名古屋漫遊記



 99年の秋に名古屋で行われた日本心理学会に出席するに際して、いろいろと感じたことを述べて見たりしたものです.
 例のごとく例のようなものであります.
 ではスタート.



9/4(土) 前日


 明日から学会である.これまでに発表したテーマの別な実験を発表するので、まあある意味でマンネリである.新しい環境で多少苦労したものの、すでにポスターは出来上がっている.画面とプリント仕上がりの色のギャップにはいつもいつも悩まされるが、まあもういいだろう.行方がわからなかった予約参加章もいつのまにやら部屋の隅の小袋から出てきた.問題はない.

 そう思っていたら、実は名刺がないことに気がついた.今回の新しい職場もやはり公費で名刺を作ってはくれない.そこで,こんな日も来ようかと買い入れてあった手作り名刺セットの袋を開き、コーヒーなど飲みながらいそいそと作る.しばらくすると出来上る.名前よりも電子メールアドレスのほうが大きな印刷に仕上がった.いいんじゃないだろうか.電子メールのアドレスというものは、ある意味で名前と住所と電話番号を兼ね備えたものとなっているので,本当はこれだけでいいのだ.名前のほうがいらないのじゃなかろうかという気になってきた.すでに自分の主体的存在はネットワーク上にあるのかもしれない.

 いろいろと物を持って出る.引っ越したためか遂に届かなかった論文集を漁田先生からコピーさせていただき、作成したポスターをファイルケースに詰め、パンフレットをぼんやりと眺め、予約参加証を持ち、とりあえずはそんなもので大学を後にする.後は着替え、退屈なときに読むべき本、そして忘れてはいけないカレー屋の本を持っていくことだ.以上あらためて確認する.
 寝る前に脳研究の関連を何となくチェックする.いいなあと思う.自分にはもう手が届かない.
 いつもと同じように眠る.



9/5(日) 初日


 初日の午前中という概念をあまり意識しておらず,のんきに起きて家を出る.「あんまし見たいものはなかったような気がするなあ」という程度でぼんやりしつつ,便のいい大学まで車で出て、そこからバスに乗り、新幹線に乗り、ということを珍しくほとんどロスタイムなしでクリヤする.

 今回の学会は名古屋である.浜松からは比較的近場といえる.が,それでも新幹線で小一時間はかかる.こちらに来るまでは、浜松と名古屋はほとんど隣同士だと思いこんでいたので,意外に距離があることには驚いた.100Km弱くらい離れているようだ.つくばと東京以上の距離ではないか.

 新幹線の中であらためてチェックしていくと、あらまあ、これまで「生理」ジャンルだと思い込んでいた脳研究の多くが実は「認知」ジャンルに登録されていて,それがなんと初日の午前中であることが判明する.やれやれと思い、少しがっかりする.時代が変わって来たのか.数年前まではこんな研究は日本心理学会には出てこなかったし,出ていたとしても,生理学の方法論的な側面で注目されていた.今回は方法論はさて置いて,認知研究という実質的な内容面で分類されはじめている.
 しかし昨今どうもこういう思い違いが多いものだと反省するが、まあ仕方がない.実際に生理ジャンルにも脳研究はいくつかあるので,それをきちんと見ようかと思う.

 名古屋浜松間は3駅、こだまで小一時間であった.名古屋駅から地下鉄で乗り換え1回で中京大学へ.めでたく午前中の発表が終わったところであった.エントランスでさっそく知り合い何名かと遭遇.どうもどうもと述べあう.まだ初日ということなので「ではまた」と別れたが、こういう人に限ってその後二度と出合わなかったりする.

 朝からろくにものを食べていなかったので,学内のそばうどん屋で飯を食らう.集団で押し寄せている人々の席取りに巻き込まれかける.いくら学会とはいえ、ああいうむやみに混んでいるときに,机を二つ以上必要とするような集団でものを食べようというその考えかたが理解しにくいと思った.

 午後からポスターセッションを眺めることとする.それなりによかった.すでに足は痛いので,休憩所で休みを取りつつ、気が向いたら出歩き、ポスターを眺め、人がいれば話をし,知り合いと出会えば「どーも」と交わす.基本的には三日間この繰り返しだった.会場にある本屋の出張所で講義の参考になりそうな本をいくつか買い(学会会場で買うと2割引だったりするのだ)、重くなった荷物をクロークに預け、等々しつつあたりをうろうろする.
 夕方からはワークショップがある.自分は最近「嘘発見」関係の本のごく一部を書かせてもらった経緯もあり「嘘発見」の部屋に行く.が、この頃は疲れがピークで,意識は朦朧としていたことが多かった.内容的にも、発表者同士,話が今ひとつ噛み合っていなかったような気もした.

 6時前に終わる.出口で誰にも会わなかったので,一人で地下鉄に乗る.栄にカレーを食べに行くこととする.もって来ていたカレーの本には栄の店が二軒掲載されていた.そのうち一つを目指そうを考えた.すると、駅のホームで以前の職場での友人夫婦に出合う.先日結婚されたばかりで二人そろって出合うのは初めてであった.あいさつし,しばらく一緒に電車に乗り、昔の職場の話などしている.あいかわらず大変そうだ.途中で私はふらふらと別れて栄に.

 電車の中で,その奥さんのほうから、運良く「名古屋ホテルパンフレット」のようなものをいただいた.これがラッキーだった.例の如く宿など決めていないので,それまでは、今池に戻ってカプセルホテルを探そうか,と考えていたのだが、そういうものは栄にもあるということがわかった.カレーを食べて、そのまま宿に向かえるではないか.運がよかった.栄で降りてしばらくあたりをつけつつあるいていくと、ほどなく目的のカプセルホテルが見つかる.カプセルにチェックインして,すぐにカレーを食べに出かける.本当はすぐそこにあったのだが、例の如く方向を誤り、30分ほどかけてたどりつく.こういうところの高橋の方向性の悪さは特筆に値する.

 ホテルの1階にある「スパイスの秘境」という名前のお店であった.ここでは「幻のカシミール」という名古屋コーチンを使ったカレーがあるので,それを頼む.待っている間、「敵は海賊・不敵な休暇」を読んでいる.面白い.
 来る.食べる.中のコーチンは歯応えがある.カレーもうまいと思う.インパクトはそれほどないが、でもうまいと思った.上野の「デリー」や「夢屋」に似ている気がした.直接食べ比べればもちろん相応に異なるのだろうとは思うが、しかし心の中のイメージが似た印象がある.他のところでも書いているが、このタイプのカレーはよほど個性がないと,「デリー」のバリエーションとして解釈されてしまうのではないか,と思う.ここでは名古屋コーチンが確かに個性だが、しかしカレーにおける問題は主としてルーにあるという姿勢を取る私にしてみれば(よほどの出汁が出ていない限り)特筆すべき個性とは感じられない.しかしもちろんうまいものだ.問題はない.
 コーヒーを頼むと、四角い板のような取っ手のついたカップで出てきた.やや持ちにくいが、まあいい.食べ終わり、まだしばらくは本を読み、足と胃の薬を飲み、適当なところで宿に戻る.

 宿に戻るとさっそく風呂に向かう.風呂は当然サウナがついているが、それ以外にもいろいろある.列挙してみると、大きな風呂桶、浅い寝湯、サウナ、塩サウナ、冷凍サウナ(冷凍庫のようなものだ)、墨風呂,とまあ,多種多様だ.サウナでミュージックステーションを眺め、誰もいないのをさいわいに「水色の雨」など唄ってしまう.体が暑くなると冷凍サウナに出向いて冷やす.自分には水は冷たすぎるというときが多いので,これは助かるものだと思った.しばらくいると冷えてくるので,サウナやら湯船やらに向かい、暖まる.熱くなるとまた冷凍サウナに戻り、冷やす.塩サウナというのも試そうとして腕などに塩を擦り込んでみたのだが「よくわからん」と感じてやめた.次の部屋に油とかクリームとかを擦り込む部屋があったらどうしようかという感じっす.

 好きなようにのんびりし,カプセルに戻り、さらに本やら学会のパンフやらを眺めてから眠る.



9/6(月) 二日目


 朝食はどこかマクドナルドのようなところで食べるべし、と思っていたが、どうも見当たらない.そのままずるずると学会会場付近までやってきてしまう.ようやくパン屋さんを見つけたので,そこでいくつか買い入れて学会会場のすみっこで食べる.

 さて、またポスター見学である.
 知り合い2名と出会い、昼と夜の約束をして別れる.ポスターはそれなりに面白く、各所で話をする.が、疲れてしばらく休んだりしている.
 昼は大学の同期と先輩との三人で外に出かける.久しぶりであった.御両名とも大学人なので,いろいろと参考になるお話しを伺う.どの人も似た問題を抱えているのかもしれないと思った.

 午後も同じようにポスターの間をうろうろする・休む、を繰り替えす.夕刻のワークショップは、「メディアで学ぶ心理学」というところに出没した.これは要するに心理学の講義の方法論の話であり,特に大規模な講義教室で行う際の方法を考えるもの、だと思う.いろいろな教材の話とか,各自の工夫が聞かれた.ちょっと自慢話も混じっていたようにも聞こえたが、まあこれは仕方ないだろう.自分も学生さんからのフィードバックをもっと取ってもいいかもしれないと思った.DVDのカウンセリングの教材は、同じカウンセリング場面をカウンセラー、クライアント、両者を含めた視点、の3つの面からモニターすることができる、というものだ.各視点は自在に切り替えることができる.これはなかなか講義に利用するには役に立つだろう.昔自分が学生のときに見た,代表的な3種類のカウンセリングのビデオも、こういう形で再編集してくれないだろうかと思った.

 6時前に終り、エントランスに向かう.しばらくして3名が揃い、さっそく出かける.
 しばらく迷った末に、洋風の飲み屋に入る.飲み食いする.それなりにうまかった.ベルギーの果物の含まれたビールがあり,好みだった.あれは自分のうちの辺りにあるといいなあ.肉もうまかった.マンガの話など、いろいろと雑談をする.途中で一人抜け、最後のほうはなぜか宗教のほうに向かう.

 自分は無宗教的であるが、無信仰というわけではなさそうだ.神社仏閣に行けばそれなりに参って礼をして祈る.ただし、それはいつも独りだ.みんなで一緒にではないし,強制されるものでもない.
 宗教はもしかすれば人類に必要なものであろうし,宗教を信仰している人もよいと思う.ただ、宗教と宗教団体とは区別せねばなるまい.宗教団体というものはそれ自身が自己の存続を図るための組織であり,その点ではその他の人間の組織と大差はない.教義というものは内部においては透明・必然なものであり,外部に対しては主張のためのツールとなり、武器となり,網のように人間という構成要素を搦め取る.それ自体に善悪はない.ご利益というものも,その成否は主観によるものだ.もとより因果関係は主観であり、作られた因果に「誤り」は原理的に存在しない.如何とらえようと勝手だ.人間は事象の間にみずから進んで因果関係を見つけ出し、その説明をもって納得する癖があるのは日常的に誰しもが体験している.
 ご利益の出現機構をブラックボックス的にとらえて、「ブラックボックスの中身は問わないこととする」,すなわち「宗教的行為」>「ご利益」という刺激と反応の系だけを問題とするような「行動主義的な宗教思考」も可能だろうが、本気で“宗教”に取り組む場合には,それもそれで不遜だという気がする.その時の自分の目と耳には、現世の利と集人を目的とする宗教団体の姿が見えたが、どうも信仰が見つけにくかった.むろん、それは話をしてくださった方が私のレベルに落として話をしてくれたのだろうとは思う.そして、それはそれで話としては理解できる.

 しかしながら、あらためて非常にまじめに考えた時に,自分にとっての信仰とは、集団で行うものではなく,自分が単独で大きな何者かの前に立つ、その「場」それ自体なのだろうと気が付いた.決して階層をなす人間の組織の中にはありえないし,ご利益という概念ももとよりない.教え導くのが仏なのらしいが、神はこちらに無関心が本来だ.いずれが好みかは人それぞれだろう.
 おそらく、純粋な信仰の側面からは,自分は,人の化けた仏ではなく,本来人間とは無関係に他者であるところの神との会話が望みなのだろう.手応えはないだろうが、自分は変わるかもしれないし,変わらないかもしれない.そういうものだろう.傲岸不遜だという気もするが、それが本音なのだから仕方がない.

 とは言うものの,まあ人は信じたいものを信じていればいいのだ.神社仏閣に手を合わせるのも教会に通うのも,それはそれでたぶんいいことだろう.心にはいろいろな使い方があるのだから.


 いろいろと考えて別れる.
 さて、一人になった自分は今池に向かった.今池には昨日泊ったカプセルホテルの別店舗がある.地下鉄で降り、駅の地図を見るとそこに書いてある.ラッキーと感じる.簡単に見つかった.カプセルに泊ろうと思ったつもりが、サウナの方の窓口に行ってしまうが、まあそれでもよいとし、今晩はサウナの仮眠室に泊るものとする.実はその方が足にもよい.かかとの痛いところは、普段眠るときには敷ぶとんを二枚重ねにして(下の敷きふとんは折り畳んでいるので実質3段)でかかとを外に出して寝ている.そうでないと痛くて眠れない.ところが、カプセルホテルは構造上そういうことができないので,初日は辛かった.仮眠室の別途は、一種のスツールになっており,足は自由に出せる.この方がずっと楽だ.

 さて、さっそく風呂場にゆくと、今回はさらに豪華であった.普通の風呂、サウナ、水、冷凍サウナ、塩サウナに加えて、低温のスチームサウナ、そして30度くらいのやや広めのプール、そして温泉が存在していた.しかも、一応温泉は露天である.初めはそこに温泉が涌いているのかと思っていたが、どうも岐阜のほうから湧いたお湯をもって来たらしい.循環させているわけなので,あまりきれいではないのかもしれないが、まあいいだろう.外も街中なので,風呂が外にあってもみえるのはビルの壁ばかりだが、とりあえず外気に触れられて喜ばしい.温泉の横にはビーチソファーがあり,横になって休むことができる.さらに、プール的湯船は外から部屋の中につながっているので,なんとなしに外と中を行き来できるのだ.少し嬉しい.のんびりとサウナやら温泉やらプールやらをぐるぐると回り、飽きた頃に出る.なかなか楽しめた.

 ホテルに入ったのが遅かったので,仮眠室は既に埋まりかけていた.自分は個人テレビのあるところに向かい、最後に一つ空いていた席をゲットした.が実はこれが意外にきつかった.となりや後ろのテレビの音が意外に大きく聞こえてくる.失敗したと思った.これならば、むしろ共有テレビのあるところのほうが早めにテレビなど消してくれるわけなので,むしろよかった.テレビでは「この街大好き」みたいな教育番組をまとめて再放送していたが、何故そんなものを深夜に放送するのかよくわからないと思いつつ眺めている.
 しばらくして、眠る.



9月7日(火) 三日目


 最終日、地下鉄にて会場へ.すぐにポスターセッションへ.記憶関係に入り浸り、そしてどうも疲れているので休憩しつつ、あたりをふらふらしている.午前中,最後に生理のところで昔の研究所の知り合いと出会った.一緒に昼飯を食べに行く.きしめんを食べるが、細くて平たいうどんであるという感慨を持つに止まった.

 さて,午後になり、ようやく本番である.やっと自分の発表が始まる.自分のポスター発表のところにゆくと、画びょうが足りない.受け付けで予備をもらって何とかボードに貼り付ける.パネルには,A4は横には3枚までしか設定できないものだとわかる.縦が4枚から5枚が限度なので,合計で15枚程度が上限になるということを理解する.

 貼り付けてしばらくすると、同じようなことをやっている近所の顔見知りの研究者の人が来るので,どうもどうもと言いあい、説明などする.あまり説明をしていたので,危うく出席確認を外す所だった.今回で同じテーマで3回目だが、少しずつ面子が固定されつつある.数人の人を相手に説明する.同意してくれる人もあれば、感心だけしてくれる人があり,質問をしてくれる人もあり、いろいろである.
 だが、実のところ、まだ自分は何か見逃しているという印象がある.口ではそれなりに説明し,確かにそれはそれで整合性もあるのだが、心の中では引っ掛かる点がある.同業者は私とは異なった視点で現象をとらえているので,話が噛み合う部分とそうでない部分がある.難しい.こいつが論文になるか否かが食いぶちに絡んでくるので、考え込まざるをえない.また、いつまでもこれだけでは食えないので,もう少し新しいものを考え出さないと辛くなってくるのも見えている.本当は脳研究を行いたいと思えども、一人ではどうしようもない.研究面ではやや手詰まりになりつつあるのが現状だ.が,新しい職場では,ここしばらくは教育業務の方になれるのが精一杯だろうという気もする.

 時間が来たのでポスターを片づけ、発表者印のリボンを返して建物を降りてゆく.ワークショップに出ようかとも思ったが、しかし疲れていた.誰もいないテラスの椅子に座り、前の椅子に足を投げ出して休んだ.3時間ほど立ったままであったので,足は疲れている.ここしばらく会場に来るまで地下鉄の階段を昇ってくる必要があったが、その途中で足が疲れてしまう.体が弱っているという印象だ.後日出向いた医者で血液検査をしてもらったところ、やはり体(足)が軽い炎症を起こしている値が出たという診断が出た.それほど病的ではない、という程度の数値だったが、しかしその状態が既に8年続いているのだ.これによって失っているエネルギーは累積してみれば莫大なものだろうと思う.

 そして小一時間休んで、何とか回復する.すでに夕刻近い.会場を出ようとすると、遠くから呼び止められる.前の職場でいっしょに研究をしていた人々だった.以前のデータの解析をあらためて頼まれる.しておいたつもりで職場を去って来たのだが、どうも手違いで表に出ていないようだ.昔の記憶をたぐらねばならないので,大変かもしれない.また、自分で取ったデータもすべてのデータを含めた再分析を行いたいのだが、しかし現在の自分の環境にはハード、ソフト共に制約があり,実は自信がない.なんとかしなくてはと思うが、なんとも身動きが取れない.event related fMRIができるようになった旨を聞いて喜ぶ.よかった.自分がその場にいれば、さっそく実験に使えるかどうかをチェックするところだが,今そのあたりはどうなっているのだろう.
 しばらく話をして別れる.

 気になっていた会場の近所の古本屋によってから地下鉄に乗り、大須に向かう.
 何年か前に来たときにはここのホテルに泊った.ついでにそこの大須観音というところでお参りをした.その時、自分はあることをお願いした.それで、その願いはある程度かなったような気がした.そこで、自分はお礼をし,そうしてもう一度お願いをした.むしの良い話だとは思うのだが、夢の続きをみたいと思った.お賽銭を上げ、お線香をたいた.こういうことは宗教的な行為というよりも,民族的な風習のようなものと考えた方が理解し易いのかもしれない.だが,いずれにせよ,これを“みんなでやりましょう”といわれたら自分は背を向けるだろう.
 そこから大須を歩いた.何となく懐かしかった.今となっては珍しい、アーケードの通りが続いている.こういう雰囲気は好きだ.行って戻って、土産に個人的に好物のういろうを買う.

 そのまま名古屋に.駅ビルの本屋で京極夏彦の「わらういえもん」を買う.夕食は駅ビルの上でまたきしめんを食べてみた.今度はつけ麺タイプだったが、やはり平たいうどんのような気がした.食べ終わってから店の並びをぐるりと回ってみると、実は名古屋コーチンを適当な値段で食べさせてくれるような店があったので少し残念に思った.

 新幹線のホームで休む.こだまに乗り込む.「敵は海賊」を読む.面白い.こうやって好きな本を読む時間は幸せだ.気がつくと浜松だった.

 と、ここで土産のういろうといえ門を名古屋駅のホームあたりにおいて来たことに気がついた.あれあれあれまあと嘆くが、仕方がない.


 バスで車を置いてある大学に向かう.足が重い.学会は嫌いではないのだが、体が弱っている昨今は辛く感じる.部屋の隅に間借りしている自分のブースにたどりつき、溜まっているメールを読む.嬉しい頼りは皆無に等しい.そういうものだろう.

 明日から日常だ.車で帰宅する.風呂に入り,かかとを浮かせて静かに眠る.


<完>