何故のスパイス


 引っ越して来てしばらくして,デパートの地下を眺めていたら,“いるかの肉”というものが目に入った.
 地域性というもの故か,それとも実は日本全国に出まわっているものなのだが,たまたま私がこれまで出会ったこなかっただけなのか,その辺はよくわからないのだが,いずれにしても私ははじめてその肉を見た.
 真っ赤で,そして白い熱い脂の層があり,黒い皮が表面についている.
 パックの中には妙に赤黒い血がこぼれている.
 これがあのいるかなのだ,と思うと妙な気がした.
 いるかというのは皆様御存じの通り,海に住む哺乳類である.そうして,あまり知られていないのだが,彼らの脳は人間のそれよりも一回り大きく,そして皺もきめ細かい.彼らが何のためにそのように脳を発達させているのか,その情報処理を何において用いているのか,自分にはわからない.
 とは言うものの,こうしてデパートの地下に切り身になってしまうと,基本的に魚のような扱いになる.
 その辺にいた店員さんに調理法を聞いてみると,「煮てしまう」とのことであった.
 新しいものにであったら食べてみる.そういう冒険ができるのは一人暮らしのメリットである.
 さっそく自分はそのいるかの肉のパックを買い入れて試してみることにした.
 部屋に持ち帰り,パックを空けてみる.
 獣の匂いがした.
 海に住んでいるとはいえ,イルカは哺乳類なのだ,ということがよくわかった.
 さて,煮てみよう.
 適当な大きさに賽の目に切り、適当に生姜を入れ,醤油とナンプラーで煮てみた.
 固い.そして獣の匂いが強い.
 肉が固いのは煮る方法が悪いのだろう.しかし,この匂いはつらい.何とかならないだろうか.
 そこで気が付いた.
 こういうときのための「スパイス」ではないか.
 そうだ.その昔,スパイスの用途は「匂い消し」というものだったそうではないか.
 そこで,適当にスパイスを摺って鍋に入れた.すると,匂いは消えた.
 獣の臭さは消え,ある程度「食べられる」と感じられるものができた.
 なるほど,と思った.
 これなら話はわかる.
 以前から,スパイスで匂いを消していた,ということを聞いてはいたが,実際に自分で料理をしていて,そんなに消さなくてはいけないほどの匂い,というものにあまり遭遇したことがなかった.スーパーにパッキングされて売られている肉や魚は,あまり匂いというものがしない.肉の専門店に行くと,確かにある程度取りの匂いというものを感じる鶏肉に出合うこともあった.しかし,料理しているうちに消えるのがふつうで,取り立てて消さなくてはいけないような「匂い」というものに遭遇していなかったのだ.
 今回、あらためて,スパイスのもつ意味が理解できた.
 確かに,世間には匂いを取らなければ食べにくい食材というものがあり,それは基本的に「野生」の匂いなのだ.現代日本人の我々が置かれている環境は,おそらく極度に人工的なシステムで幾重にもくるまれており,本来の肉の匂いさえかぐことがないのだ.そう気付いた.
 そうして,まだ肉に匂いがついていた昔は,たとえ新鮮であったとしても、その肉の匂いをいかに消すのか,それが料理の腕の一つの反映になっていたに違いない.そのための香辛料であったのだろう.胡椒も,カルダモンも,クローブも,フェンネルも,ナツメグも,コリアンダーも,みなそのためにあったはずだ.
 現在私が使っている香辛料達は,実際にはほとんど意味のない使われ方をしていたのではないか,そう思った.いや,私ばかりではない.現在の日本で利用されているスパイスの類は,実際には不要なものが多いのではないか.この野生の匂いというものを排除した現代日本の環境においては,スパイスなど使うだけばかばかしいのかもしれない.

 それ以来イルカの肉は買っていない.スパイスで匂いを消してもあまりおいしいとは思わなかった,というのが本音だ.本当においしければもっと大規模に食材化されているに違いないので,私の感想は多くの人のそれと重なっているのではないかという気もした.

<完>


99/10/09
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