第十夜


 どこか遠くでサイレンが鳴っている。

 いつのまにか自分は、流れる人々の間に混じり、街の中をどうしようもなく動いている。人々は群れをなしてどこかに向かって歩いてゆく。誰も何も物を言わぬ。ただ道という道に人はあふれ、その人の海がどこか一点に向かって流れてゆくらしいことが解る。

 自分も例にもれず、その流れにのってじわじわと歩んでいる。辺りを見回せば、これまた一様に無表情な人間が、蝋人形のように平坦な顔つきで静かに行進している。必要以上に穏やかであるとも思える。皆それぞれ自分だけが生き残るつもりで、それでいてそんなことをおくびにも出さないで互いを牽制し合いながら、それでもやはりわずかでも隙があれば自分だけは生き残ることを確信している。そしてまたどの人も、誰もがそう考えているだろうということも解っているらしい。群衆は全体が一つの底意識をもった状態で不気味に流れていく。

 午後の陽が静かな街を照らしている。空の色も、雲も、風も、平生と比べてどこも違うところはない。ただ青空のどこかで小さくサイレンが鳴っている。顔を上げて遠くを眺めた自分は、果てしなく続いているこの人の流れがはたしてゴールというものをもっているのかを疑問に感じ始める。高架道路の上も、地下街に続く階段も、鉄道線路まで人で一杯である。しかも自分のみるところではそれらの流れには統一性というものがまるでないように思える。ただこの街の中を、出口を求めて動き回っているだけのようである。そしてそのことも、誰もが皆承知しているようである。

 ずいぶん長い間歩き回ったが何事も起こらぬ。自分は、もうゴールはないのだろうと悟った。いくら市民用のシェルターとはいえ、とても市民全てを収容できるわけではなかろう。もうとおの昔に入口は閉じられ、中ではパニックが起こっているに違いない。どちらの世界にいたところで結果は同じようなものかも知れないと自分は思った。このまま自分たちはこの流れに乗り、止まることもできずに歩き回り、数十分後に来るべき白い光の下で蒸発してゆく。シェルターの中にいたところでそれほど長生きもできそうにないが、入れないのもまたしゃくにさわる。そのこともまた誰もが感じていることなのだろうと思う。

 相変わらず自分を含んだ人の群れは不可思議な緊張をはらみながら歩み続けている。もう同じ所を二度、三度と 巡っているらしい。不毛な行進の上を夏の陽が焼けるように照らしつけている。

 自分は誰に言うともなく一言、暑いと言った。

 一瞬,全ての動きが止まった。

 街全体が静止した。

 やがて、暑い、暑いのだ、というざわめきが自分を中心にして広がっていった。

 こだまのように、遠く広がっていった。

 まずかったと思った。

 どこか遠くでガラスの割れる音がした。

 叫び声と罵声がそれに重なった。

 あたり一面から、無数の蜂の羽音のような、重い稔り声が静かに押しよせてきているのがわかった。

 いやな夢だと思った。

 汗が顎の先にしずくを作っている。奇妙に生々しい感触だと思った。どうしてこれが夢なのか、という気がした。

 そのときようやく、もしかすれば、これは夢ではないのかもしれないと思いはじめた。




<完>


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