バベルのマンガ図書館




(他の者たちは図書館と呼んでいるが)宇宙は相変わらずの六角形の集合体であり、創始時以来、幾星霜の時を経てもそうしたシステムが変わることはない。この図書館は二十三種類の文字といくつかの記号の無制限な組み合わせからなる莫大な数にのぼる「本」が納められている世界であり、その本は各部屋の六角形の壁に沿った三十二冊並び五段組みの書架の中に整然と収められ、書架の納められている部屋は一部を通路と階段として利用されつつも、上下左右に周期的にどこまでも繰り返されている。常に四十行約八十文字で構成される一ページの四百十の面からなるその本は、許された文字と記号の無作為な組み合わせによって真偽を超越したあらゆる意味を含んだ宇宙である。今私が記しているこの冗長な手記すら、確実にこの図書館の書架の「どこか」にすでに存在していることを考えると、その完全さに畏れを抱くことも決して不自然な心持ちではない。図書館の存在自体の神々しさは、私の手にしたちょっとしたこの発見によってもいささかも揺らぐことはない。その点だけはいくら強調してもしすぎることはないだろう。
 さりとて、私の手にしたこの一冊の本の意味は、それほど軽いものでもないだろうと自負している。これは、従来の長い歴史において無数の司書たちが見過ごしてきたある事実についての間接的な証拠を示唆している。


 この一冊は、旅の果てにもはや聞き慣れた言葉も通じなくなって久しいある時、寂れた地方にはよくある排斥書物の山----歴史的に何回か巡ってくる書物排斥運動の嵐の数千年前あるいは数世紀前ないしは数日前の名残----の傍らの階段を下り過ぎようとしたときに目にとまった。ほとんど朽ちかけていたそのすり切れた本で、泥と埃と焼けこげの痕跡が残るその本の、たまたま開いていたページに私の目は釘付けになった。

 そのページの活字が、途中から崩れていたのだ。

 もちろん、これまでそのような本を見たことがないというわけではなかった。何らかの理由によって----その大半は構成部分の多くが破壊されたか、あるいは回復使用のないまでに汚損したかである----書物は、結果的にそれを構成する記号が読めなくなり、誰も管理するものがいなくなり、廃棄されてゆく。そうした本の中には、活字がすり切れたり汚れたりして判別不能になっているものもある。そうして失われるの量は相応に多いものではあるが、図書館全体の要領に比較してみればたいした量ではない。どんな本に対しても、その内容が一文字だけ異なる無数の本が存在し、その無数の本に対してもさらに内容が一文字だけ異なる本がやはり無数に存在する。図書館における広く認識された定理の一つとして、たとえ全く同一の本が2冊とないとしたところで、互いが互いの微妙に相違する写本と化している膨大な本の群れの中で、廃棄される一冊の本の影響を考えるのは測定誤差以下の計算に躍起になるのと同様に無駄なことである。

 しかし私は天啓に撃たれ、その本を手に取った。

 その本は、およその見た目はそのほかの無数の廃棄本と何ら変わるところはなかった。しかし、そのたまたま開いていた百三十八ページ目の末尾行の最後の幾文字だけが、微妙にかすれていたのである。しかも、そのかすれは単なるかすれではなかった。印刷のぼけやずれではなく、明らかに文字自体が分解し、灰色の霧のようなものの中にとけ込んでいた。

 私は瞬時にその意味を読み取った。例のごとく、その文字列自体、あるいはその本の背表紙に記されている記号列から示唆される事柄は何もなかったが、その“かすれ”の背後にある恐ろしい世界をかいま見てしまったのである。

 現前しているバベルの図書館は部分集合でしかない。

 我々は、今に至るまで、この図書館を「文字と記号から構成されている」ものととらえてきた。しかし、それは本当に正しかったのだろうか。このぼやけた記号の意味するところは、実はこの図書館がその背後に恐るべき母集団を抱えた図書館の、きわめて一部を取り出したものにすぎないということを意味してはいないだろうか。

 私がこの朽ちかけた一冊から読み取った真の図書館の姿とは、以下のようなものである。まず、ほぼ白に近い色彩の“紙”が存在している。素材の性質は、少なくとも長期にわたって変質したり虫に食われたりしないものであるのは確かだが、それ以上の性質を要求はしない。その紙をある定まった枚数だけまとめることで、一冊の「本」となす。装丁の性質についても紙と同様、時間の流れの中で自然に朽ちない程度の耐久性が必要とされるが、それ以外は概して簡素で、そして図書館全体で一冊の例外なく統一が保たれていることのみが要件である。紙の上には、きわめて小さいが、しかし無限小ではない大きさの「黒色の点」が散らばっている。この点を構成するインクもまた、紙と同様に時間による変化を生じないことが要求されるが、やはりそれ以上のものではない。次に、ここが大切なことだが、その点の散らばり方には“法則性がない”。すなわち、どの位置に点が打たれるのかは、いまあるこの図書館の文字列の順番に法則性がないのと同様に、あるいはそれ以上に定まっていない。したがって、およそそうした書籍のページは、遠目に見れば灰色のなだらかな平面のように見えるはずである。しかし、時として、そう、きわめて偶然にではあるが、そのなかで点の群れがある特定の分布や形を構成することがあるかもしれない。もちろん、そうした確率は非常に低く、そう、図書館の文字列が意味のある文章を構成するのに等しいか、あるいはさらにそれよりもずっと低いほどの確率ではあるが、なんらかの意味のある図形を構成する“かもしれない”。そして、その中でさらにはるかに希にではあるが、我々が「文字」と呼ぶ図形を構成することもある。

 そうなのだ。我々が今いるこの無数の文字列からなる果てのない「バベルの図書館」ですら、真の図書館の内部において、本当に奇跡のように偶然が重なって「我々の知る文字のように読み取れる図形が整然と並んで構成されている本」だけを抜き出した世界なのである。これが神の御技でなくて何であろうと、私は心の底から感動し、祈っている。

 そして、バベルの図書館と同様に、そうした法則性のない点の群れから構成される本においても“2冊として全く同じ本は存在しない”。それらの莫大なすべての書籍はどれ一つをとってみても神の作り給うた唯一無二のものであり、決して重複することがない。これはおそらく決して証明はなされないが、正しい定理であろうと想像することは誤りではあるまい。神は無駄なものは何一つとして創り出さないのだから。

 我々の背後に存在するであろう「真の図書館」のことを思うと、私はさらなる驚きと畏怖に飲み込まれ、それを思うことすら自由にはできない。無数の点がランダムに紙面に踊り、そしてそのほとんどすべて、そう、ほとんどすべてがまったくの灰色の無意味な平面から構成される。そうした本が、この図書館と同様の書籍体裁で同じ六角形の部屋の壁面の書棚に並んでいる。その全体の規模は、”このバベルの図書館”など大河の一滴ほどに思えるような大きさになる。その中で、本当に奇跡のような一つのしずくにおいて、何らかの意味のある図形、たとえばこの図書館の本を構成する文字記号の一つを構成するように見える一角が垣間見える可能性がある。しかし、単にそれだけではその本は“こちらの図書館”には顕現しない。最初のページから最後のページまで、完全に文字と記号として読み取りうる一冊において、初めてこちらの図書館に移管されることが許される。不完全な本を図書館に示すことは神の仕事ではないからだ。裏を返せば、今ここにあるバベルの図書館の本のどの一冊においても、今目の前にある、一見何ら意味 をなしていない
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などという文字列ばかりを羅列した本においても、神は奇跡的な仕事をなしていたのだ。

 どこか遠い世界において存在すると噂される、無数の象形を自在に文字として模った記号体系を利用する言語が実在したとしても、この「真の図書館」の内部においては単なる部分集合にすぎない。たとえ、我々の「図書館」よりは多少大きな集合であったにせよ、その違いは全体から見ればほとんど取るに足るものではないはずだ。

 これだけであっても、私は興奮してほとんど正気を失いかけるほどの衝撃を受けていた。だが、次の瞬間に、問題は文字記号だけではないということに気がついたとき、私は本当に腰を抜かしてその場に座り込んで長らく放心した。

 点の群れからなる書物のページには、文字だけではなく、図形や絵、あるいはマンガの原稿すら表現されているではないか。あらゆる情報が、まさにすべての情報がそこに表現されているのだ。すべてのタイポグラフィック、すべての絵物語、あらゆるマンガの原稿、あらゆるマンガの原稿から描線をコンマ数ミリだけ上方にずらした原稿、同じ絵だがネームの違った原稿、あるいはあらゆる漫画家が描いたサザエさん、あらゆる漫画家でない人間が描いたサザエさん、決して読むこと能わないはずの「火の鳥」完結編、「サイボーグ009」の天使編の続き、「神の左手悪魔の右手」の続編、「ALGO」の第3部、「コスモスストライカー」の第3巻、「シスター・プリンセス」連載第5部、コミケの信頼すべきカタログ、何千何万もの虚偽のカタログ、これらのカタログの虚偽性の証明、真実のカタログの虚偽性の証明、あるいはボルヘス自身の手になると署名される「バベルの図書館」のマンガ化原稿、セルバンテスのドンキホーテのマンガ化原稿、ピエール・メナールのドンキホーテのマンガ化原稿、そのアニメ企画書と途中打ち切りになる第一七話の絵コンテ、おもちゃの売り上げが芳しくないスポンサーへの言い訳 と原作者の機嫌を損ねたあげくの書きかけの始末書、途中交代させられたアニメ監督やスタッフがこっそりつけていた決して公開されなかったぼやき絵日記まで、そこにはすべてが揃っている。

 ここまで読んで、勘のいい読者は気がついたかもしれない。「黒という色彩すらも、印刷面においてはいくつかのインクが重なり合った点にすぎず、偶然の重なりを認めない場合においては、むしろ様々な色彩がそこに生じるのではないか」と。その通りである。その真の図書館の“外側”には、おそらくカラー原稿までが含まれているであろう「真の真の図書館」が控えている。すなわち、黒色が点として体現しているのは「その図書館」においては、きわめて一部にすぎず----そしてその一部はその内部の“マンガ図書館”に移行してゆく----またその図書館においては様々な色彩の組み合わせが平面上に霧状の嵐のように乱舞している。そこにはあらゆるカラー原稿やあらゆるカラー原稿の色違い、あらゆるよくできたアニメセルやあらゆるだめなアニメセルが「その図書館のどこかに」存在している。おそらく、そこはもはや図書館ではなく、その無限に限りなく近いその色彩乱舞の羅列の平面を組み合わせて時間軸に沿って並べることで、アニメーションを作成している「動画工房」と化していることだろう。そこでの無数のアニメーターたちの果てのない努力はおそらく徒労と表現する他ないだろうが、しかし理論上すべてのアニメセルがそこにある訳なので、いつの日かとんでもない傑作を生み出す可能性は決してゼロに等しくはない。たとえるならそれは、コンピュータを与えられたニホンザルがOSと言語と日本語入力ソフトを偶然開発して日本語ワープロで「大菩薩峠」を書きあげて完結させてしまう確率程度には、報われることがあるのかもしれないと思う。

 世界の広がりは決して“無限”ではありえないが、しかしその有限のすべての規模の実態を体感することは容易ではない。

 私の旅----神がその眼鏡にかなった書籍をこの図書館に搬入する「搬入口」を探し求める旅----はもうずいぶん永いことになる。あらゆる六角形の通路を探索し、あらゆる手がかりになる書物を探索し、その手がかりの手がかりになる書籍を追い求め、あるいは荒れて朽ちかけた書架の裏側を執拗にのぞき込み、通路の間の六角形の空間に本を投げ入れては、その落ち行く果てで生じるであろう音に耳を澄まし、絶望にその闇に自らの身を投げようとすら思い、そしてある瞬間には啓示を得、別の瞬間には啓示を失い、どこまでもこの回廊に一人きりで彷徨っている。文字を確認するための最小限の明るさを提供するランプという名の球形の果実の下で、私は自分の曖昧な影を見続けている。

 しかし、その過ぎた時間を無為に失われたものであると嘆くことはすまい。私の旅は常に始まったばかりであり、そして私の命はすぐにも尽きようとしている。幸いにも、この宇宙に残された時間はまだまだ長く、おそらくそれは図書館の大きさが“無限大”であると表現されるのと同じ意味において“永遠”と言い換えても差し支えないはずである。

 静岡・浜松、二千四年十月



付記

 ここでもうひとつ、図書館についてのこれらの拡大するスケールとは正反対の とらえ方があることも触れておかねば公平ではあるまい。

 すべての情報の根底は“有”と“無”からなるという事実は、いつのまにか我々 の間で流布している説である。おそらく、この説は誤ってはいまい。すべての存 在が「存在する」ことから始まりやがて「消滅する」ことに依拠しており、この 二つの現象から世界をとらえることは正しいことのように思えるからである。そ の論理でこの膨大な世界をとらえると、実はこのバベルの図書館も、あるいはそ の外の真の図書館も、あるいはその外側のアニメ工房も、実際には0という無と 1という有の有限個数の組み合わせに還元されうる。もしも、ある作品を一冊の 本の中で終わらせることなく、本自体を組み合わせて構成してもよいとし、しか も繰り返して利用してもよい、ということとすれば、実際にはこの宇宙のすべて の本は「0」と印刷された裏のない1ページだけの書物と、「1」と印刷された 同じく裏のない1ページだけの書物の全2冊ですべて表現される。この2冊の本 の有限回数の組み合わせで、バベルの図書館を含んだすべての書籍は再現できて しまうのだ。

 これまでそうした書物が見つかったという話は聞かないが、おそらくはこの図 書館のきわめて“中心的な部分”に鎮座しているのではないかと予想される。こ れを探し出すことは、ある意味で図書館のすべてを手に入れることと等しい。

 宇宙は、この二つの世界観----莫大な、果てのない混沌とすべての可能性を網 羅する真の図書館と、その対極にあるもっとも単純な有と無からなる2冊の本に よって構成される図書館----の間で絶えず揺れている。

 現在、私は迷っている。このバベルの図書館からさらなる大きな「真の図書館」 に出るための出口の探索と、そしてその反対に「真の聖典」である0と1の2冊 の書物を探すための探索の、そのどちらに我が身をゆだねるべきだったのか。そ れは、同時にこの図書館に暮らす残り少ない人類である司書たち全員に 突きつけられた難問であって、その答えは一人一人で異なることだろうが、私に はいずれの目的もまた漠として遠くにあるように思えて仕方がない。

<完>


参考文献:J.L.ボルヘス「バベルの図書館」 岩波文庫「伝奇集」より
初出 静岡大学SF研究会浜松支部会誌「SFR vol.1? 」2004.12

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