事後処理



 オフィスにその電話が掛かってきたのはちょうど昼過ぎだった。
 書類に目を通しながら何気なく受話器をとった俺の顔は、一瞬の後には堅くこわばっている。
 それまで何一つ問題のなかったのがそもそも問題だったのかもしれない。もちろん、こういう立場についてしまったからには、いつかはこの日が来るということを覚悟はしていたはずだ。それにしてもそのときの俺は油断し過ぎていた。それだけに衝撃は大きかった。まるで狙いすましたようだった。しかし、それにしても。
 やってしまっただと。
 やってしまった。
 ついにやってしまったのだ。
 俺は呆然として受話器をみつめた。
 受話器のむこうで、早口で興奮した誰かが何か喋っていたが、俺はもう聞いてはいなかった。
 やってしまっただと。
 その監督責任者は俺だ。他でもない、俺なのだ。
 やってしまったからには、もはやなにを言い訳しても無駄なのだ。もう遅いのだ。起きてしまったことはもうどうしようもない。なにをやっても取り返しがつかない。
 これまで必死になって積み重ねてきたものが音を立てて崩れ落ちてゆくのがわかった。もう終りだ。夢も希望もあったものか。未来なんて物も、もうどこにもなくなってしまったのだ。
 こんな終り方をするとは。意外といえば意外かもしれないが、よく考えればありそうなことではなかったか。なぜもっと早く気がつかなかったのだろう。意識の片隅のほんの端に残っていたその可能性の断片を、なんとなく避け続けてきたのは、実はどうやってもそれが避けられないことだと薄々感づいていたせいかもしれない。それならそれで仕方がないという考え方もできる。それもむろん言い訳にすぎないことはわかっている。
 それにしてもいきなりだった。こういうものは何かの前触れがあって始めて起こるものかと考えていた。甘かった。本当の破局はむしろ静かにやってくるものなのだ。避けられない破局ほどあっけなく、一瞬ですべてを壊滅させる。自分がその最中にいることにすら気付かせないほど早く。えてして物事の終末とはそういうものかもしれない。危機感を持っているうちはまだいいのだ。たいがい真の終末は外見上の危機が去ったすぐ後にやってくる。一見何の危険な要素も見せずに、穏やかな春のような顔をして近付いて来る。そうして壊滅的な打撃を与えては去って行くのだ。
 いまさらなんのかんのいってももう遅い。それもまた確かだ。これから何とかすることはできないが、少なくとも責任は取らねばならないだろう。その場合、俺の上司達も連なって何らかの責任を追うことになるのは目に見えている。
 さて、どうしたものか。
 気の毒だという気はするが、しかし仕方がない。
 とりあえず、報告に行かねばなるまい。
 俺は正面のデスクで仕事をしている同僚に一言ぼやいてから席を立った。
『とうとうやっちまった』
 奴は顔を上げると無表情に俺を眺めた。俺もそのまま奴を見返した。奴は何も言わないまま顔を下げて仕事に戻り、何が起こったのか気にする様子もなかった。そういうものかもしれない。他人がどうなろうと、自分の身に何も降りかかってこなければ何もないも同然だ。至極当然の帰結ともいえた。
 椅子をデスクに押し込んでから、俺は課長のところに出掛ける準備を始めた。
 体を動かすのは久し振りだ。準備体操をする。弁当を3食ほど、あとは必要になりそうな飲料、その他を買い込む。恐らくうまくいっても帰ってこれるのは今晩の遅くになるだろう。へたをすれば途中で野宿になるかもしれない。実をいうと、まったく見当がつかないからだ。
 俺は比較的頑丈そうなアタッシュケースに必要なものを詰め込んで出かけることにした。
 通い慣れた部屋への廊下をしばらく戻ると、分かれ道があった。俺は普段この廊下の左から通って来て右に曲がる。そのまま真っ直ぐに進んだことはない。課長のいるらしい部屋にたどり着くためにはその廊下を真っ直ぐに進まねばならないらしい。つまり俺はここで右に曲がらねばならないわけだ。
 課長という上役がいるらしい事は噂には聞いていた。しかしそれがどこにいるのかということになると諸説紛々といったところだった。俺はその中で最も信頼性が高いと思われる情報を元に進むことにした。恐らく課長はこの廊下を果てしなく突き進んでいったところの突き当たりの部屋にいるのだ。万が一そこが課長の部屋ではなかったとしても、もと来た道を真っ直ぐ戻ってくれば良いのだから安全であるともいえた。
 俺は意を決して進み始めた。
 通路にはまったく何もなかった。所々に申し訳程度についている蛍光灯を除けば明りもないに等しかった。それも切れかかっているものあり、割れているものあり、一体どうなっているのかよくわからなかった。数メートルおきについている灰色のドアの向こうから何かの気配を感じることができた。妙な声や呻き声が聞こえたような気もした。それが人間のそれなのかどうか、実のところ俺には自信がなかった。俺は懐中電灯をつけながら音のない廊下を恐る恐る進んでいった。
 廊下は果てしなく長かった。俺はどこまでも歩いていった。
 時計を見ると、出発してから優に4時間が経過している。前も後ろも一直線の薄闇の中だ。俺は疲れた。分岐点になっているらしい広間に散らかっていた資材の上に腰を下ろし、弁当を広げることにした。
 これまでに何百もの分岐点があった。そして、俺はそれを何一つ曲がること無くひたすら真っ直ぐに進んできたのだ。改めてそう思わなければこの闇の中ではどうも不安になる。もしもこの先、終点に課長がいなかったとしたら、それらの無数の分岐点の一つ一つを確認して歩くしかない。気が遠くなるような作業だ。そもそも何のために俺はこんな事をしているのか、よくわからなくなってきた。
 弁当を食べ終わってから再び歩き始めた。同じような単調な廊下と妙な雰囲気を内に秘めたドアの並びだけがあった。誰にも出会わなかった。
 ドアの内部が気にはなった。とはいえ、どうも用もないのにそのドアを叩くのも妙な気がした。静かといえばこれほど静かなことはないのかもしれないのだが、そのくせ何かがいるような気配だけは消えない。それが何なのか改めて考え出すときりがないのだ。
 俺は考えることを止め、ひたすら歩き続けた。
 気のせいか、廊下全体が大きく右に曲がっているのではないかという感じがしはじめた。前と後ろを眺めると、点々と続く蛍光灯の列がやや左右にずれているようにも見えた。廊下の反対側から確認しようとすると、どうもそれもはっきりしない。錯覚か。それとも、本当に曲がっているのか。わからなかった。どちらにせよ、ここまできたらもはや進むしかないのだった。
 幾百目かの分岐点に、ぽつんと自動販売機が置かれていた。不明瞭に点滅する蛍光灯の下に、確かにまだ生きているらしい自動販売機が置かれていた。俺は一瞬、何かの助けになるのではないかと思い金を入れてみた。そのうえで適当なボタンを押してみたが、内部で妙な音がして、何か錆びついた缶のようなものが出てきただけだった。缶には穴が開いていた。内部にあったであろう液体は当の昔に流出してしまっていたらしかった。錆の埃の匂いがした。
 俺はここで考え込んだ。
 もう弁当はあと2食しかない。ここで2食目を食べてしまうと戻るときに大変そうだ。つまり2食めの弁当を食べるのは行程の中間点でなければいけない。もし運良くたどり着けるのなら、それは課長の部屋ということになるのではないだろうか。課長はお茶を分けてくれるだろうか。しかし俺は責任をとりに、また報告するためにきたのだ。課長がそれほど友好的な態度をとるとは思えない。少なくとも責任の一端は課長も取らなければならないのだ。むしろ険悪な雰囲気になる可能性のほうが濃厚といえた。
 そもそも俺は課長というものがどのようなものかまったく知らないことに気がついた。とりあえず責任をとるのであるから、責任がとれるような存在なのであることは確かだ。少なくともこの自動販売機のようなものではない。自動販売機に責任をとらせるのは難しい。だが、それから課長というものが果たして人間なのかどうかまでは保証されない。もしかしたら、俺はすでに課長の中にいるのかもしれない。つまりこの長い廊下が課長なのだ。俺がこの廊下を歩き回ることが、課長が責任を取ることに当たるのかもしれない。
 そんなことを考えているうちに、おれはいつしか床に倒れ、眠りについていた。
 
 覚めても何が変わったわけでもなかった。
 時計を見ると、およそ5時間眠っていたことになる。休養としては十分だ。腹が空いた。無理もない。ひたすら歩き続けていたのだから。弁当を食べようかとも考えたが、できるところまで持たせることにした。
 出発から18時間が経過している。
 もしあと6時間歩き続けても何もなかったとしたら、そのときは弁当を食べて帰ることにしよう。それ以上進むことはできまい。食料も体力も限界近いはずだ。そのときはそのときで、また今度ということになる。そんなときがくれば、の話だが。
 さらに歩き続ける。
 蛍光灯は単調に流れて行き、ドアも同じように何の変化もなく等間隔で並んでいる。ただただ足を動かし続けていると、果たして自分が前に進んでいるのかわからなくなってくる。所々の床に散らばっている資材や何かの破片が、ともかくこれまでとは違ったところに達していることを示しているだけだ。何か乱闘があったのだろうか。どうも血のように思える黒い染みが目につく。もっとも、それも埃に覆われて血なのか油なのかよくわからなくなっている。仮になんらかの流血事件が起きたのだとしても、それはもうずっと昔のことのように思われた。
 歩き続けるにつれ、どうもその赤黒いしみのあとが増えていることに気がついていた。そして、次第にそのしみの痕跡が新しくなっていくような印象も持った。だが、だからといってどうできるわけでもなかった。歩くこと以外にすることもなかった。
 俺はさらに歩きつづけた。そろそろ限界に達しつつあった。足がだるくなってからずいぶん時間がたっている。そろそろ弁当を食べて引き返さないと、帰るのが相当辛くなるだろう。残念ながら、俺には責任を取ることもできないのかも知れない。そう思うと、悲しくなってきた。
 懐中電灯の薄暗い明かりの中、おや、と思うくらい唐突に、廊下は終わっていた。突き当たりにはドアがあり、『課長室』の文字が見えていた。
 やった。ついについたのだ。噂は間違ってはいなかった。俺はついにやってきたのだ。これで責任を取ることもできる。
『失礼します』
 俺はノックをすると、課長の部屋に入っていった。これだけの道程をやって来たわりには、こじんまりした部屋で、何か俺は少しがっかりした。 課長らしき対象はどうやら人間だった。これで話が通じる可能性は出てきたわけだ。状況として悪くはない。問題はこれからだが。
 何か書類をめくって書き物をしている課長の前に立った。気配に気づいたらしく、課長が書類からめんどくさそうに視線を移す。一瞬、怯えのようなものが目に映る。
『どうしたのかね』
 やや上目遣いに課長が尋ねる。明らかに侵入者に怯えているようだ。
 俺は正直に事の次第を告げた。
『申し訳ありません。ついにやってしまいました』
 俺は精一杯すまないというふうに頭を下げた。だが正直いってもうなにをやろうと遅いのだ。責任を取れというなら取るだけの話だ。ここであえて開き直るのもなんともいえないが、他にどうせよというのか。
 課長はしばし俺の顔を眺めた後、首を左右に振って目をを閉じた。それからずいぶん長い間、ざっと5分ほどそうしていたかと思うと、何かを降り払うように勢い良く立ち上がった。先程まであった瞳の中の怯えの色はもう見られない。
『わかった。私も責任を取らねばならない。そして君もだ』
 そうだ。その通りだ。だがそれが一体何なのか、俺にはいまだに良くわからなかった。
『君は今まで来た道を戻っていかねばならない』
 それだけでいいのだろうか。それが責任を取ることになるのだろうか。
『今にわかるだろう』
 それだけを言い捨てると、課長はもう俺のことなど忘れ去ったようだった。振り向くと、大きなロッカーからいろいろなものを取り出し始めた。その中には、どうも武器らしい物もたくさん含まれていたので、俺は奇妙に感じた。一体どういうことだ。あんなものを何に使うというのだろう。
 しばらくたつと課長は、全身これ武器のかたまり、のような人になってしまった。そして俺を見てこういった。
『なるほど、君は知らなかったのだね』
 実際、俺はなにも知らなかった。
『そこに余っている武器を持って行くといい。君程度の責任の重さではではなんとかなるだろう。さすがに課長ともなるとね、このくらいの装備が必要なわけだが、それでも自信がないのだよ。久しぶりだし、おまけに課長から係長への道程は、平の君が係長の私のところへきた道程などと比べ物にならないくらい、遥かに長い』
 係長はいきなり銃口を俺に向けると、引き金を引いた。強烈な衝撃がおれの首筋をかすめて行き過ぎ、俺の後ろに忍び寄っていた男を吹き飛ばした。ナイフが腕ごとちぎれて飛んでいった。
『その程度ならたいして問題はないだろう。まだまだ小物だ。たかが知れている』
 そこで俺はぼんやりと事態の全容がつかめたような気がした。
 暗い、長い廊下だった。ドアの向こうにはよくわからない漠然とした不安な雰囲気が漂っていた。それがある意味で人間なのかどうかわからないと感じていた。だが良く考えれば、俺もあんな部屋の中の一つにいて何も考えずに仕事をしていたのだ。所々についた血のような跡、決して修理されない蛍光灯。もしかしたら俺にも覚えがあるのではあるまいか。俺が責任者の立場につけたのは何をしたおかげだ。思い出すこともなかったというのか。
 行きはよいよい、帰りは怖い。
 これが責任なのだ。ヒラの俺はまだこの程度で済んでいる。課長はこんなものとは比べ物にならない道程を行き、かつ戻らねばならない。さらに係長は、部長は、重役は。さらに過酷な責任がかかってくるのに違いない。果てのない階層。
 いつの間にか、俺は一人取り残されていた。仕方がない。使えそうな武器を探す。弁当を食べる。課長の湯飲みからお茶をもらう。帰れるだろうか。帰れるだろうか。通り過ぎてきた無数のドアの陰から、何かががそろそろと現れる気配が感じられた。果たして俺は帰れるのだろうか。
 課長室のドアを開ける。走り出す。責任の重み。責任の重み。とってやろうじゃないか。責任を。
 その先になにがいるのか、もう俺は考えようとはしなかった。ざわめく暗闇に向かって俺は無心に走っていった。


<完>


初出 Hotline47?(1990?)
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