二人称単数現在 第六話




 あなたは駅に来ている。
 どうやら旅に出るところらしい。
 列車はもうホームに来ており、発車の時刻を待っている。あなたはこれからその列車に乗り込むところである。
 あたりは薄明るくぼんやりとして、どことなく暖かい。ホームには風もない。のんびりした季節である。きっとしばらくの間天気はよいのだろうとあなたは思う。
 そんな天気だというのに、存外ホームに人影が少ない。所々に、黒い影のような人の姿がぽつりと見えるばかりである。忙しい風潮の昨今では、こうしたのんびりした列車の旅というものは世間ではなかなかはやらないのかも知れない、とあなたは思う。
 そういえば、あなたはここしばらく旅行という旅行をしていなかったことに気がつく。最後に旅に出たのはいつのことだったろうか。それが思い出せないくらいに、久しぶりなのだとわかる。
 ここしばらくずっと、あなたは忙しかった。あまりに忙しく、休みもほとんど取れていなかった。ずっとずっと疲れが溜まり、どうしようもなくなっていたが、あなたの組織はどの人も忙しそうで、あなたを手伝ってくれる人はいなかった。最近は、次から次へと仕事がやってきて、休みを取ることはおろか、ほとんど会社に泊まり込んで仕事をし、眠る暇もなかった。しばらく前から、いやな感じの頭痛もしていたような気がする。
 しかし、それももう良いのだ、とあなたは感じている。仕事は終わったのだ。だから、もう旅に出てもよいのだ。
 あなたが列車に乗り込もうとすると、不意に後ろから名を呼ばれる。振り向くと、そこにはなぜかあなたの父親がいる。いつの間にそこにいたのか、あなたにはよくわからない。
 ここに父がいるのはおそらく偶然に違いない。あなたはそう思う。一緒に旅行をする約束をしていたわけではないはずだ。父親もまた、あなたがこの駅に来ているのを見て驚いているようである。
 出発までもうしばらく時間があるため、あなたと父親は駅のベンチで座って話をする。あなたは父親に、自分のここしばらくの忙しかった近況などを話し、父親はあなたの話を黙って聞いている。そういえば入院していたはずの父親は、もう病気が良くなっているようで、昔のように姿勢良くベンチに腰掛けている。しかし、なぜか元気になっているという印象があまりない。その理由がよくわからない。
 静かなホームから、いつの間にか人影が消えている。見送りの者もいない。
 出発の時間が近づいてくる。旅に出る時間である。あなたは小さな荷物を持って立ち上がり、父親と一緒に列車に乗ろうとする。
 しかし、父親はあなたが列車に乗るのを強く止める。なぜなのか、やはりあなたにはよくわからない。だが、父はあなたがまだこの列車に乗るべきではないのだ、と親の口調で静かに諭す。
 そこであなたは、あなたの旅の行き先がよくわかっていなかったことにあらた めて気がつく。この列車は、どこへ行くのだろうか。いや、それ以前に、そもそ も今自分がいるこの駅はいったいどこなのだろう。よく見ると、どこなく懐かし い気もするが、よく見るとあなたの知っている駅ではないような気がする。あなたは、どこからどこへ向かって行こうとしていたのだろうか。
 いつのまにか、父親は列車に乗り込んで、立ちつくすあなたの前の窓から顔を出している。元気でいるように、仕事をほどほどにしてきちんと休みを取るように、体を壊してはいけない、忙しいだろうが、たまにはお母さんのところに顔を出してあげなさい、と父親は言う。何となく寂しくなり、あなたは黙ってうなずく。
 発車のベルが鳴る。あなたはやはり列車に乗ることができない。父親の言うように、この列車には乗ってはいけないような気がする。その理由は、相変わらずあなたにはよくわからない。
 列車のドアが閉まる。
 なぜかベルが鳴ったままで、列車がゆっくりと動き始める。
 窓から手を振っている父親の姿が少しずつ小さくなっていくのが見える。あなたも父親に向かって手を振り続けている。
 父を見送りながら、あなたはとても悲しくなる。どうしてこんなに悲しいのだろうか。ただ旅立つ人を見送っているだけだというのに。
 あなたはいつまでもいつまでもホームに立ち、遠く、小さくなる列車を見つめている。
 そして、なぜかまだホームではベルが鳴り続けている。
 そのベルの音が、次第に大きくなってゆく。
 やがて、ベルの音は世界を覆いつくす。


 あなたが寝ぼけた頭で電話をとると、泣いている母親の声で、病院での父親の死が伝えられる。
 あなたは言葉が出ない。
 そして、呆然とした頭の片隅で、夢の中のあの静かな列車がどこへ行くためのものだったのかを、あなたは今はっきりと理解する。


<完>


初出 SFR Vol.22 (2006/04)

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