二人称単数現在 第五話


不在の椅子


 あなたが入ったときには、店の中には、あなた以外は誰もいなかった。
 もうずいぶん暗くなっている。
 あなたは窓際の4人がけの席に落着くと、マフラーとコートを置き、いつもの ようにメニューを簡単に眺め、注文をし、そしていつものようにかばんから本を 取り出して開く。
 あなたはいつも独りで食事をしていたし、そのことを今さらどう感じ取ること もない。
 灯の下で静かに本を読み進めていると、そのうち、誰かが入ってくる鈴の音が 聞こえる。
 あなたがつい反射的にそちらに顔を向けると、見慣れた友人の顔があった。
 あなたが片手を挙げてあいさつをしかけると、友人も気づいてあいさつを返し てきた。しかし、友人はあなたのほうにやってくるわけではなかった。彼の後ろ に、もう一人、小柄な人影が見えている。
 彼はあなたに軽く会釈をすると、その相手の女性と一緒に、部屋の、あなたの 反対側の席についた。
 デート中に同じ店に知った顔がいるというのは彼にしてみるとやりにくいのか もしれないとあなたは思う。もっとも、それはこちらも似たようなものなのだ。 今の相手は相手の世界があり、今のあなたには私の世界がある。共に仕事をした り酒を飲んだりするときには、たまたまその世界が共有されることはあっても、 今は別なのだ。
 あなたは本を読み進める。
 しばらくして、また鈴が鳴った。
 顔をむけると、職場の後輩である。しかし、何名かの仲間で来ていたらしい彼 はあなたに気がつかず、そのまま部屋の別の隅に動いていった。
 まだ料理は来ない。
 あなたは本を読み続ける。
 しばらくすると、また鈴の音が響いた。
 何となく顔を向けると、どういうわけか、あなたの先生である。滅多にこんな ところには来ないと思っていたが、どういうわけかいらしているようだ。あなた は席を立ってあいさつに行こうとするが、先生の後から先生のご家族らしい人物 達がにぎやかに入ってくるのを見て、思いとどまる。もしかしたら、先生はあな たのことを忘れているかもしれないとも思う。もう卒業して何年にもなるのだか ら。 
 先生の姿が奥の部屋に消えていったのを眺めると、あなたはあらためて本に向 かう。
 しばらくは何事もなく時間が過ぎる。
 まだ料理は来ない。
 次に鈴が鳴ったとき、あなたは顔を上げなかった。にもかかわらず、あなたは 今度は声をかけられる。
 幼なじみの友人が、あなたを見つけてあいさつしてきたのだ。しかし、彼女に も連れがおり、二言三言あいさつをかわし、あなたはまた本に向かう。
 何となく妙な状況になったものだ、とあなたは一人で苦笑する。
 まだ料理は来ない。
 次に鈴が鳴ったとき、あなたは聞き覚えのある声を聴いてはっとする。
 あなたのお母さんが入ってくる。
 あなたのお母さんは、仕事をしている関係上、あまり夕飯をうちでは食べない。 あなた自身ももう両親の家を離れて仕事をしているので、あまり会うこともない。
 あなたはお母さんに声をかけようとするが、しかし何人もの仕事の相手といっ しょらしく、すぐに別な隅の椅子に座ってしまう。もしかしたら取引相手の接待 かもしれず、声がかけにくい。お母さんの顔も、今はあなたの母親のそれではな く、一人の仕事人の顔である。そして、あなたのお父さんは単身赴任がもう長い。
 今はやめておこうとあなたは思う。
 あなたはあらためて椅子にかけなおし、そして本に向かう。
 まだ料理は来ない。
 次に入ってきたのは、あなたの昔の恋人である。喧嘩別れしたわけでもなく、 何が悪かったのかわからないままに、いつの間にか次第に疎遠になっていた相手 だ。未だにあなたにはその理由がわからないでいる。
 相手も一人だが、しかしお互いに小さく会釈しただけで、やや離れた別の席に 座る。やがて、しばらくして、その席の前に誰かが座ったらしいことをあなたは 雰囲気で感じとる。
 あなたは本を読み進める。
 それから先、あなたは鈴の音が響くたびに、どういうわけかあなたの友人や知 り合いが入ってくる。しかし、その誰もが、あなたではない、他の誰かとの時間 を共有するためにこの店に入ってくる。あなたは何十人もの知り合いに囲まれな がらも、一人で本を読んでいる。
 あたりはにぎやかだ。友人たちの、先生の、恋人同士の話し声が聞こえ、笑い 声がする。店の中はとてもいい雰囲気になっているようだ。
 あなたは、ずいぶん長い時間が過ぎたような気がする。
 ようやく、いつもと同じ料理が届く。
 いつもと同じように、あなたは黙って食事をする。
 いつもと同じ椅子とテーブルにつき、いつもと同じ料理を食べる。
 食べながら、あなたはふと、あなたの前の席を見る。
 誰もいない。
 あなたの横を見る。
 静かな椅子があるばかりだ。
 あなたはしばらくその誰もいない席を見つめている。
 不在の椅子。
 そこに誰かがいないことが積極的な意味を持つ、そういう椅子だ。
 もしもこのテーブルに席が一つだけだったら、きっとこんな心持ちにはならな いのではないかと、あなたはぼんやりと思う。
 そして、あらためて食事を続ける。
 その間にも、なぜかこの店にはあなたの知り合いたちが次々に入ってくる。そ して彼らはあなたに気がついたり気がつかなかったりしているが、しかしどの人 もあなたとの時間を共有はしない。そのために来たのではないからだ。
 あなたは、多くの友人たちに囲まれ、そしてあなただけの時間をずっと独りで 座っている。
 あなたは紙のような食事を終える。
 ひっそりと立ち上がり、手早くコートを着て、マフラーを持つ。誰の顔も見ず にレジに向かう。あなたに声をかける人は誰もいない。
 代金を払い、店のドアを出ようとしたあなたは、にぎやかな一群の客たちと行 き違いになる。なごやかな一団で、もしかしたらそこにもあなたの知り合いがい るのかもしれないが、しかしあなたはマフラーを深く巻き、顔を伏せて出て行こ うとする。
 しかし、そこにあなたはある顔を見つけだす。
 ほんの一瞬だが、あなたはその顔に見覚えがあるように思う。
 いや、確かにあなたはその顔をよく知っている。
 知っているのだ。
 あなたは店を出る。外は街の明かりもなく、不思議なくらい奇妙に重い空気が 漂っている。
 あなたは両手を見る。もしかしたら、あなたの手は震えているのかもしれない。
 あなたと入れ違いに店に入ったのは、他ならぬあなた自身だった。
 あなたは、しばらく佇んでいる。
 そして、意を決して、あなたは振りかえる。

 その瞬間、あなたは誰かが自分とすれちがって店から出ていった後ろ姿を見て いる。
 その姿がどこか見覚えがあるような気がしたが、それが誰なのか、深く考える こともなく、先に入った友人たちに呼ばれて、あなたもあわててテーブルに向か う。
 奇妙なことに、この店はあなたの知り合いで埋まっており、あなたに気がつい たいろいろな人から声がかかる。あなたはいろいろなテーブルに右に左に忙しくあいさつをしながら進んでゆく。ずいぶんにぎやかな店になっているものだとあなたは感心する。
 そして、あなたは、結局はいつもの席で、いつもの仲間と、いつもの馬鹿話を しつつ、いつもの夕飯を食べるのである。
 いつもながらマンネリだなあ、と思いながら。



<完>


初出 静岡大学SF研究会浜松支部部内誌 SFR vol.03 テーマ「イス」2001/04/11
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