曇。朝6度、昼8度、夜冷え込んで氷点下1度。この夏一番の冷え込みとなる。
夜10時現在、かろうじて電気はきている。こたつを入れているが、部屋は冷たい。
本日の買物。たまねぎ小1つ528円、豚肉200グラムパック1244円、牛乳200mlが特価877円。全て消費税込み。たまにはこの程度の栄養を取らねば、と思うのだが、いざ買う段になるとやはり抵抗感がある。ついこの前まではこの何分の一かの値段で普通に売られていたものばかりだ。今日はそれでも店に品物が並んでいて買えただけ有難いと思うのだが、何とも腹立たしい。
昼からは大学へゆく。研究室へ行き論文を読む。腹が減って集中できず。秘蔵品のインスタントコーヒーに砂糖を半分削って飲む。胃が空に近いせいか、少々気分悪くなる。昼間は電燈をつけないように、とのお達しが上からきているが、こう曇り続きでは窓際にでも行かない限り、いや、窓際に行っても読みにくい。文献を訳そうとしてもコンピュータがなかなか使えないのでやりにくい。すっかりあの機械に慣れてしまっていたようで、いささか反省している。こうなると昔ながらの手作業型の研究者の勝ちだ。そこここの領域で老大家が生き生きしている。これもこれで何とも困ったものだ。この分ではコンピュータメタファーも消えて行き、何かもっと現状に即した研究態度やパラダイムが出現するかもしれない。いい機会なのかもしれない。よくわからないが。
夕飯は皆で学食へ。ハンバーグ定食1640円なり。何の肉なのかよくわからんが、安さにはかえられない。しかし、これだけ腹が減っていてもうまくも何とも感じないのはなぜだろう。不思議。
夜、あまりの寒さに早目に切り上げて9時半過ぎに戻る。自転車のハンドルを持つ手がかじかむ。今日は奇数日だからガスが来ていて、風呂が沸かせるので助かるが、しかしなかなか沸かない。その暇を見てこうして日記をつける。
そういえば、奇妙な噂聞く。あまりにばかな話。
曇 朝氷点下2度、昼3度、夜氷点下2度。明日以降もっと冷えるだろうとのこと。
鰯煮付け缶詰500円。これはお徳だ。人参2本990円。ただし1本は半分腐っていた。ロールパン6つ入り1000円ちょうど。今日は米が買えなかった。
ようやく中東に関する情報が入り出したようだ。イスラエルは国民の過半数以上がシェルターにとじ込められている状況らしい。ごたごたの中心渦にいた連中が意外にこうして生き残るものだ。もっともその後どうするのか、まで考えていなかったのだろうけれども。その他のアラブ主要地域はほとんど焼け野原同然、イスラエル軍が意図的に用いたプルトニウム爆弾の強放射能の塵のせいで生存者はまずいない模様。北アメリカ大陸はあいかわらず沈黙。ワシントンが消えたのは確かだとしても、ロッキーの岩板の地下にある防空センターは直撃に耐えられるくらいの防備を誇っていたのだろうが、どうしたのか。ECはブリュッセルが公式声明文を出しているようだが、果たして公式機関が存在しているのか。直撃を受けたらしいどこかが完全に焦土となった映像が入っていたのだが、あれはどこだったか。モスクワか、パリか、ロンドンか。映していた人間は無事だったのか。
こういう時に一番強いのはおそらく中国だろう。あの国には世界が消えたことにすら気がつかない人間が数億人はいるだろうから。北京が消えたくらいでは何でもない。
しかし、意外にも日本は生き残っている。1億2千5百万人。シナイ半島に駐溜していたわずかな連中を除いてほとんど無傷。むしろこのことの方が問題なのかも。
腹が減って、ともかく何かをしていないといけない。何かを書くことでなんとか忘れようとしてみるが、限界があるとわかる。
あいかわらず変な噂が流れてくる。もちろんメディアを通じた公式発表などない。だからこそ真実性があるようにもおもえてきた。奇妙なくらい。
曇 朝氷点下3度、昼1度、夜11時現在氷点下3度。
今日は院の同僚の連中と議論する。久しぶり。なかなか白熱する。とはいっても何とも噛みあわないものでもあった。いまさら「心」などない、といわれても困るのだ。
彼らの言う問題点とは、我々心理学研究者の「立場や態度」のことであって、こちらから言わせていただければ「心理学」という学問に対して彼らが抱いている幻想を我々にぶつけているに過ぎない。それは確かに今現在我々が行なっている学問が「心」を追及しているか、といえばそれは疑問である。しかし、私はともかくこのやり方で他でもない「私自身の疑問」をある程度解決してゆけるだろうという見通しがあり、その問題そのものをどうのこうの言われる筋合はない。「その疑問や問題意識がそもそもつくられたものなのだ」などと説教されるのは御免だ。なぜなら私はそのドグマに従うことを百も承知でこの道に入ってきたのだから。文句をいうのなら始めから入ってくるな。中途半端に研究をしてきて今更それに反旗を翻す、というのも何とも言えない。ここに至るまで気がつかなかったあなたがたが悪いのだ。おまけに彼らの言うような、記述ないしは描写によって「心を浮き彫りにする」ようなことはもうとうの昔から文学やら哲学やらが血道を挙げてきた事柄であって、今更心理学者風情がしたり顔で出てゆくことこそおこがましい。それでも、彼らが何かをそれなりの説得術をもって話をするのならよい。「例を集める」と言えば聞こえはいいが、証拠にも何もならないような自分に都合の良いようなサンプルだけを持ってきて「例証」する、などと言われても説得力はない。文学が科学にならないのと同様に、彼らのやろうとしていることもおそらく科学の公準を満たすことはない。少なくとも、古い意味での科学を。そうして、そうした「例証」すらまっとうにできていない現状では、しょせんは空想的な批評家の語り口と同じであって、お話に過ぎない。
実際に滅びるのは私たちかもしれない。確かにその兆候はある。しかし、それでも私はかまわないような気もする。パラダイムシフトの在り方として自然に消えてゆくのであれば、中東の誰かさんたちと違って、誰にも迷惑は掛けない。
それにしても、互いに食べ物もないのによくもなあこんな腹の足しにもならないようなことをえんえんと語るものだ。学者というやつは実に金にならない。
こういう話の中でも、ぼんやりとあの噂は会話のはしばしに出る。みな避けようとして、どうしても避けられない。誰も考えていることは同じようなものだろうから。1億2千5百万人。確かに多すぎる。
曇。朝氷点下4度、昼氷点下0度、夜氷点下3度。日に日に冷えてゆくことがわかる。
学会誌がついに1年に1回の発刊となった。まあ、今更あの大きな学会に投稿する気もなかったのだが(審査まで1年以上かかるなどもってのほかだ)、しかし寂しいような気もする。一応は日本を代表する心理学の会誌だったのだから。確かに実質的な機能はすでに終えていたとはいえ、シンボルとしての意味はあった。
恐れるのは、これに影響された他の学会誌が同様の処置を取ることだ。お飾りの学会と違って、各領域の学会誌は本質的な発表の場として機能してきているのだから、これが発刊が年1回などとなると競争が今以上に激しくなる。問題が出るだろう。
それにしても、これだけ日射量が少ないというのに、紫外線が降り注ぐ、というのはどうしたわけか、素人には見当がつかない。例の噂はともかく、こちらは本当のことなのだろうか。
その例の噂、気になって一応の対応をする。それらしいものを手に入れてみる。
雨のちみぞれ 朝氷点下3度、昼氷点下0度、夜8時現在氷点下6度。一段と冷える。
牛乳200mlパック927円。キャベツ4分の1が1229円。リンゴジュース200ml618円。立ち読みしようにも雑誌も新聞も消えている。
朝方、人の見ていないところで猫を捕まえてきて殺す。試してみたのだが、これで何とかなる。ついでに何とか食べてみようと思うのだが、調理の仕方がわからない。脚だけをちぎってくし刺しにしてガスの火であぶってみたが、毛が燃え上がってしまって危なかった。焦げた足だけむしってみて、皮の中の肉は食べられるような気がしたが、なんとなくやめた。そういえば大学の池の鯉ももう姿を見ない。
洗濯物が乾かないのがつらい。必要なもののみ、むりやりガスであぶる。猫の残りは捨ててしまう。そういえばごみの回収ももう長いこと来ない。
雪 朝氷点下4度、昼氷点下2度、夜11時現在氷点下4度。ついに雪だ。来るものが来た、という感じ。
ガソリンがわずかに残った車を動かそうとしてみるが、セルモーターが回らない。そもそも回らないのだからチョークもひきようがない。歩いて学校へゆく。足凍える。
大学で珍しく中身のある自動販売機見つける。缶コーヒーが一缶500円とは安いのか高いのか。この御時世では判断が難しい。贅沢のつもりで一つ買う。
学校にはあまり人がいない。私は他に行くところがないから行っているのだが、他の人はどうしているのだろう。私と同様に個人的に対策を立てているのか、それとも話し合いをしているのか。あった数人と馬鹿話をするが、どうも互いに緊張感がある。よろしくない。
あらためて考えるのだが、そもそもどうしてこんな時に私は学校にいるのだろう。
世の中は急激に変化しつつある。食料は減っている。ある種の予感はする。十分すぎるほど感じている。おそらく誰もがそうだ。そして、それが信じられない。
ひょっとすると、これまでのいくつもの語り草になっている危機、例えば石油ショックや作り出された米不足などのように、いつの間にか終わってはいないだろうか。そんなにあわてなくても、いつか誰かが何とかしてくれるのではないか、きっとそうだ。そうに違いない。そういう幻想をみんなが抱いている。そうして状況はますます悪くなってきている。きっともう回復はしない。でももう私には、少なくとも私には、日々大学に来る以外の選択肢がない。実家に帰っても何が変わるわけではない。むしろ家族の荷物になるだけだ。
終日論文を読むが、進まず。英語の力が欲しい。切実に感じる。
雪 朝氷点下6度、昼氷点下5度、夜氷点下8度。普通は雪の時にはあまり冷えないものだと聞いていたが、やはり普通ではないのだろう。
研究室に来たら、同室の女の子が象牙のペーパーナイフを研いでいたところを見てしまう。何か悪いことをしたような気がして、すぐに図書館にゆく。ペーパーナイフとは、何ともかわいいもの。一応その後お茶などお出しして御機嫌を伺うが、正直気が重い。象牙とはいっても研げば刃物だ。ここまで噂は浸透している。
今年はいつもの研究会は中止だ、と先生から。そうでしょうね、とだけ答えておく。
そういえば動物棟のケージが多量に中身入りで持ち出された、との話を聞く。確かに大きなラットなら食べがいもあろう。その辺のネズミと違ってある程度は清潔だろうし。
だが1億2千5百万人。大した数だ。
わずかなネズミで養える数ではなく、またあんなことで減るとも思えないのだが、噂は広がり、私や彼女の中でもすでに重みを持ちはじめている。すでに目に見える行動にまで。
雪 朝氷点下7度、昼同じく、夜氷点下9度
学校に行く途中で、犬の死体を見つける。鋭利な刃物で切り裂かれていた。ひょっとすると、という気がしている。基本的には私と同じ理由だろうが、彼女の部屋に近い、というのが気にはなる。
学校へつくが、どうも雰囲気が奇妙だ。理由はわかっている。あの噂だ。むろん噂は噂に過ぎない。しかしそうわかっていても。
同僚の院生から、なにか食べるものをもっていないか、と尋ねられる。私のところにもすでにわずかしかない、と答えると、そうか、といって素直に帰っていった。よく考えると、私も蓄えはそう多くない。第一品物自体が店に並ばなくなってきている。まずい。
突きの練習をする。両手をふさぐかたちになるので、私の選んだものは実はあまりいいものではないのかもしれない。
雪 朝氷点下9度、昼同じく、夜7時現在氷点下11度まで下がる。
積雪は20センチ以上。あいかわらず一面の銀世界だ。3日まえの雪の日から流通経路は麻痺している。そうして品物は店に並ばない。この先しばらくそうだろう。雪がやんでも、並べるものはどこにもないかもしれない。
こうなることが予測されていたからこそ、あんな噂が流れるのだ。
これが始めて流れてきた時には、とんでもないデマだとみな感じた。そうして今ではこの噂がいかにもそれらしく見えてくる。もちろんデマだ。そうに決まっている。政府からの公式なサジェスチョンがあるわけではなく、たとえ異常事態にあるにせよ、法治国家がそのような発令をするはずがない。はずがないのだが、しかし。
観察可能な事実として、私は長い柄付きのはさみを選んだ。彼女はペーパーナイフを選んだ。他の誰が何を選んでいるのか見当もつかないが、おそらく似たような何かを選んでいるはずだ。最近の世間話の隅に常にみえ隠れしていた、かつ誰もそれに触れたがらなかったそのこと。
『8月の1ヵ月に期間限定して、刑法の殺人に関連した条項の適用が停止されるらしい』
そんな馬鹿なと思う。平静と同じ気持ちで聞けば、確かにこんなばかばかしい噂はない。この程度のことで人口が急激に減るわけがない。少なくとも数千万人は減らさなければならないのだから。実効はない。無意味なのだ。そうしてその無意味さが、追い詰められた人間たちに対して真実味を与えている。
今この瞬間、それはすでに単なる噂ではなくなっている。こうして日記をつけていても、すでにそこここからかすかな叫びが聞こえてくる。日付が変わるまでにはまだ数時間あるにもかかわらず。どうしてこうなってしまったか、など今更問うのもそれこそばかばかしい。
明日という日から先、どのような世界が訪れるのか、私には見当もつかない。立場が何だろうと関係なく、ただ自分が生き延びてゆくための世界。1億2千5百万人はこの島国には多すぎる。減らす必要がある。みんなそう思っている。誰もがそう思っている。食料輸入の道は東南アジアの一部を除いて途絶えてしまい、備蓄もじきに底をつく。そうしてこの世界的寒波。エネルギーがない。誰も生きていられなくなる前に、何とかしなくてはならない。こうなる前に誰かと組んでおくのだった。後悔するが、遅い。同じことはこの国全体も言えることだろう。
私は、明日の朝がくるのが怖い。明日の朝が来るまで私はもつのだろうか。私は誰を殺すことになるのだろうか。そうして、人間を殺してしまった後、私はこうして平然と日記などつけていられる生活に戻れるのだろうか。
きょうはがっこうへいきました。がっこうでひさしぶりにみんなにあいました。
きょうはいいてんきでした。うれしかったです。
きょうはぼくはたくさんたくさんひとをころしました。すこしたのしかったです。でもゆび
が2ほんなくなってしまいました。かためもみえません。でももういいんだ.
だれかそとにいる たくさん
だれかぼくのことをおぼえていてくえあい
きょうは
ぼくは
kkkk
<完>
初出 hotline56(1994)
go upstairs