命名




 「クロイツフェルト・ヤコブ」という病気がある。これは、人間の脳が原因不明でおかしくなっていってしまって、ついには痴呆状態に陥ってしまう、という恐ろしい奇病らしい。
 この病気は未だに治し方がわからないのだそうだ。実のところ、原因もよくわかっていない。
 そういう病気なわけだが、ご覧の通りの立派な名前だけはついている。この「クロイツフェルト・ヤコブ」という名前は、おそらくこの病気を研究した研究者の名前(複数か単数なのかはわからないが)をとってそう呼んでいるに違いないという気がする。

 だが、ここでちょっと考えて欲しいのだが、この病名と言うのか人名は、もちろんこの研究者以外にも存在するわけで(少なくともその一族は)、この名前が世界中で恐れと呪詛の下で呼ばれているとすると、なんだかいやじゃないだろうか、という気になる。

 例えば、「山田」という偉い学者さんがいて、その人がある種の奇病を研究した、とする。しかしながら残念なことに、その治療法まではわからない。その人があまりに突出した研究をしたために、その病気は世界的に見て「yamada」という名称で呼ばれることになったと思いねえ。

 さて、ある誰かがその奇病に罹ってしまい、それを告げられる、というシーンを考えてみる。


医者「いいですか、気をしっかり保ってください。実は、あなたはyamadaです。」
患者「ええっ!yamadaだなんて、そんな馬鹿な、俺は信じないぞ。おれがyamadaだなんて、そんな馬鹿な、もうだめだ、くそうyamadaめ」
家族「たとえお父さんがyamadaになっても、あたし達はお父さんを応援するわ。だからyamadaなんかに負けないで」

とまあ、こんな感じの会話が世界中で行われることになる。

 この会話は、我々が日本人であるからまぬけに見えるのかもしれないが、しかし現実に「クロイツフェルト・ヤコブ」であるとか「アルツハイマー」、あるいは古いところで「バゼドウ」といった病気の名前は、たいてい人の名前なのであり、どこの国の人も基本的に上記のような会話を行っていることになるわけだ。


 これと少し似た事例に、「フランケンシュタイン」という名前がある。我々はこの名前を聞くと、顔に縫い目のある(場合によっては頭からボルトが飛び出していたりもする)青い肌の大男を連想してしまう。実際には、これは誤謬というのか誤解というのかであって、本当は「フランケンシュタイン」というのはそういう人造人間を作った「博士の名字」なのである。

#それはまあ、そういう博士が作ったわけなので、自分の人造人間に「フランケンシュタイン三郎」などという名前をつけたという可能性もないわけではないのだが、そのあたりは今回は気にしないことにしよう。

 それで、実際にそういう名字がいるのかどうかは知らないが、もし実在したとしたら、あの話を書いた女性はフランケンシュタイン一族に対してとんでもないことをしたことになるではありませんか。


 ともかく、ある種の名字が何らかの特定の事象、なかでもネガティブなイメージに結び付いてしまう、ということを考えると、あまりやたらに奇病に人名を冠して呼ぶというのも、もう少し考えたほうがいいんじゃないかという気がしてくる。



 しかし、そうなるとそれを逆手にとることも考えられる。いやな奴の名前をつけてしまえ、ということになるわけだ。

 研究している最中に、ふと
「そういえばあのときクロイツフェルトは前に貸したビール代忘れて返してくれなかったし、ヤコブの野郎は俺の注文したピロシキ全部食べやがったんだよなあ」
などということを思い出すと、ついつい論文の中に
「ここで突然ではあるが、本論文で扱うこの病気を“クロイツフェルト・ヤコブ病”と命名する。」
なんて一文を仕込んでみてしまいたくなるのではないか、

などと考えてみてしまうのだけど、識者の皆様こういうのは実際どんなもんなんでしょうか。



<完>