ビューティフルドリーマー

押井 守



 青空にカモメが舞う。

 街の廃虚が映し出される。

 これが本当にあの「うる星やつら」なのか。自分は映画館を間違えてしまったのではないのか。

 やがて人物が現われる。確かに見慣れたキャラクターだ。しかし、どこかが違う。何かが異なる。この物悲しい音楽は何だ。いったい何が起きているのだ。

 この映画は、原作(キャラクター)こそ高橋留美子の「うる星やつら」から借りているものの、内容的には完全に監督の押井守の作品である。キャラクター同士の関連は一応原作に沿っている。原作の目指す(?)ような熱のこもった恋愛感情も、相応の関係として記述される。しかし主眼には置かれない。彼らは「学園祭の前日」という「ハレ」と「ケ」の中間的な不安定な状態に置かれた「置物」として描かれる。

 まずこの場面を選んだ段階で、この映画の成功は約束された。さきほどは「ハレ」と「ケ」の中間的な状態、と記したが、ご存じのとおり、実際にはこの「前日」そのものがすでに「ハレ」だ。いや、むしろ「ハレ」に移行するその直前の"興奮"こそがまさに「ハレ」の真の正体であり、実際に移行するのかしないのか、というところは本質的なものではないのかもしれない。いずれにしろ、登場人物たちはそれぞれに興奮状態にあり、その興奮状態はそのまま私たちにも過去の経験を想起するという面において容易に感情移入を許す。また、それはまさにその瞬間における「映画を見ている」という状況にまで敷衍される。

 明日になればもっとよくなる。明日になればもっと楽しい。明日こそが。そういった希望をもっているとき、私達は幸せだ。そうして、その浮かれ騒ぐ状態がいつまでも長続きしないことはわかっている。わかっているからこそ、そういった瞬間は濃密であり、「夢のような時」として体験される。この作品においては、その夢のような時間が夢のように繰り返され、時はその輪の中でいつまでも巡り続ける。登場人物達が異常に気がついたのが、そうした時の輪を果たしてどれくらい巡った後であったのか。服装からの推測の描写はあるものの、それが果たして単純に「冬服を夏に着ていた」という程度の時間差の話でしかないのか、それとも実はそういったレベルを遥かに超えて、時間と季節の関連などもうとうに消失してしまったくらいの時の果てにあるものなのか。幸福な煉獄は果たしてどれほど続いていたのか。

 中盤以降、物語は廃墟において演じられる。つい先日まで当たり前のように人々が住んでいた街は、なぜかものの数日を経ずして主要登場人物達を除いて誰一人としていなくなり、急速に荒廃をはじめる。この荒廃ぶりが実に魅力的に映る。強い夏の光の下で街並みは全て色あせ、学校は水没して池の中の島となる。コンビニエンスストアにはどこからともなく食料や新聞が届けられ、実にお気楽なサバイバルが展開される。祭りの前の興奮は、いつのまにか終わらない夏休みへの没入に変貌してゆく。


 この際、最後のからくりはどうでもいい。夢の中の出来事だったのだ、なんていう「つまらない説明(実際、当時高校生であった自分は、この漫画映画の1作目を見終った後、次の映画のシナリオを予想して「ヒロインの夢の中に入る話はどうだろう」と考えていたくらいで、それほど新しい趣向というわけではないだろう)」をするよりも、むしろこの映画は「滅びを楽しむ物語」であると考えたい。その心象がそれ以外の部分をセピア色に褪せさせてしまう。全ては祭りの興奮から滅びへと一気になだれ込むあのドライブ感覚のためにあり、さらに言えば、その物語が向かう方向が「映画を観る者」の自己の内部への回帰衝動と一致したときに、初めてこの映画の意味が理解される。「夢」というからくりはその没入を容易にさせるための触媒にすぎない。

 高橋留美子自身はこの映画をあまり好きではないのだとどこかで読んだことがある。彼女自身の分身であるキャラクター達が、他人の指図の元に好きなように(しかも見事に)動かされることに対する違和感のようなものがあったのかもしれない。私自身も実のところその感覚に近いものを感じている。「うる星やつら」という枠のなかでなければよかったのに、と思う。オリジナルのキャラクターを使っても、十分に「見られる」作品であったはずであり、この場合「うる星やつら」は、もともとがなまじ思い入れの作品であるだけに余計ですらあった。高橋留美子の感想も、基本的には「映画における自分のキャラクターの存在意義」の必然性のなさに対するものだったのかもしれず、実のところ脚本がこれほどまでに“見事”でなければもう少し好意的なものになった可能性もあるのではないか。

 しかし、これまで語ってきたことはすべて「語りうる」ことに限られた範囲のなかでの話である。自分の内部でのこの作品の位置は、ほとんど心の「土台」に近いところを占めている。友人に誘われて出かけて、初めて見たときには「別段どうということもない、ただの夢落ちのネタ」という感想を抱いた。その段階においては「それほどのものではない」という気すらしていた。そこで帰っていればすべてはそのままで済んだはずだ。

 だがその友人の「つづけてもう一度見よう」という誘いに乗った瞬間から(当時はそういうことが普通にできた)現在の自分が始まっている。2回目に見終わったときには、1回目に見たときとは全く異なる印象を持ってしまっていた。幕が降り、映画館から出て行くときにもまだ呆然としていた。自分に何が起きたのか、自分でもわからなかった。

 何かが「わかって」しまった。“そういう世界”を知ってしまった。この映画が自分の中にひそかに封印されていたある一つの「ドア」を開けてしまった。自分は呆然自失しながらふらふらとその部屋に入っていった。

 時来、自分はその部屋に幸せのうちに囚われている。ドアは開いているが、出ていこうとはしない。なぜなら、この部屋こそが、まさに自分の生まれ落ちた部屋だからであり、胎内において見続けていた原初の夢の続きを上映しているところだからである。この部屋の中で、自分は一人きりでひたすら自分の夢を見続け、その一部分を辛うじてこうした形で外部に映し出している。

 もしかすれば、自分は存外幸せなのかもしれない。

<完>