白い鳥



 白い鳥が飛んでいた。
 雲のない、薄い青色の背景に、一羽の白い鳥が、羽ばたきもせずに、遥かな空の高みをゆっくりと舞っていた。
 けし粒のような小さな点だった。だが、そのあまりの小ささゆえに、彼はそこから目を離すことができなかった。
 ----- どうして、あれだけの高いところに昇ってゆくことができるのだろう
 彼はしばらく考えた。考える時間は、今ではもうずいぶんとあった。奇妙にはっきりしない意識でぼんやりと考えた末に、彼は結論らしきものを導いた。
 ----- 鳥には羽があるのだから
 鳥は大きな弧を描いて、ゆっくりと、本当にゆっくりと大空を巡っていた。上空ではきっと強い風が吹いているにちがいなかった。
 彼の回りにもずいぶんと強い風が吹いてきて、彼は時折手の甲で目をぬぐっていた。そのたびに彼は、あの鳥がもしかしたら見えなくなってしまうのではないかと心配した。
 しかし、どこまでも透明な青い空を見上げるごとに、その白い微かな点は依然として存在し続けていた。
 その景色を、彼は美しいと思った。
 どうしてこんなに美しいものに今まで気がつかなかったのだろう、とも思った。
 ----- きっと、疲れていたんだろう                    
 風に押しつけられて、スーツもズボンもしわだらけになっていた。ネクタイがピンを外れてはためいていたが、彼は一向に気する様子を見せなかった。
 ----- そうだ、僕は疲れていたんだ                    
 鳥はまだ上に昇ってゆくようだった。純白の点は、ほとんど注意深く見ていなければわからないほどゆっくりと動いていた。そして瞬間毎に微かになっていった。彼はそれを目をこらして眺め続けた。
 何かが彼の足元から飛んでいった。
 それは、強い風にあおられて不安定に舞いながら、急速にはるか下方の街の背景にとけこんで、やがて消えていった。
 地上からは、彼の姿は恐らく誰の目にもとまっていないだろう。
 だが彼は、そんなことには全く関心を払わずに、ただ上を見つめていた。
 ----- あれが見えなくなったら
 白い鳥の姿は、今にも青の中に溶けてしまいそうだった。あまりじっと見つめたので、白い点が青の中に溶けこんでしまった瞬間に、青という色彩も消えてしまうのではないかと、彼には思えた。
 ----- あれが見えなくなったら、行こう 
「あれば見えなくなったら行こう」
 彼は、自分に言い聞かせるように改めてそう口に出してみた。自分の声とも思えないほど妙に現実感を欠いた声が、どこか遠くから聞こえていた。
 遺書は自分のスチールデスクの中に三通、無造作に放りこんである。家族と親友と、もうひとつは会社宛だった。土曜と日曜で身の回りの品も一通り整理しておいた。月曜日は会社を休み、どうしても会いたかった人と会っていた。
 ただ、何と言うことのない話をものの2時間ほどしただけだった。それで十分だった。自分では普通に振る舞ったつもりだったし、不審がられることもなかったはずだと思った。その相手とは笑って別れた。また会いましょうといって、いつものように別れた。
 そうしてやるべきことを終えてしまい、朝になって目覚め、食事をし、人目を忍んで適当なビルの屋上まで上がった。靴をフェンスの内側にそろえて脱いだ。ゆれるフェンスを乗り越えてしまうと、あとはすることがなかった。
 なぜこうなってしまったのか、いまさらそんなことを考える気にもならなかった。
 眼下には、色彩を失った街がどこまでも遠く、低く連なっていた。
 彼を拒絶し、彼から拒絶された世界が、初冬の陽射しの下にこけのようにへばりついている。
 いつのまにか、鳥の姿は網膜に残った痕跡以上のものではなくなっていた。そして、それを認めているのが自分の死にたいする無意識の抵抗感だと気がついたとき、やがてその痕跡も消え去っていた。
 後には何も残らなかった。
 距離感のない、不可思議な薄い、青い空間がどこまでも広がっている。
 彼はふと、あの鳥にもう一度会ってみたい、と感じた。
 ----- 今なら、まだ追いつけるだろうか
 彼の脳裏に友の顔が浮かんだ。彼が死ぬことによって悲しむであろう、親や兄弟の姿が現れた。最後にまた会おうといって別れた人の顔が浮かんだ。
 ----- もう一度やり直すことはできないだろうか。
 だが、次の瞬間には、身を切るような鋭い風が再び彼の心を閉じ込めてしまう。
 白い鳥の影。
 どこまでも白い、純白の影。はるか高みを舞う鳥の姿。
 彼の視線は虚空にのびる。
 ----- いますぐ後を追えば、追いつく
 彼はそう確信した。
 不思議に高揚した気分の中で、彼はゆっくりと深呼吸をした。
 そして目を閉じると、静かに笑った。


<完>


初出 hotline38(1989)
再掲 Cygnet5(1990)
go upstairs