まことにもって、人は多様な食物を嫌いになる。
何かを好きになったり嫌いになったりするという現象の本質的なところがどうもよくわからない。
自分にも一つ経験がある。
保育園のときに、フルーツサンドというパンが給食に出ていた(正確に言えば、それはたまたま自分が家庭の都合によりその保育園に移ってきたちょうどその日のことで、私の分の給食がなかったのできっと先生がわざわざ買ってきてくれたのだろう)。その食品は、短い4年半の人生においてはじめて味わう“まずい”という明確な感覚を自分にもたらした。
きっと先生は幼稚園の子供に似合うような菓子パンを買ってきてくれたのだろうが、しかし子供にとっても(今現在の自分にとっても)まずいというものはとことんまずい.子供だからわからない、ということは絶対にない.いわゆる「フルーツ」が挟まった長めのパンだったのだが、とにかくそのクリームの部分がねちねちしていて妙な匂いがし、しかもパンの部分はかさかさで、まことに気分が悪かった.いま思えば、それはいわゆる大手の製パン会社の製品で、どうすればこんなにまずい食品を開発できるのか、不思議なくらいの物質だった.
その時自分は、はじめて「食事においてものを残した」という経験をした。
それがいやだったのかもしれない。
おかげで、それ以降この“フルーツサンド”という物質に対して嫌悪感を抱いていた。今あらためてそれを“嫌いだったのか?”と考えてみると、きっと当時はそれが“嫌い”だったのだろうと思う。それが崩れたのは比較的最近で、大学の先輩が食べていたのを見て、さらに自分が買って食べてみて、「ちゃんと作ってあればうまいもの」であるという認識を新たに得た。
ということなので、この問題は解決されてしまった。もはやクリームサンドを“嫌い”ではない。「ひどくまずい(しかも正体がわからない)ものは食べたくない」の範疇に入ってしまったのだから。
結局、自分においては“明確な理由づけが思い浮かばないままで、その食品が食べられない”という状態を「嫌い」である、というように表現してみてもいいのかもしれない。
嫌い、という状態とはやや異なる事態もある。
「甘すぎる」ないし「塩辛すぎる」物が「多量に」ある、という状態はできれば避けたいものだと思っている。特に、3番目の「多量にある」という状態は、どのような食べ物に対してもあてはまる。どんなにおいしいものであっても、自分の欲する量以上に食べなければならない、とするとそれはもう苦痛だ。ときどき「何を何分で食べれば“ただ”」というようなお店があって、胃袋に自身のある若者の挑戦を受けているみたいなのだけれど、あれはきっと食べているうちにいやになって味はどんどんまずくなっていくだろう。どうして頼まれもせずにそういう苦行に挑むのか、どうも自分には理解できない。
好きも嫌いも、いわば主観の極限値なわけで、相手が食べ物だろうが生き物だろうが人間だろうが言葉で合理的説明をつけることは難しい。仮に説明をしたとしても、えてして無理なものになりがちだ.親にむりやり食べさせられた幼い頃の話なんかを持ち出す例が多いのだが、そもそも「むりやり食べさせられた」という意識を持っている段階で,そもそもすでに“嫌い”だったのであって,その“嫌い”感覚は親の行為の介在以前にすでに存在していたわけだ.結局これは言葉や理性的な説明では伺い知れない、本能のような領域なのかもしれない、と思えてくる。
#人間を好きになったりするのも現象としては似ているのじゃないか、と思う。なぜあの人のことを好きなんだ、と自分を問い詰めていくと、実は理由なんぞは後付けである。まず相手に惚れることが先にあることに気がつく。後のことはそれに付随した尾鰭にすぎないようだ。
とはいえ、奇妙な相違点も存在する。自分の好きな食べ物を公言することにはばかりはないが、自分の好きな相手を公言する、ないし相手にそれを伝えるのは、なぜか理由はわからないのだが、心的困難や内的抵抗が伴う。冷静に考えてみればまことに奇妙な現象だ。これが解明できればおもしろいことになるのではないかと思えるが,今のところいい考えもあまり浮かばない。主観に対する「他者」と「食べ物」の性質の相違、というものの相違といっても、あまりに違いすぎて逆にわからないものだ.
で、人間が相手だったりすると、一般に普段の接触頻度が高い対象ほど好意を持ちやすくなるという。しかしながら、食べ物の「嫌い」に関しては同じものが毎日出てきたらそれだけ不快感が高まる。してみると、食べ物に関しては、こうした接触頻度の理論が通じない例であるということがわかる。これも不思議なものだ。給食などで出てきてしまうと、すべて食べねばならない、という条件があり(そういう指導がなされることが多いが、しかし“まずいものはどうしたところでまずい”という事実を否定はできまい)、嫌悪感がその度毎に増加していくという仕組みが働いている,ということはままあるかもしれない。
基本的には、何でも食べることができるに越したことはあるまい.嫌いなものが多い人はそれだけ多くの味を知らないわけで、不幸といえば不幸な気もする.とは言うものの、“嫌い”という感覚を理解しないのも、それはそれである一つの感覚を知らないことになる。
嵐山光三郎氏は“ちょっとまずいもの”の効用を説いておられる.読んでみて,なるほど,と思った.うまいものは“うまさ”という軸においてその単極のみを指向した結果にある.結果として出来上がったものは余計なものを削ぎ落とした単純な形になる.そういう事物は存外姿が見えにくく,シンプルにすぎると感じられるのかもしれない.「これはただうまいだけではないか」と。
いやにならない程度の,あまりまずすぎない,“ちょっとまずい”ものをよく味わうことで,どこがどう“まずい”のか,それに対してどこがどう“うまい”のか,というあたりをよくよく感じることが出来る.そういうものだと考えると,自分が日々摂取する数多くの食品類は,実に示唆深いものであるということがうかがえる.
端的に人間は雑食性だ.草も肉も魚も虫も菌類も藻類も醗酵物もなんでも自分に取り込んで糧にする.分解できないセルロースの類や生の無機物等を除けばたいていのものを(時にはそれすらも)食べてしまう.考えてみるとすごい生き物だと思う.
それだけ生きるのに必死な、何でも食べなければ生き続けていけない、弱い生物だった、ということを示しているような気がしてならない。
そうして、食い物に関して“好き嫌い”が言えて、それでも生きて行ける世の中が出来上がった今現在、人間の地位というのは生物界において確実に上がっているのだ、という気分にもなる。
そういう状態を今後も長く保ち続けることができるといい。
とはいうものの、個人的には、“好き嫌いのとても多い人”は(“嫌い”じゃないんだけど)「苦手」だなあ。
<完>