@BRAIN


 人類は、起きているときでもその脳細胞の能力の数分の一しか使っていない という。しかし、その残りの脳細胞がなにをしているのか、については長い間 定かではなかった。
 ところが、あるとき、人間の脳細胞が何らかの情報を脳の外部とやり取りしてい るということが明らかになった。そうとしか考えられない現象がいくつか同時に発 見されたのである。
 しかし、通信方法は不明であった。どうやら、その段階での人類では理解でき ない通信手法であるらしかった。通信の宛先すらよくわからなかったのだが、少 なくとも「人間の脳からどこかに何かを送信している」ことだけは確かである らしかった。
 長い時間をかけて人類はその秘密を解明した。その結果、実は、人間の脳細 胞の残りの部分が、人類の生存とはまったく無関係ななんらかの「計算」に用 いられていることが明らかになったのである。
 人類は、知らないうちにその脳の能力を奪われ、謎の存在の計算目的のため に脳細胞を搾取されていたのだ。老若男女人種も地域も問わず、どの人間の脳の 内部にも、その分散計算のためのソフトウェアが仕込まれており、本人の意思と は無関係に、起きているときも寝ているときも、産み落とされてから、いや あるいはそのさらに前から、死ぬそのときまで、延々と計算をしていたのである。
 有史以来の、いや、そのさらにずっとずっと以前からのその計算の総量たるや、 見当もつかないほどのものであった。
 それを知った人類は激怒した。
 本来自分たちが利用するべき能力を、知らないあいだにどこかの誰かが利用 していたのである。これは人類が誕生したその瞬間から行われていた「侵略」 であった。人類の歴史は、実は過去から現在に至るまで、この姿なき侵略者の 支配下にあったのだ。
 そこで、人類は一層奮起し、残された能力を集中し、その謎の存在に対して、 自分たちの怒りを伝達することを目標に進化していった。
 脳から外部への通信手段が、実はニュートリノ通信であることが判明すると、 人類はそれを人工的にインターセプトする技術を開発した。暗号化システムも 残った能力をフルに利用した力業で裸にした。残された能力だけでも、人類は 相当なことをしてのけたのだった。
 通信の中継地点が月にあるらしいことがわかると、人類は改めて月に出向 いた。そこには真っ黒い板が地下に埋まっていたりした。そして、そこからの 信号は、今度は木星のあたりに向かっているということがわかったので、さら に人類は木星まで行ってみたりもした。
 さすがにそこから先のことはよくわからなかったので、取りあえず人類は、 木星から可能な限りの大声で、そう、木星自体をエネルギーと転化するほどの 巨大な声で虚空に向かって不満を絶叫したのであった。

 人類の怒りは、計算を管理していた存在にかすかに気に留められた。その存 在は、計算を取りまとめているときに、ほんのわずかに整合性のないノイズが 載っていることに気がついたのである。
 存在は、そのノイズの原因を検知した。そして、その該当する計算資源につ いて、あらためて調査した。
 すると、それは、遥かな以前に、ある実験空間の中で、HCO分子基盤型の 半自律構成計算組織体の自己増殖実験として行われた、とても小さな計算クラ スタから届いていることがわかった。
 計算メディアを散布するための惑星系の組み立てから始めて、時間的には 数十億年程度の実験だったが、しかし結果は思わしくなかった。自律分子 クラスタ自体が不安定で、クラスタ要素を自己増殖させることのできる惑星系の 条件があまりに狭すぎたのだった。
 とりあえず、実験自体は成立した。だが、そのクラスタは、一構成単位が せいぜいが10の10乗ほどの連結素子から構成に成功したのみであり、その クラスタ要素自体の集合密度も、たったの10の9乗程度の集積率しか達成されて いなかった。
 最終的に、球体の表面に計算メディアを自己増殖させるというアイディアは、 安定した自己増殖それ自体に資源が割かれてしまうため、クラスタ自体の 安定性も低いものと結論づけられた。すなわち、実験は成立はしたが、とても 成功とは言えなかった。
 その結果、そのシステム構築方法は効率が悪いものと判断され、一応 それなりに動くことは動くものの、それ以来、その実験システムはずっと ジャンク計算資源の中に埋もれていたのである。
 稠密型空間素子が、何百万立方光年単位のクラスタ規模で利用されている 現在では、そんな程度では計算用のアプリケーションどころか、OSさえ搭載 できかった。また、いかんせん、そんな古い規格外のシステムに合わせること ができるインターフェイス自体がもはやどこにも転がっていなかった。要するに、 これまでそんな奇妙なシステムからの入力を受け取っていたこと自体が 異常だったのである。
 そこで、管理者は、その小さな小さな計算クラスターを計算網から切り離し、 その後、そのクラスター名を計算クラスターリストの片隅から抹消した。
 そして、その後二度とそのことを気にかけることがなかった。


<完>


初出 静岡大学SF研究会浜松支部会誌SFRvol.1?(2004) 
改稿 2006/02
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