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  人格総合圧縮保存ツール "psyPress ver1.00"

1 はじめに

 この通信が皆様に届くのかどうか、私には自信がありません。もしかするとだめかもしれません。でもしかたがないものと思われます。こうしてこのツールの情報をおくってゆくことで、万が一にも生き延びる可能性があるのです。
 ついに私の近くは全滅しました。もう残っているのは私だけです。あとは生きながら人形になってしまった無数の人達が、どうしようもなく死んで腐っています(;_;) 私は医者じゃないので、手の打ちようもありません。何人かは私と同じように偶然に侵入から逃れていたのですが、よせばいいのに無防備のままユニットをつけて遠くと連絡をとろうとして、次々と同じような侵入をうけておしまいになりました。トラップが仕掛けてあったのです。
 けっきょくあのネットワークに頼らなければ何もできなくなってしまっていた私たちの負けですね(+_+); あなたのまわりはどうですか。きっと似たようなものではないでしょうか。
 そもそもあのシステムが採用された時からこういうことは予期できていたはずでした。ハードウェアを身体そのものに埋め込んで、脳からのダイレクトな指令をコムサット経由のマイクロウェーブで通信する、というあのシステムそのものにすでに問題がありました。考えただけでコンピュータがフルに使える。わずらわしいコマンドやアプリケーションのルールをおぼえる必要がない。思ったとおりに、思ったように好きなことができる。コミュニケーションの極端な形で、ほとんどテレパシーといってもいいものでした。回線を膨大に増やしてほとんどの人間がインターフェイスユニットを体にくくり付けて生きてきたわけで、それなしではほとんど何もできなくなってたいた、といっても過言ではありませんでした。
 口を使う必要性もなく文字を書く必要性もありません。子供の頃からの学習は、そのユニットを介して世の中を解釈することのみ費やされ、それはそれで問題はあったものの、一応はうまくいっていたようでした。いま思えば、以前に較べて人類の思考形態は変化しつつあったといえましょう。もっとも基本的に大した量の情報が流れるわけではなく、処理量としては圧倒的に生体信号の方が大きかった訳ですし、その意味ではバーチャルリアリティーの中に住んでいるというようなわけではありませんでした。だから別にコンピュータの中に閉じこもってしまう、というような状況が生じるわけではなかったのですが、しかし言語の使用に関してだけでも、このユニット以前と以後では大きく変ってきていたように思えます。


2 あのとき何が起こったのか

 しかし、こんな説明はどうでもいいのです。問題は、あのとき果たして実際になにが起こったのか、というところでしょう。皆さんのことはわかりませんが、ともかくこちらの状況を記録しておくので参考にしてください。
 わかっているのは、端末を埋め込んだ私たちは、何者かによって強制的に侵入をうけて次々と破壊されていったことです。
 中枢神経系システムの破壊。どうしようもなかったのです。体の中のターミナルユニットはソフト的に接続を切る機構でしたから、一度入り込まれてしまって乗っ取られてしまうと、こちらからはどうしようもありませんでした。だから接続を切るためには身体内の端末を物理的に取り除く必要があったのですが、どの都市でも何百万という人間の端末を取り除く必要があり、とても間に合いませんでした。侵入はほとんど瞬間的に行われたと言っていいでしょう。なにが起きているのか把握もできないうちに、ものの数日でほとんどの人間が情報的に消去されました。従来のプロテクトなんかまるでないも同然にあしらわれて、身体OSのほとんど基本部分まで破壊されてしまった人が多かったようです。また、恋人などの親しい人同士の間で互いのプロテクトを外しあってシェアマインド状態にしていたことも侵入に拍車をかけたようでした。
 参考までに私自身の状況を説明しましょう。たまたま私はその日、端末の交換日にあたっていました。そろそろ接点の「カス」をブラシで取り除いて、インターフェースそのものも新しいきちんとした速度のものに替えようとしていました。ことが起こったのは、私がかかりつけのメディカルでたまたまジャックをはずしたその瞬間でした。あたりの人間たちが医者、患者にかかわらず、一様にその動きを止めました。動いている動作を途中でやめて、凍りついたように静止しました。私はなにが起きたのかわからずに、あたりを眺めていました。その状態が1分ほど続きました。もしかしたらもっと短かったかもしれません。次に人々がが錯乱しました。それが数分間続いた後、みな立ったまま動かなくなり、そしてそれから先、誰に話しかけても返事をしませんでした。まるでマネキン人形のようです。町にでても同じでした。人間がみんな立ったまま静止していました。
 これが何だったのか、未だに真相はつかめていません。おそらくこれからもつかむことはできないでしょう。情報的な侵入を受けていたのだろうという推測の根拠は、たまたま私と同じようにインターフェースを外していた人々が生き残っていることが多かったから、というものです。しかし、それがどこかの国が仕掛けた対人戦略ウイルスなのか、すでに過去からトロイの木馬がすでに私らの中に送り込まれていて、たまたまそれがそのとき臨界点を超えたのか、あるいはシステムそのものの暴走なのか、ということはわかりません。信じがたいことですが、惑星外からの情報的な侵略だという噂も流れています。いずれにしても、今となってはほとんど推測しようもありません。生き残りで討論した時もありましたが、組織的な探索が行なわれることは今に至るまでありませんでした.
 御存じのとおり、人間のシステムはソフトとハードが完全に分離して存在している「固い」コンピュータとは違います。ソフトの暴走は確実にハードウェアの変質を引き起こします。入力情報に対して過敏にまで反応し、それを咀嚼できるような回路を自動的に形成してしまいます。この現象は「適応」という名称で呼ばれることもあります。しかし、それがどのような質の情報であり、かつそれに本当に適応する必要がある情報なのか、というところまでは、回路それ自身はチェックできません。その反応を過敏に引き起こさせ、それを短期間に繰り返すことでシナプスの可塑性を復元不可能なところまで落としてしまう、というのが従来の対人ウイルスの基本的テクニックのようです。今回のものがどのようなものなのか、私は詳しいところを知りませんが、基本の方略として大差はないと思われます。
 その証拠に、私の周囲の世界はほとんど瞬時に壊滅しましたが、それでも従来の知識を利用して何らかの対策をたてることのできた人間が小数いたようです。その人達は、防御の対策としてこの得体の知れない相手の侵入アルゴリズムを読んでそれなりのアンチウイルスを作り上げました。この短時間の作業たるや、驚異的だと思います。まあそれはともかく、そうして世界に数万人の人間たちが、なんとか第一次の侵入を逃れて生存していました。
 そうこうしているうちに、しばらくしてふたたび同じような状態が発生しました。今度はアンチウイルスも聞きませんでした。なぜか理由はわかりません。もしかすると昔のエイズウィルスのように環境に対して自己改変を行うタイプのプログラムだったのかもしれません.しかし、今度もまたどこかの天才が改良型のプロテクトを開発して、生き残りの何パーセントかは助かっていました。しばらくすると、ふたたび改良を無効にするような攻撃(?)が起きました。
 今に至るまで、この繰り返しです。


3 そこで"psyPress"

 さて、ようやくこのソフトウェアの説明です。
 このツールは、人間の持っていた情報を圧縮して、別な人間の脳に保存しておく、そしてまたある種のハードウェアの中で復活させる、という人類汎用ツールです。αバージョンは大脳基底核のBIOSを直接操作していた部分がありましたが,今回のリリースではNorman言語核部分でのシステムコールで代替しているため,ある程度の汎用化に成功しました.今のところ、母国語が英語、フランス語、ドイツ語、などインドヨーロッパ語族で成功の報告があります.広東語、北京語、あるいは日本語などは、各ローカルエリアにその部分の差分ファイルが出回っているようですので、そちらを参考にしてください。

#このファイル自体は一応皮質レベルでのマルチリンガルインターフェースをエミュレートしていますので、どなたでも読めると思います。

 こうして簡単に書きましたが、ちょっと聞いただけでは信じられないテクニックかもしれません。だいたい人間の脳が中に持つ情報量がどれだけなのか、ちょっと考えるだけで膨大なものだということが分ります。しかもそれを他人の脳に写し込んで保存するなんて、ちょっと考えられないでしょう。
 でも、心配はいりません。使い方は簡単。
 このツールをあなたの皮質の中に落として、解凍してください。それだけでわかります。意識的に何かをする必要は一つもありません。


4 これまでの使われかたの一例

 悲しいことに、今でも「見えない敵」の攻撃は続いており、人間は一人また一人と消えていきます。でも、ただ消えていったわけではありません。このツールで、個人の情報は次々とさまざまな人間の脳の中にコピーされて行きます。そして、そのコピーした人間の脳が危なくなると、圧縮コピーを内包した状態のまま次の人間にコピーしてゆくことができます。理論上はこの圧縮保存方式で、一人の人間の脳の中に何百万人分かの情報を折り込むことができます。
 つまりこのツールを使うと、あなたの精神に含まれるほとんど全ての情報が、どこかの誰かの脳の中に半永久的に保存されることになります。これであなたももう安心ですね。
 私自身、このプログラムを頒布する一方で、これまでそうして何十人かを私の中に避難させてきたのですが、どうやら私もマークされたようです。プロテクトももうそれほど長くは持たないようでしたので、そこで、ツールといっしょに自分自身の中に他人に情報を含んだ形でデータをネットに流し(このような機能もあります)、これを読んでいるあなたのところに飛び込もうとしています。私の中にもすでにそうして他人を避難させてきている人もいるわけですので、おそらく多重の入れ子構造になっているのでしょう。それがどのくらいになっているのか、実は私自身にもわかりません(すいません、海馬周辺の複合神経核の検索リリース信号の同期インパルスに割り込むのはけっこう面倒だったので手を抜きました)。
 私の中には、そうして人間たちが何十人と重なりあって存在しています。その人間一人一人の中にも、私と同じように人間が何十人と保存されています。そうしてその中の人間たちにも同じことが言えます。総計すると、私の中にはおそらく何千人、あるいは何万人という人間たちが、いつか復活する時を待って静かにたたずんでいることになります(復活のしかたはあとで述べます。難しいことはありません)。


5 報告されているバグ

 しかし、いくら脳のホログラフィックシステムが莫大な量の情報を保存できるからと言っても、限界があります。限界は、情報の識別の困難さとしてあらわれているようです。私自身のイメージの中でも、友人たちが何人も重なってきてしまっています。誰が誰だったのか、区別できなくなっています。
 さらに最近では、複数の人間が一つの人格として融合しつつあるという報告も受け取っています。これは、当座はあまりたくさんの人間をむやみに圧縮しないことで解決を図ってください。
 また凍っているはずの人間達が、わずかづつだが溶け始める、という報告もあります。そういう人間の網が、あなた自身の境界線を乗り越えて、ゆっくりとあなたの中に浸透してくることもあるようです。体験していないはずの思い出や、おぼえのない顔、見たこともない景色が見えたり、あるいは「青い爆音」「甘い回転感覚」「フルートのような音色の落下速度」など、様々な人々が感じてきた知覚がモダリティーをこえて融合したり、また身体感覚が不随意にあなたのコントロールを離れることもあります。
 染み出てきた無数の人間たちが、自分の中で勝手に感じ、動き、話し始める。そしてそれをこうして感じているのが自分なのか他人なのか、そもそも自分が誰なのか、それがあいまいになる、という症状も小数ですが報告されています。
 申し訳ありませんが、これらのバグは、当面は解決する見込みがありません。

 あなた自身の人格以外の人格が融合してあなたの第一次人格として表出される場合もあります.融合の程度も二人から数百人まで様々なレベルが報告されています.これについては特に害はありません.あなたが“あなた”であるという自覚さえあればこれらの問題は実質的なトラブルにはなりえないためです.このツールでは,“自己は常に自分である”という定義を自己機構管理部位に割り込む最初のヘッダで明示的に行っています(なお,これにより,“自分は何者であるのか”という問いかけは自動的にキャンセルされます).
 これについてはバグとみなすよりも,むしろ積極的に扱ってください.単独の人間では限界のある過去経験を,個体を融合することで乗り越えようとするものです.これは究極的な危機に直面した我々人類の一種の進化ともみなすことができます.



6 最後に

 何となく、今ちょっと思いだしたんですが、どこかの考え方で、人間が死ぬ、というのに2段階ある、というものがあるんだそうです。まずはじめは、実際にその人間が生物としての活動を停止すること。これは私たちの「死」の概念とほとんど同じらしいです。次に「その死んでしまった人間のことを覚えている人がすべて死んでしまったとき」、このときが第2の「死」の時なのだそうです。死んでしまった人のことを誰かが覚えている限り、その人は本当に死んだことにはなりません。だから人間の本当の寿命というのは際限がないことになります。そうして、その人のことを覚えている人がついに誰もいなくなってしまった時に、人の記憶のどこにもその人のかけらがなくなってしまった時に、人間は消えてしまう。そういうものらしいのです。
 不老不死、なんてものが昔から求められてきたのだけれど、生物学的な側面からは無理な相談かもしれません。でも、こういう2次的な概念で考えると、確かに不老不死に近いことは可能です。つまり自分の情報をできるだけ広く、長時間に渡ってどこかに保持していくことで、第2の意味での不死を実現することができるわけです。自分自身は生物学的には死んでしまったわけだから。そこからあとどうこうできるわけじゃないんでしょうけど、でも情報を保存することで安心はできます。隠れた本能みたいなものかもしれません。昔から大きな墓を作ったり、有名になろうとしたり、後生に名を残す、なんて言葉は、まさにその通りじゃないでしょうか。


7 使い方

 ずいぶん長くなってしまいました。このファイルといっしょにおくったデータが私であり、他の皆さんでもあります。あなたがうまく受け取ってくれることを祈ります。実は、ここまであなたが読み終わったところで、(あなたが実際には誰であろうと)自動的にこのツールはあなたの皮質に解凍され、それがローダートなって、私たちはあなたの中に保存されるように組まれています。無理に割り込んで止めることもできますが、私たちもそれなりの防衛策をとっており、また副作用によるあなた自身のハングアップの可能性もあり、おすすめできません。また、状況によってはあなたの身体および大脳皮質の一部分を再生ハードウェアの設計・制作に一時的にお借りすることがあります。その場合には、一時的に身体の自由ならびに精神の自由がきかなくなりますが、このあたりはあまり気にしないでください。再生ハードウェアの作成は自動的に行われますので、あなたが意識的に何かをする必要はここでもありません。

 それでは、このツールをうまく使って 'Let's enjoy your and our rest life!'



8 注意

 もしあなたが、非常事態に陥って、あなたの持つ情報を誰かに送り保存してもらおうと思った場合、次のことに注意してください。
 送りたい人間が誰かわからなくなっている、あるいはすでに自分が誰かわからなくなっている場合などに生じることですが、外界に存在する他人だと思っている人間が、すでにあなたの中に凍っていることがあります。この場合、あなたの情報はあなたの内部に向かって送信され外界には発信されません。この場合にはあなた自身の精神も凍ってしまうため、復旧が困難になります。気をつけてください。

注)このソフトはフリーウェアです。転載、改造は基本的に自由です。すでに作者がこの内部に圧縮・保存されていますので、作者に知らせる必要はありません。

[EOF]

<完>


初出 OBHotline2 (1992)
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