見ている。親は既に60を越えている。
 いずれ、富士の麓に施設を作り、そこで一生を送れるようにするのだということだ。もうそろそろ建物はできたらしい。

 親が死んでしまったり、あるいは身体が動かなくなってしまうと、もう面倒を見ることはできない。自分は実家から遠く離れたところで仕事に就いている。戻れるのかどうか、保証はない。だから、親はお金を出して、一所懸命に運動をして、県に施設の申請をして、10年以上かかって認められ、そして歳をとった。

 姉が子供の頃は、親は毎日手を引いて遠くの幼稚園や小学校まで出かけ、中学高校は隣の市だった。一応は一人で通っていたのだが、ときどき姉は学校がいやになってしまうのか(どんな学校においても社会的な競争というものがあり、強いものと弱いものが出現する。そして姉は明らかに「弱い」側に属していた)、ふらふらと知らないバス路線に乗っていってしまったりして、親は苦労していた。

 そういう折に、自分はふと考えることがあった。
 自分は死ねない。姉より先には死ねない。
 いつか施設にいくとしても、そこは自分の家ではない。姉にとっては、どうして自分が住み慣れた我が家を離れてそんな建物に住まねばならないのか、というところを理解すること自体が大変だろうという気がする。実際、自分だってそう思うだろう。たまたま、自分は一種の社会的通念に従って大学に入学するときに家を出た。だから自分で納得しているという、それだけの話だ。
 そういう概念のない姉が、一人で施設に住んで、そうして何十年かすればいずれ親がいなくなり、肉親はほぼ自分だけになる。住み慣れた家ももうなくなっているかもしれない。そういうときに、姉に会いに行く可能性のある人間は、自分だけになるかもしれない。
 寂しさ、とか孤独、という概念を、自分は一応知っている。間接的にも、直接的にも、知っていると思う。多分そう思える。
 だから、自分はなるべく長く生きて、姉を訪ねなければならないだろうな、と思った。どれだけ近くに住めるのか、それはわからないけれど、そうしなければならないだろう、と思った。

 いま現在、自分は静岡から離れている。これから先、戻れるかどうかというあてはまるでない。自分の生きる方法を支えるだけで精一杯で、余裕がない。それでも、やはり死ねない、という思いだけは強い。





 カフカに「父の気がかり」という掌編がある。

 「おどらでく」と呼ばれる存在をいくつかの側面から記述している、見開きにおさまってしまう程度の作品だが、しかし、自分にはこの作品が妙に重かった。

 自分にとっての「おどらでく」の正体、というものが、いくつかの意味で明白に思えたからだ。

 これ以上は書かない。



 スクリーニングテスト、という概念を扱うに際して、非常に微妙なものがあるのは事実だ。どんな意見でも、絶対に正しいと言うものはない。この言明ですら、不安定なのだ。そして、現実にテストは存在し、利用されている。時間というものは流れ続けるもので、そして現場は忙しい。

 そうして、いろいろと考えれば考えるほど、意味のあることを言うことができなくなる。現状を眺めることしかできなくなっていく。


 果たして、これは時間が解決する問題なのだろうか。



<完>