幻翼



 その男は言った.
 事故で失われた腕が,まだそこにあるような気がするのです.
 そして,その腕が痛むのです,と.
 握り締めた拳の爪が,皮膚を突き破ってくい込むように感じられるのです.も うないはずの爪が,もうないはずの掌に.
 医者は言った.
 それは,幻肢といって,あなたの脳が産み出す幻なのです.
 あなたの脳は,あなたの腕が急に存在しなくなったことがわからないのです.あな たの腕がまだあるはずだと思いこんで,その脳の領域に無理に信号を流しこんで いるのです.
 だから,この鏡張りの箱を使って,あなたの脳をだまします.
 あなたが見たとおりにある,あなたの幻の腕を動かして,そして掌を開けば, あなたの存在しない腕の痛みは消え去るはずです,と.
 その箱には,中央に鏡が衝立のようにおいてあり,片方の腕を入れると,あた かもそこにもう片方の失われた腕が現れたように見えた.
 男が失われた腕を動かすと,確かにその幻の腕が動き,そして掌を開くと,く い込んでいた爪が,どこか別の世界で静かに開いた.
 痛みは消え去った.
 男は言った.
 ありがとう.
 確かにこの箱のおかげで,私の幻の腕はもう無くなりました.
 しかし,私の背中についている翼は,いったいどうすればいいのでしょうか, と.
 腕が無くなった頃から,その代わりに背中に翼がはえているような気がしはじ めたのです.そして,その感覚は,幻の腕が消えた今,さらにますます強くなっ たのです,と.
 医者は言った.
 それもあなたの脳の生みだす幻の一つでしょう.失われた腕を司る脳の感覚領 域や運動領域が,あなたの背中の領域に拡張して,あなたの身体にあり得ない感 覚を生じさせているのです.もうしばらくしたら,それも消えることでしょう.
 そうなのですか.
 いつかは消えてしまうのですね.
 男は言った.
 でも,こちらは少し残念な気もします.
 一度,空を飛んで見たかったものですから.
 遠く,
 高く,
 この見えない翼で.

 男が微笑むと,大きな羽ばたきの音とともにあたりに風が起き,カルテが舞った.


<完>



初出 本稿 2001/04/19

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