代理人



 とても奇妙だった。
 何がなんだかよくわからなかった。
 しかたがないので,ぼくは会場から離れると,一人でロビーに座ってタバコをふかしていた。
 あたりでは,礼服を着たたくさんの人間がそこここで群れつつ,和やかに談笑している。表の看板には,今日は4組の結婚式が行なわれると書いてあったような気がする。
 ぼくは一人で煙を吸いながら考えている。
 例えば,今まで思い込んでいたことが,突然そうではないと知らされた時に,どう反応すればいいのか。とんでもない勘違いをしていることがわかったとき,どうすればいいのか。
 考えても答えが出るわけでもなかった。
 それにしてもおかしな勘違いではないか。どうしてこんな大切なことで勘違いができるのか。そもそもそれが不思議だった。
 ぼくはまだしばらくぼんやりを解答を求めていた。
「なんだ,こんなところにいたのか。どうしたんだよ。冴えない顔色して,悩みがあるなら聞いてやろうか」
 そこにやつがやってきた。ぼくの親友の精神科医だ。
 精神科医といっても,いわゆる普通の意味での精神科医,というものとは少し異なる。雰囲気としてもう少しドライな,脳をコンピュータを使って治療操作する,という半ば工学技術屋的な"のり"の研究だ。むろんまだとても実用化はされていないが,彼の研究はその実用システムの開発らしい。ついこの前に彼の仕事場で会った時も,どうもその機械を見たような気がする。見せられてもぼくは専門家ではないので,彼の説明はさっぱり分らなかったが。
 そして今日の結婚式の主役。今日は彼が結婚する日なのだ。
 それがぼくには妙なくらい納得いかない。
 お気楽に言うな。こっちは真剣だ。とっても真剣なんだぞ。
 とは思ったが,今のぼくの陥った状況を解決してくれるとしたら,たぶんこの男だろう,と直感的にわかっていた。そこで,ぼくは今自分が陥っている状態を彼に説明しはじめた。

「つまりこういうわけだ...。ぼくには結婚相手がいて,式を挙げようとするところまでは話がつつがなく進んでいたと思ってほしい。そして,問題はその挙式とそれに続く披露宴の形式だった」
「ぼくは基本的に,結婚式というのは結婚する二人を周囲の人間に知らしめるための儀式だと思っている。だから,極端な話,あえて披露宴など取り行なう必要はなく,お知らせ葉書の一枚でも出せば済むことではないか,と考えていた。そのほうが安上がりだし,遠くに住む親類にはるばるご足労願うこともない。結婚を控えたぼくの親友 ---- これは奇妙な精神科医をやっている,つまり君の話だ ----もそう考えてい たから,これは別に珍しいことではないだろうと思っていた」
「しかし,彼女はそうは考えていなかったらしいんだ」
「結婚式といえば,一生に一度のウエディングドレスと文金高島田。小さいころからの憧れなわけだから,ぜひとも自分達が主役の華々しい式を ---- むろん予算の許す範囲でだが ---- 取り行ないたい,と期待していたようだった」
「よりによってこういう二人が結婚という事態に望むはめになった,というわけだ。ここで意見が対立しないはずがない。互いに認めるところでは,ぼくたちは自己主張を明確に持っている。言葉を変えれば意地っ張り,わがままだ,という表現になる。どうでもいいことならば互いに妥協もするだろう。しかし事これに関しては,二人の意見が真っ向から対立してしまったのだ」
「それからがぼくらの苦闘の始まりだった」
「ほとんど毎日連絡を取って話し合ったが,互いに歩み寄りはなかった。しまいにはほとんど喧嘩ごしになってしまって,こじれてしまったことも何回かあった。顔を合せるのも正直つらくなってしまった。どうしてここまで来ていてこんな風になってしまうのだろう。そう思ったが,どうしようもない事態が続いていた」
「ぼくは正直いって,これはかなりまずいと思っていた。結婚を間近に控えた女性がナーバスになるのは聞いている。同じように男性もまた神経質になる。要するに男女を問わず,結婚という一大事を控えてそれなりに神経をすり減らすわけだ。そんなときに,いざ結婚式を行なおうとすると,それなりに面倒な手続きを経なければならない。その面倒臭さが問題だ。場合によると,その神経のすり減りに耐えかねて結婚自体を取り止めてしまうカップルもいるらしい。うそのようだがこれが決して珍しい話ではない。そもそも,この点を乗り越えられなければ結婚生活などおぼつかない。そうわかっているのだが,ぼく自身どうしても妥協する気になれなかった」
「いわゆる『結婚披露宴』というやつが気にいらなかったのだ」
「結婚式場のあのお仕着せ的な演出,ドライアイスをばらまいてのスモーク,型どおりの両親へのお礼,キャンドルサービス,等々,正直言って必要のないものが多すぎる。彼女の言いなりになっていたら、あれらのくだらない一連のセットまで抱え込むことになる。お色直し,というのもなんの事はない衣裳替えでしかないし,実際には花嫁さんに対する休み時間の提供にあたるらしいんだけど,それにしても意味もなく何回も服を替えるというのもどうもわざとらしい。無意味なくらいにこやかな司会が,知りもしない二人に対しての祝福の言葉を繰り返すのもなんともいえない。下手な場合にはゴンドラに乗って派手な音楽に合わせて登場,というような,もうかんべんしてほしいようなことにつきあわされる。ケーキカットだってどうせ本物じゃない。前に招待された披露宴では,二人がナイフを入れた瞬間に,ケーキの中からドライアイスのスモークが流れ出てきたことがあった。結婚式場というものは基本的に世の中をばかにしているな,とぼくは感じた。無難に結婚披露宴を済まそう,と考えれば式場のメニューに従うのがもっとも楽であることはわかる。おまけに招待された側に何をいう権利もないのかもしれない。でも,とそのときぼくは思ったのだ」
「 自分の結婚式は決してああはするまい」
「彼女の言いたいことは確かにわかる。女の子なら当然の願いだ。でも,こればかりは今後の二人の生活の基本にもなることであるし,筋を通しておきたい,と思った」
「で,話し合いは決裂していた」
「しばらくして,若干ながらぼくの心境が変わった」
「しかたがない。部分的にでも妥協するか」
「このままでは本当にタイミングを逸して、人間関係そのものが終わってしまう。そんな危機を感じたからだ」
「幸いな事に,どういうわけか向こうもちょうど同じことを考えてくれていたようで,意外に話し合いはスムーズに進んだ。実はしばらく顔を合せられないくらいの状況だったのだが,ともかく仲直りして,打ち合せを繰り返した」
「そこで,不思議なことに,そのとき始めて彼女のことをはっきり認識したような気がした」
「顔や姿形,声,いっしょに歩く時の感じ,雰囲気。何か妙に新鮮だった。こんな女性だったろうか。正直言って,驚いたと言っていい。とても落ち着いているし,言葉も柔らかい。人の心を汲み取るのがとてもうまい。なんでこんな人と仲たがいしていたのか自分でもわからなかった」
「これまでずっとつきあっていたはずなのに,どうしてあらためてそんな気になったのか,よくわからない。きっと,これまでしばらく会っていなかったからだろう。そう思った」
『それにしても,いい人と結婚することになったな』
「何回か話し合った後,一人でいる時に思わず自分の口からぽつりと出た言葉だ。自分で言うのもなんだが,本当にそんな気がした。それまでたいして感じていなかったのだが,どうも彼女といっしょに暮らすのがとても楽しみのような気がしてきたらしかった」
「なんだろうな,とぼくは思った」
「一種の悟りなんだろうか。結婚してしまえばこれまでのような自由な生活はできない。昼も夜もないような仕事一本やりの生活はもう送れない。思い起せば,それはそれで楽しくないことはなかった。自分のかせいだ金を好きなように使っても文句を言われることもない。部屋が汚れていようがどうであろうが自分さえ気にしなければ構わなかった。仕事場に何日寝泊まりしても問題は何もなかった。でも,これから先はそうはいかなくなる」
「自分の家というものがあって,そこに待っている人がいて,待っている人がいるからには帰らなければならない。生活は二人でするものだから,これまでのぼくの勝手な流儀が通じないこともあるだろう。彼女も同じだ。互いの生活の擦り合わせを行なうことでしばらくは過ぎる。そうして子供ができればそこから先は子育ての山が待ち構えている。そこから先のことは自分の両親のことを考えてみるとなんとなくわかる」
「とにかく,大変だ。休む暇もない」
「でも,とぼくはあらためて思った」
「そんな苦労を誰かといっしょにしなければならないとすれば,彼女が一番いい」
「確かにそう思った」
「一応言っとくが,別にのろけてるわけじゃない。こんなところは本質的なところじゃないんだ」
「それはともかくとして,ぼくらは何回となく会って打ち合せをした」
「これまで互いに意地を張り合っていたのがうそのように話し合いはうまく進んだ」
「結果的に,式自体は近所の神社で和式に。その後の披露宴の形式は,大規模な結婚式場で派手に行なうのではなく,近所の小さな会場を借り切って,お互いの親類友人を適当に招く,というところで妥協した。そのときに着付けの人を頼んで,初めに彼女がウエディングドレスを着て登場,一同拍手,写真撮影を行なう。わずらわしい儀式はケーキカットだけで,これも本物のケーキを購入,二人して本当に切り分けて招待客に食していただく,ついでにコーヒーも注いで回る,といったあたりで手を打った。お店の飾り付けもぼくたちが考える。これならばぼくも文句はない。仲人さんあたりは居心地が悪いかもしれないけれど,なに,そのあたりはうまく気を回す。これがぼくらのこれからの生活スタイル,とわかってくれれば本望だ。要するに,嘘のような飾りはいらない。気障なようだけれど,どうせこの共働きの若いカップルは初めのうちは簡素で“びんぼう”」なのだから,必然的にそうなるだろう」
「こういうことが何回かの打ち合せでうまく決まった。彼女は実に利発だったが,それをはっきりと表に出しはしない,そんなおくゆかしさも備えているようだった。前に思っていたよりも,ずっと奥が深い。確かに自己主張はしたけれど,相手の意見をふまえて物を言うバランス感覚をもっていた。確かぼくよりも4才くらい下の年齢だったはずだけれど,話をしているとどうもぼくのほうが安心してしまう」
「やれやれ,と思った。これじゃうまく尻にしかれるだろう。しかれていることすら意識させないだろうけれど。それはそれでまあいい。それがいい奥さんというものかもしれないし。べつにのろけてるわけじゃない。聞いてるか。おい」
「さて,そんなことを決めて日取りも決めたのがずいぶん前のことだったような気がする」
「ここからが本当の問題だ」
「長い間に渡って話し合っていたから,むろんそのときには普通の仕事や生活もしている。君という親友がいて,その男と結婚について何回か話したことがあった。互いに結婚を控えていたから,自然と話は合った」
「式や披露宴の形式のこともずいぶん話し合っていたよな。どういうわけか,お互いに似たような意見を持っていた。君がぼくと同様な葛藤を演じていることも知っていた。いや,実は今となってはそれもどうも怪しいような気がするんだけど。この辺なんだよな。何だかおかしいのは」
「それはともかく,だ」
「ぼくは,今日この場所で“ぼく”の結婚式が行なわれるものと思っていた。ぼくと彼女が二人して計画を立てた式と披露宴だ。だが,どう言うわけか,その君のほうから,「その結婚式」への招待状がやってきたのだ」
「手紙をもらったぼくの中で何かが葛藤していた。驚くぼくと,この事態を平然と受入れるぼくと,二人がいた。奇妙な話だった」
「あわてて彼女に連絡を取ろうとしたのだが,どうも妙だった。連絡先がわからないんだ。完全に忘れてしまっている。そんなばかな,と思ったが,そもそも彼女の名前まで忘れてしまっていた。何者かが,ぼくの頭の中から彼女と彼女に関する情報だけを徹底的に絞り取ってしまった。しかも絞り取ってしまったことすら忘れてしまうように」
「ぼくは仕方なく式場に出かけてきたが,やはり君の結婚式だった」
「何か根本的なところを見過ごしている。ぼくはそう思った」
「そこでぼくは何が起きたのか,しっかり考えてみようとして,一人で座っていたわけだ」

 彼の顔は初めは笑いを浮かべていたが,次第に真剣になっていた。
 ぼくの話が終わると,最後に彼は深刻な顔でこういった。
「すまない。俺のミスだ。まだシステムが完全じゃなかったんだ。危なくとんでもない失礼なことをするところだった」
 ぼくにはよくわからなかった。何が完全ではなかったのだろうか。
「本当に覚えていないんだな」
 ぼくは覚えていなかった。
「わかった。初めから説明するよ」
「つまり,本質的に問題を抱えていたのは,君ではなくて,俺のほうだったんだよ。彼女と結婚するつもりでいながら,お互いにわがままで話が進められなかった。もう実際危険な状態になっていた。これは君も知っての通りだ。これ以上こじれたら,本当に終わってしまうと思っていた。だから,俺は“代理人”を立てたんだ」
「俺の研究については,一応知っていたよな。だいたいでいい。人間の脳を外側から間接的にコントロールして,精神病を直そうというやつだ。もちろん研究段階だ。実用化にはまだずいぶん時間がかかるだろう。で,俺が担当している部分は記憶のコントロールだ。そう。記憶だ。思い出,知識,もののやりかたの体の動き。そんなところだと思ってくれていい。その中でも,特にエピソードと自我の問題が研究テーマだ。つまり,自分の思い出が自分のものである,ということがなぜわかるのか,ということだ。面倒な説明はこれ以上しない。ともかくそういうことだと思って欲しいんだ」
「それで,もうずいぶん前になるけれど,俺が君のこの話をした時に,君はこう言ってくれたんだ。自分ならそう意地を張らないで適当に妥協するだろう,って。そこで俺は思いついた。俺が直接彼女と話す替りに,代理を立てよう。つまり,俺の記憶を君に移植して,それで替りに話し合ってもらおう,としたんだ。君もこれには賛成してくれた。本当だよ。どうせ一時的なものだ。自分には結婚の予定も当面はないから,いい勉強にもなるだろう,そう言ってくれた。本当にありがたかった」
「そうなんだ。それで,俺は君に俺の試験システムを試用して,俺の記憶の一部分,つまり彼女の情報と,本質的な問題が何なのか,要するに式と披露宴をどういう形式で開くのか,を君向きに調整してコピーした。そして彼女と話し合いをしてもらったわけだ」
「さすがに君は見事だったよ。あっという間に意見を一致させてくれた。もちろんこれは彼女の方にもよるんだけれど...」
「それで,この前合った時にその結果を聞いて,俺は納得した。君の出した結論に従おう,と決めていたからね。俺もこのくらいなら納得できた。任せてよかったと思ったよ。それで,そのときに俺は君に研究室まで来てもらって,あらためて君の中に入っていた俺の記憶をとりだして,穴を埋めた」
「そのはずだった」
「それが誤りだったみたいだ。というよりも,そもそものはじめにミスをしていたらしいんだ」
「俺は単純に俺の記憶を客観的に移行しただけだと思っていた。でもどうも話を聞いてみると違ったみたいだ。俺の記憶はそのまま君の自意識の中に根を張ってしまったみたいで ---- 表現が不適当なことは認めるが,他になんて言えばいい ---- つまり君は俺の代理としてではなく,君自身の問題として結婚の話し合いをしてくれていたらしい。さすがにそこまでしてもらうつもりは俺にもなかったよ。この前,研究室に君に来てもらった時に,そのあたりの記憶情報を書き戻させてもらったはずだったんだが,システムの設定に無理があったみたいだ。どうもその後での消去が不完全になってしまっていたらしいんだ。それはそうだ。そこまで深く食い込んでいる予定ではなかったから。おまけにどうも今の話だと,必要のないところまで勝手に消去してしまっているらしいし...」
「結果として,君の意識上には自分の結婚式だという偽の記憶が植え付けられることになってしまった。すまなかったと思ってる。試験段階のシステムを使ってしまった俺がばかだった。危なく取り返しのつかないことになるところだった」

 ぼくもこれだけの手掛かりを与えられて,ようやく漠然と真実が見えはじめた。
 あきらかに混乱していたのはぼくの記憶だけだ。なぜかといえば,他の人間たちは別になんの問題もなくここに集まっているのだから。おまけに,よく考えてみれば,どうして自分は自分の両親にこのことを伝えていないのか,その点だけを考えてもおかしい。基本的に式や披露宴は,当人たちではなく,どちらかといえば家の都合で取り行なわれる。それを一切無視して自分たちだけで決めることは普通はできない。考えてみればおかしいことだらけだった。彼女のことだって,いったいどこで出会ったのか,そもそもどういう関係だったのか,当時からまったく気にしていなかった。当人が目の前にいたのだから,あらためてよく考えてみようともしなかったけれど,あまりに奇妙だ。もっとも,記憶自体を操作されてしまっていれば,しかも偶然とはいえ,ぼくの主観にまでそれが食い込んでしまっていたんだから,僕に取ってはどうしようもなかった。とはいうものの、これではなんともお互いに...
 そこで愕然とした。
 では,僕が結婚するつもりでいた彼女は,実は...
 やれやれ,とぼくは心でつぶやいた。何てことだ。こともあろうに,あれはやつの結婚相手じゃないか。親友のお嫁さんを本気で好きになってしまっていたとは,何だかもうどうしようもなく間抜けなはなしだ。事故だったとはいえ,穴があったら入りたい気分になった。
 本当に残念だった。でもしかたがない。また別の相手を探そう。どうせぼくには「当面結婚の予定はなかった」はずなんだから...でも,あれほどすばらしい相手が二度と見つかるとは,ぼくには到底思えなかった。今日は何とも複雑な気分で式に臨まなければならないだろう。そう思えた。
「でも,実は結局彼女に押し切られた。というよりも,彼女の両親になんだが。君たちには申し訳なかったと思ってる。君たちの立てたプランはとてもよかったよ。でも,やっぱり親類一同を呼ばないと後々問題があるって親が言い張ってね。結局こんな感じで式場を使って大きくやるはめになった。まあ,よけいなことは一切させない。だからキャンドルサービスや,ドライアイスなんかは一切なし,それから,君たちの案,ケーキカットは本物を使ってデザートに食べてもらう,というあれ,あれは採用させてもらったよ。実はなかなか大人数なんだけど,なんとかして見せるよ。本当の意味で,夫婦の最初の仕事になりそうだ」
 ぼくはやつの言葉を弱々しく聞いていた。そうかそうか。うまくやってくれ。そうして幸せになってくれ。どうせぼくはいつもまでも一人だよ。なんだかここにいるのもばかばかしくなってきた。自分の部屋に帰りたくなってきた。
 まったく,わけのわからない気分にさせられて,それが解決したと思ったら,いきなり最低の気持ちに落ちこむはめになってしまった。ぼくは思った。だから精神科医とか心理学者なんてやつはきらいだ。人間の心なんて,外からいじったりするもんじゃないよ。一生忘れない傷を作るのは,実は他でもない,お前さん達なのかもしれないんだぞ。
 ぼくは,自分がひどく落ち込んでいるのを感じていた。
 するとそこに,女性が一人やってきた。彼のスーツの裾を引っ張って,目で何か彼に伝えている。見たことのない女性だ。ぼくに向かって会釈をするから,ぼくも頭を下げた。誰だろう。ぼくは不思議に思った。妹さんやお姉さんはいなかったはずだが。
 やつは,珍しく少し照れた顔で,こう言った。
「紹介するよ。これが俺の嫁さんだ」
 ふたりはぼくに向かって頭を下げた。
 ぼくはぽかんとした。
 どういうことだ。はじめて見る顔じゃないか。これが本当にやつのお嫁さんだとしたら,では,ぼくが結婚の話し合いをしていたあの相手はいったい誰だったんだ? ぼくが本気で惚れてしまった,あの彼女は?
 ぼくの顔はさぞかしまぬけだったにちがいない。
「本当に,肝心なところの記憶が消えてしまったみたいだな。すまなかった」
「いいかい,代理人を立てたのは俺だけじゃない。彼女の方も代理人を立てて交渉していたんだよ。お互いに自分達の代理人の出した意見を尊重する,という取り決めでね。さっきから『君たち』の案,と言っていただろう? 実際に話し合いをしていたのは,要するに俺の代理人である君と,彼女の代理人であるあの娘だったんだよ。ほら,見えるかい。あそこでこっちを見てる。彼女の方は君のこときちんと覚えているみたいだな。嫁さんの方は普通の“お願い”で代理人を頼んでたから,そりゃあたりまえなんだけど」
「そろそろ思い出してきたかい。これだけ手掛かりを与えれば,もう俺のシステムでいまさら補助することもないだろ。ほら,行ってあげろよ」
「もちろん向こうさんもその気だとさ。とっても真摯な人で,好感が持てる,なんだって。そりゃそうだ。怪我の功名,といってもいいだろ。偶然とはいえ,結果的に,あれだけ「真剣」に『結婚』の話し合いをしてくれた相手なんだ。今思うと,そういえば妙に彼女,君の『真剣さ』を強調してたなあ。そりゃそうだ。自分のことだったんだから。ま,ともかくいまさら思い悩むこともないよなあ。お互いに」
「じゃ,俺は準備があるからこの辺で。うまくやってくれよ。一応言っておくけど,はじめから君とうまくいくような代理人を選んでおいたつもりでいるんだけどね。いろいろあって悪かったと思ってるけど,事これに関しては,感謝してほしいな」



<完>


初出?(1990?)
go upstairs