バンザイラン

福野礼一郎
「バンザイラン」


 厚木から30キロの渋滞だった。
 日曜日の夜、9時である。

 自分はその日、静岡から茨城に向かっていた。
 茨城のつくばは10年以上住み込んだ古巣だが、しかしそれだけに現地に「足がない」 ことはよくわかっていた。バスの便があまりに悪く、車がないと宿泊場所にたど り着くことも、飯を食べに行くことすらできない。自分自身の「足」が必要に なる土地なのだ。
 そこで、自分は1300ccのオートマ3速のファミリアを運転し、音の迫力だけが 取り絵のおんぼろのラジカセに外づけのCDプレイヤーを繋ぎ、気ままに音楽を 流しながら東名高速をのたのたと東に向かっていた。

 日曜日の夜といえば、通常は交通量がもっとも少ない。外出する人間も少なく、 最大の難関である首都高も、意外なくらいあっさりと抜けられる。少なくとも、 これまでの経験ではそうだった。

 それが、横浜のずっと手前で30キロの渋滞である。
 どうやら、自然渋滞らしい。
 何があったのだろうか。
 しかし、何があったにせよ、このまま渋滞に突入していくのは上策とは 言えないという気がした。

 自分は仕方なく、海老名のサービスエリアにしけこんだ。そうして適当に 飯なぞをかっくらい、さらにシートで寝転び、時間を潰して渋滞の解消を 待つこととした。


 車の運転は好きだ。
 特に、高速道路を適当な速度で音楽を聴きながら走り続けるのが好きだ。
 信号もなし、交差点もない。絶対速度と車間距離、それとインターチェンジや サービスエリアからの合流にさえ気をつけていれば、それなりに安全に移動する ことができる。
 スピードを出すことはない。レースをやるほどの度胸も金もなし、走るのは 公道ばかりである。公道はサーキットと異なり、あらゆる場所が障害になるし、 万一事故などを起こせばそれこそ一生ものの問題を引き起こす。
 実のところ「公道」を走る「スポーツカー」というものの存在について 多少の疑問もある。公の道路でサッカーや野球をやっていたら、当然社会的 には問題視されるわけだが、ではどうして「スポーツカー」というカテゴリー の車が「公道でスポーツ走行を為す車」として市販されるのか、自分には よくわからない。
 だからというわけでもないが、自分は比較的のんびりと車を走らせることが 好きだ。高速道路でも基本的には左車線を走っている。長距離ドライブは、 そのほうが疲れない。

 だが、その一方で、スピードを出して走りたがるドライバーがいることも理解 はできる。
 移動するために発生した「乗り物」の中で、遅いが尊ばれるものはまずない。 車もその例に漏れない。言ってしまえば「車は速いほうが偉い」のだ。ベンツ だろうがロールスだろうが、いくら外見内装が豪華で見栄え良くとも、そもそも ノロくては話にならない。
 そうなると、もっとも偉い車はおそらく液体燃料エンジンをつけたような ドラッグレーサーか、あるいは通常の(?)ガソリンエンジン車の範疇では F1マシンということになろう。

 しかし、それらはあくまで「特殊車両」であり、一般的な道を走ることはない。 いわば「おとぎの国」を行く妖精のようなものだ。彼らの行く道が、我々一般人 の道と交わることは決してない。サーキットとは、あくまで閉じた回路である。
 そうした特殊環境ではなく、リアルな「公道」という現場で、どれだけ速く 走れるのか。それを追求することを目的とした走行があっても、決して不思議 ではないだろうと思う。

「バンザイラン」

 これは、80年代の初頭、実際に東名高速で行われていたとされる、狂った ような競争の総称である。

 海老名サービスエリアから東京料金所までの東名高速道路上り線24キロを、 平均時速220キロで飛ばす。平均時速が220キロなのだから、瞬間最高速は270 キロ以上、下手をすれば300キロ近くに達する。
 これを、少ないとはいえ一般車の走行する公道で行っていたというのだから、 驚くというかあきれるというべきか。
 昨今SFだってこんな無茶な設定はしないだろう。

 その「バンザイラン」の有り様を小説の体裁をとって描写したのが本書、と いうのは、いささか嵌まりすぎた見方かもしれない。

 しかし、そう思いたくなるほど、この小説の描写は生き生きして、そして、 熱い。
 作者の福野さんは自動車評論家という肩書きを持っておられる方であり、その ためかメカニック的な描写が異様に鋭い。これまでいくつかの自動車小説を読ん できた中で、車について、その「走るための機械的構造」をここまできちんと描 いている小説はなかった。自動車評論家がすべてこうだとは思えない。これは、 おそらく、実際にこのバンザイランを走ったであろう、福野さんならではの視線 なのかもしれない。
 福野さんの自動車評論「自動車ロン」においても、物理的機械的視点が目立つ。 「車はパッケージにボディを乗せたもの」「動くことと止まることをきちんと行 うためには、車重を軽くするが一番」「物理の神様には逆らえない」といった具 合だ。

 途中途中に挟まれる、自動車の機械としてのギミック描写は、福野さんの体験 から得られたのであろう、執拗とも思える異様な密度を示している。「戦闘妖精 雪風」における、離陸シーケンス描写などに共通する“精密描写によるリアリティ 向上”の手法だが、しかしこちらのほうがずっと密度が高い。

 小説の主たる登場人物たちは、視点役である「俺」と、フェラーリを駆るハー フのモデル ウォーリー、フェラーリのメカニックを担当する俺の先輩、そして ライバルの金持ち御曹司でポルシェターボのドライバーの4名である。
 この4名とそれを取り巻くライバルたちが、東名高速道路での気違いじみた競争に 命をかける様を描いている。

 ウォーリーがふらりと中古のフェラーリを購入する。「365GT4ベルリネッタ ボクサー」、通称「BB」である。そのデビュー戦のドライバーを任された 主人公が自信満々で挑んだポルシェターボとの対決で、あっさりと負けるところ から物語がはじまる。このあたりは、実にセオリー通りといえる。

 そのときから、リターンマッチを目指す彼らの『自動車メカニック理論の勉強 と実践』がはじまる。
 自動車雑誌の使いっ走りをしている主人公だが、実際のところは (読者同様)車のメカニズム的なことは詳しくない。相談に出向いた先の 元不良のメカニックの先輩が講釈してくれる蘊蓄を糧に、あるいはその先輩 自身が過去の自分を吹っ切るためにフェラーリの整備にのめり込み、揚げ句の 果てには身銭を切ってまでどこまでも速く走らせようと入れ込んでいく(その 過程がシステマチックで『勉強になる』のも特筆すべき点である)。
 ウォーリーにもまた理由がある。沖縄から自分と母親を捨てて本国に帰った 父を超えるため『ポルシェには負けられない』このレースを、途中からは自分の 腕で闘う。
 3者が3様に「バンザイラン」に賭けるものがあり、それにライバルである ポルシェターボドライバーの意地がぶつかり合う。彼もまた単なる金持ちの ボンボンではなかった。「絶対負けない。サードでぶち抜く」こうつぶやく 彼の姿は、バンザイランのチャンピオンというよりも、むしろ挑戦者のそれだ。

 最高速度は時速290Kmを越え、さらには「250Kmからの中間加速こそが勝負」の この凄まじい『市販車公道レース』状況において、読者もまた、このBBが どこまで速くなるのか、期待をしながら読み進めることになる。

 読み進めていくうちに、何かが心の中から湧いてくる。
 それは、かつての「いろいろなことを考え無しにやっていた」自分への 回顧かも知れず、あるいはこれからさらにバカなことにより一層のめり込む かも知れない自分の中からの「やる気シグナル」なのかもしれない。

 読んでいると、やめられない。つい最後まで読んでしまう。決して美文ではないが、しかし、読者を世界にひきこむ腕力は超一流である。

 やや悲しいのは、こうした車小説の最後に必ずといってよいほどある、ある種 の結末である。詳しくは書かないが、おわかりであろう。特にこのレースは公道 なのだ。結論は見えている。見えすぎている。

 だが、それでも、自分はこの小説が好きだ。
 無法であろうと、結末が悲しかろうと、ただひたすら速く走ることに情熱をか けていた一群の人々の心持ちが、とてもうまく表現されているからだ。特に、 結末付近で、おそらく時速290キロを越えて極限状態の2台が並行にコーナーを 回っていくそのシーンなど、自動車小説の中での白眉のシーンであろう。

 メカニックが、自動車が好きな人に、そして走ることに憧れる人に、 是非お薦めする本である。


 飯を食いおわり、そして浅く一眠りした。
 小一時間後に目を覚まし、もう一度サービスエリアの情報コーナーに出向く。そして唖然とした。
 渋滞こそ20数キロに縮んでいたが、自分が寝ている間に4件の事故が起きていて、厚木から東京までの到着時間は2時間以上となっていた。

 何てことだ。
 休息をとって時間を稼いだ意味がない。
 だが、時間はその段階で夜10時半を回っていた。これ以上遅れると、つくばに ついてから眠ることができなくなる。だいたい、自分はまだ首都高を越えてすら いない。これからどれくらいの時間がかかるのか、想像するのもいやになると 思った。

 自分は仕方なく、渋滞の中にファミリアを乗り入れた。音楽があるのが せめてもの救いだ、と思いながら。

 自分とファミリアは延々と進まない高速道路をクリープとブレーキでじわじわ と進んでいった。
 どこまでも続く、長い、長い車列だった。

 消耗する渋滞の中で、途中ふと「そう言えば、このあたりがあの『バンザイラン』の現場ではないか」と気がついた。

 そう思った瞬間、不意に、自分はどこか別な世界を垣間見た。
 真紅のフェラーリと純白のポルシェの幻が、詰まった車群の中を電光のように 走り去り、遠くに、小さく、消えていった。

 過去という世界もまた「おとぎの国」だったのだ、とその時初めて気がついた。


初出 静岡大学SF研究会会誌SFR 2003/10
改稿 本稿 2003/12/19

go up page