どうも著作権というものがよくわからない。
例えば、街を歩きながら鼻歌を歌っていてもおそらく著作権関係でとがめられることはあるまい。替え歌を歌っていようと、そのものずばりの歌詞を歌っていようと、それほど違いはないと思われる。
同じようなつもりでインターネットのニュース上で鼻歌なんぞ歌った日にはえらいことである。『そいつは著作権に引っ掛かる』行為だという忠告が押し寄せることだろうと思う。
この二つの『場』の違いは何だろうか。
街を歩いている場合に、その鼻歌を誰かに聞かせようというつもりはそれほどないに違いない(むしろ聞かれると恥ずかしい)。だから、この時には、あくまで『歌詞の私的な使用』という範疇に留まるのだろうと思われる。
ネットニュースの場合には元々が『誰かに読んでもらう』ことが前提となっているので、『私的な利用』の範疇には入らない、という事になるのだろう。歌詞を書いた人間がどのようなつもりであろうと、結果的に大音響のスピーカーで日本(世界)中にその歌詞を流してしまったことと同じ、と理解されるのだろうか。
では、ある歌の『タイトル』だけを記事に書いた場合はどうだろう。この程度のことで怒られているのは見たことがない。でもどうしてだろう。歌詞を書いた人間がタイトルに気を使っていないとでも言うのだろうか。著作者の心意気が一番現われるのがまさにその『タイトル』ではないか。それを記事の中に書いておいて、それについて何かを述べるなぞ、無断で行っていいことなのだろうか。
どうもぴんと来ない。
要するに、わからないことというのは、著作者の権利と言うものがなんなのか、というものと、さらにその中で保護するべき実質は何なのか、というところなのだろう。自分がわかっていないのはここに違いない。
いわゆる現状での『著作権関連の法律』と言うものは、きっと、現在のように「コピー機が氾濫したり、音楽や映像がダビングできたり、コンピュータ上で情報が簡単に複製できたりする」、そういった世界のことはあまり考えてはつくられなかったのだろうという気がする。せいぜい、他の人の小説を何も断らずに映画化して金を儲けておいて、原作者には何も知らせていなかったり、とか、そういう程度の事象に対して機能するために作られたのではないかと思える。現在のような状況に対処するための仕様ではない。
だから、現在の著作権法を元にいろいろなことを述べる人がいても、それはきっとせいぜい現状にパッチを当てる程度の解決策でしかなくて、いずれ破綻してしまうだろう。
『産み出された情報が一瞬のうちに世界中に広がり、すべての人間が脳の内外にその情報を共有することが可能である世界』において、もともとその情報を産出した人間の権利とは何か、利用者の権利とは何か、というあたりから考え直して、あらためて一連の『著作権の関連法律』(あるいは他の名称の法律)を組立て直した方が良いように思える。
もしだれかが、何か新しい情報を生産した、として、その生産者がその情報に対して主張する権利、というものはどんなものが挙げられるだろうか。
素朴に考えてみると、まず、その人物が『自分がその情報を産み出した』と主張する権利、というものがあるだろう。その主張に伴う名誉ないし不名誉を自分に帰属させて欲しい、という望みは妥当なように思える。これを無視する事態としては、他の人間が『この情報は自分が産み出したのだ』と主張することが挙げられる。ここでいう人物が個人であろうと集団であろうと、あるいは法人や国家などの存在でも同じだ。
問題になるのは、次だろう。その情報を産み出した人物が、その情報を『利用』することに対して制限をかけようとする場合。『ある特定の人物に対して、その情報を利用することを禁止する』ことを主張することである。しかし、この世界においては情報は産み出された瞬間に世界中に広がるという前提であるため、この『制限』は「希望としての主張」として広報すること(この情報も世界中に広がる)は可能だが、実効力はない。つまり、実質的に利用制限はできないのである。