その草原は、宅地の端にある分譲区画に広がっていた。
行き来の便が悪いためか、ほぼ全ての区画に住宅が建っている現在でも、そこだけが未だに空き地のまま残っていた。理由はわからないが、その区画だけが他と比べてむやみに広いらしく、売れ残るのも当然という話を聞いたことがあった。実際、そこは奥の余った土地を後からむりやり盛土で造成した区画のようで、その場所には行くためには行き止まりの狭い小路を使うしかなかった。車も通れないほどの細い路地だ。普段はほとんど誰も足を向けない。比較的近所に住んでいる私自身も、この話を聞いてからその場所を実際に思い浮かべるまで数秒を要したくらいだった。
誰かが住んでいる。
娘はそう言っていた。
その誰の目にもとまらない分譲地の端に、どうやら誰かが住み着いている、というのが私が聞いた話だった。
こんな僻地の住宅団地の、そのまた隅にどういう意味で住み着くことができるのか、私には今一つ理解できなかった。
この場所は元をたどればほんの十年前まで丘陵と森林地帯で、そんな場所を切り開いて宅地にしている。造成された土地を一歩抜ければすぐに森が広がっている。仮に自分が家も定職もない立場であるとしたら、おそらくこんな場所にはおらず、むしろ町中に居着くだろうという気がした。第一、ここにいたところで十分な食料は手に入らない。森の中に何かがあるとしても、生き延びることができるだけのものがあるとは思いがたい。
また、そこにいるのは老婆だという。若者であれば森の中で自活ということも考えられないわけではないが、老婆ではそうもいかないだろうと思えた。だから、いったいどういう意味で「住み着く」という行為が可能なのか、私にはわからなかった。
ある日曜日の午後、私は、何という気もなしにその場所に出かけてみた。娘はいつも通り,私が起きる前から遊びに出てしまっていたし、妻は妻で昼前には市街地まで買い物に出かけてしまっていた。遅くまで寝過ごした私が悪い、といえばその通りだった。結果的に私一人が留守番を言い付けられた形になったわけだが、一人で家の中に残るのもいささか退屈な気がしていた。そのとき、娘から聞いたその噂を思い出したのだ。
玄関にすぐ戻るという書き置きをすると、私は娘のために鍵を郵便箱に隠して家を出た。
我が家は坂の多い住宅団地のやや上の方に位置している。そこからアスファルトの舗装道路をしばらく上って、一見しただけでは見落としてしまいそうな細い小路に入り込む。
驚いたことに、灰色の造成ブロックと黒いアスファルトだけの世界が、小路に入ったとたん、緑を色彩の主体に置いた世界に変わった。
その変化は唐突だった。その小道に足を踏みいれたその瞬間に、あたかも何かの境界線を越えてしまったかのように、不意に光が変化したようだった。
そうした光を感じると、無機的な色合いの住宅団地に住んでいる自分が、普段色彩というものを意識していなかったことをあらためて自覚できた。コンクリートブロックは基本的に灰色だし、道路のアスファルトも当然黒い。各家のたたずまいも、一見すると明るく仕上げられてはいるものの、基本的にはモノトーンに近い。狭い庭には、それほどの花も咲かない。
それに比べて、この緑のなんと明るく、そしてまた深いことか。
私は素直に感心した。
よく見れば、その緑も単調ではなく、小さな樹木の茶色、濃い緑や薄い緑、一部には内部に鮮やかなピンクのつつじの花などを含んでいるようだ。宅地造成されているために大きな樹木こそないものの、奥の方には森の延長といえるような草木が群れを成しているのがうかがえた。そしてそれを囲んで、葛やすすきを主体とした草が繁茂し、さらにどこにでも育つ巨大なセイタカアワダチソウの一群が徐々に侵入しつつあるようだった。
ずいぶん広い空き地で、しかも大半に背の高い草が成長しているため、この宅地がどこまで広がっているのかはよくわからなかった。私が思っていた以上にずいぶん大きいのだ、ということだけが実感できた。
しかし別段、誰かの気配がするわけでもない。草の原は明るい陽射しの下、沈黙していた。
噂は何かの間違いだったのか、と思い、私はきびすを返しかけた。視線の隅に、不自然な輝きが写ったのはその時だった。
鈍い反射光だった。
あらためてその方向を見てみる。だがよくわからない。
私は、草むらの中に足を踏み入れた。足が草の中に沈みこむ。数歩進むと、雑草の壁が迫ってきた。離れて見たときには気がつかなかったが、大きな雑草は意外なくらい背が高く、私を飲み込んでしまうように思えた。
しばらくの間、いくらか強引に歩を進めるうちに、唐突に雑草の壁は消え、視界が開けた。
そこで私は思わず静止した。
何だろう、ここは。
草の原のただ中に、空間が広がっていた。そこに一台のピアノが置いてあった。
ピアノばかりではない。ソファー、テーブル、テレビ、タンス、ベッド、ガスレンジなどの生活資材が一通り、そしてどこから手に入れたのか、一そろいのお茶のセットがテーブルの上に乗っている。隅には黒い電話が台の上に鎮座していた。
確かに、これは「住んでいる」といってもあながち間違いではない。だが、どこかが妙だ。
私たちの日常を形作る、当たり前の道具達。それが、草原に、ただ明るい天日の下に茫然と晒されている。
屋根のない、草の原の中に、どうしてこのような家具が置かれているのか、私には見当もつかなかった。
ベッドからは錆びたスプリングが飛び出ている。ソファーのクッションには穴が空き、虫が付いていそうだ。ガスレンジは当然ガスが来ていなければ機能しない。電化製品も同じだ。水は敷地の隅の水道管から取っているらしい。眺めている限りでは、全体としての形は確かに私たちの生活に似ている。しかしどこかがおかしい。そのくせ、何が本質的に違うのか、というところになると私にはよくわからなかった。
等身大のままごと。
瞬間的な印象としてはそんなところだった。だが、少なくとも、子供のままごとのようななんでもない遊びのために設けられたものではないような気がした。どこか乾いた感覚が世界を覆っている。私には、その雰囲気がこの風景のどこから来るものなのかわからなかった。
不意に、あたりに突風が吹いた。何の前触れもなかった。
草が鳴った。
どこか調子の狂った、悲しい音色に思えた。
「 」
誰かに名前を呼ばれた。それがあまりに母に似ていた気がしたので、私は思わず反射的にそれに応えそうになっていた。だが、そこにいる人物を見て、言葉は喉の奥で止まった。
いつのまにか、傷んだ畳の上に、一人の老婆が正座していた。いつ現れたのかわからなかった。あるいは、初めからそこにいたのに、私には見えなかったのかもしれなかった。
「 」
もう一度名を呼ばれた。
老婆はこちらを見ていた。
それは確かに自分の名前だった。
老婆は私に対して、私の名を呼んでいる。
---- なぜだ。
これが最初の感想だった。
なぜ見知らぬ人物が、自分の名前を呼ぶことができるのか。
「 」
どうして私がその名前だとわかるのか。
確かに私はその名前を持っている。だが、しかし。
「 」
何と応えればよいのだろう。見知らぬ人物に自分の名前を呼ばれる。親しげに。
「かえってきたんだね」
違う。私は帰ってきたのではない。そう言いたかった。だが、言葉が出なかった。
その誰かは、私ではなく他の誰かで、おそらくかつてその老婆にとって大切であった、いや、今でも「あり続けている」誰かにちがいない。そして、その人は今ここにはいないのだろう。私は確かにその名を持っているが、だが、しかし待っているその人ではない。私の名前がそれであるのは偶然に過ぎない。そうにちがいない。
だが、相変わらずそれは言葉にはならなかった。
老婆から漂ってくる、いかんともしがたい寂漠感が、私にその呼びかけを強く否定することをためらわせた。そして、一方で、老婆の言葉を肯定することもまた正直ではない、と思った。
どうすればいいのか、私にはわからなかった。
初夏の陽射しの下、老婆の顔は陰影に隠されている。きらめくような緑に囲まれた中で、その陰影は奇妙に薄暗く見えた。
どのくらいそうして沈黙していただろうか。
不意にあたりが薄暗くなった。見上げると、雲が陽をさえぎっている。一瞬だが、ひんやりした風が体をとりまいた。
視線を戻すと、老婆はいなくなっていた。待っていても何も返事をしない私を見捨てて立ち去ったのかもしれなかった。しかし、それも素早すぎるような気もした。では、今私が見たのは何だったのか、私には自信がなくなっていた。
家具の群はあいかわらず目の前にあり、陽の下で鈍い光沢を放っている。深い緑の薮の中に大きな黒い蝶のつがいが舞っているのが見えた。意外なくらい近くで、雉のものらしいかんだかい鳴き声が聞こえてきた。
娘がいなくなったのは、その翌日の月曜だった。
まだ小学校に上がったばかりで、学校は午後になるとすぐに終わってしまう。妻が仕事から帰るのは夕方の5時過ぎなので、それまでは娘は近所の友達と遊んでいたはずだった。
そのはずだった。
食事時になっても帰らない娘にはじめに不審を抱いたのは妻だった。何人かの娘の友達のうちに電話をかけ、学校の担任にかけ、そしてどうやら娘がいなくなったらしい、とはっきりしはじめたのが夜7時半過ぎだった。
電話の話を総合すると、娘は今日いつもと同じように学校を終え、そして友達と周りの森に探検に出かけたらしい。そして、友達とはぐれてしまったが、友達の方は自力で帰ってきたらしい。
妻と相談した後、ともかく近所の警察に届けることになり、私は自転車で道を急いだ。
闇の中を小さな灯りだけを便りに進みながら、私は思った。
今この瞬間、娘はどうしているのだろう。森の中に迷い込んで、寒さにふるえているのだろうか。それとも、どこかで怪我をして、動けなくなっているのかもしれない。そう思うと、私はいても立ってもいられなくなった。一刻も早く、助けに行かなければいけない。
そう思う心の片隅で、私は疑問を感じていた。
私は、どの程度娘のことを知っていたのだろうか。
2時間ほどかけて列車で職場に出かけている。この程度の通勤時間は今時珍しくもない。もう少し職場の近くに住みたかったのだが、妻の仕事の関係もあり、ちょうど中間的な位置のこの場所に土地を買った。そんなこともあり、普段、私は朝の7時前には家を出てしまう。娘が起きてくるのは普通その後だ。帰ってくる頃には娘はもう寝ている。夕食を皆で取ることも、せいぜい日曜日くらいだったろう。いや、それも最近は少なかったような気もする。
実際、娘が生まれたときからそんな感じだった。
妻も私も仕事を持っているために、かなり幼いころから保育園に預けていた。この4月から小学校に上がったということだったが、正直言って「いつの間にそんなに大きくなったものか」という印象を持ったほどだ。日曜日は確かに顔を合わせているけれども、娘は娘で早くから友達のところに遊びに行ってしまうし、私もただ何となく過ごしている。
私は自分が思っているほど娘と会話をしていただろうか。こうして娘のことを心配してはいる。しかし、それはたまたま今こうして娘がいなくなったからであり、もしこのことがなかったら、娘が普段どんな友達と遊んでいるのかなど、まったく知ることも、また関心を持つこともなかっただろう。きっとそうに違いない。
戻ってきたらもっと娘と話をしよう。もっと一緒に遊ぼう。
それが実際何の意味を持つのかは自分でもよくわからなかった。しかし、そうすることが父親である自分の本来の義務であったように思えた。私はこれまでその義務を怠ってきたのかもしれなかった。
そして、今ここに娘はいない。行方不明なのだ。居場所がわからないのだ。世界中の誰にも。
今さらのように苦い思いがこみ上げてきた。
いなくならなければ、自分の娘に関心すらもたなかったというのか。
私の焦りに反して、ペダルは重く、派出所の建物は果てしなく遠く思えた。
日が経過したが、娘は発見されなかった。
捜索は十日間続いた。そして、奇妙なことに娘当人はおろか、手がかりも何もまったく発見できなかった。
連日あれだけの人数を繰り出して探しても何も見つからない、というのは私には信じられなかった。小学一年生の娘が短い時間にそれほど遠くにゆけるはずもなく、私たち夫婦も含めて、辺り一面を近所の人たちや捜査員達が探しているのに、本当に手がかり一つ見つけられなかった。
そして、私も妻もいつまでも会社を休むことはできなかった。
むろん周囲は気を配ってくれてはいたが、しかしいつまでもそれに甘えているわけにもいかなかった。
私は四日目、妻は一週間後には出社していた。
どうしようもなかった。私たち家族の都合とは無関係に仕事は常に存在し、自分の仕事をこなさないことは、他人に迷惑をかけることになる。組織に所属する以上、個人的にどのような状況に置かれようと、その点の責任は負わねばならなかった。
だが、私自身の本音をいえば、家の中にいることは苦痛だった。いない娘を待ち続けるのはつらく、そして日が過ぎるにつれてそのつらさは諦念に変化して行く。まだ職場に出かけていた方が気が楽だった。きっと妻も同じ気分だったに違いない。
家の中で互いに必要以上に物音を立てなくなっていた。それでいて、食事時にいつのまにかどちらからともなくテレビのスイッチを入れるようになった。画面を眺めながらただ静かに食事をしている。そして、それに対して私も妙に抵抗感がなかった。沈黙している、その沈黙に自分たち自身が耐えられない。
家の中というものは、これほど静かなものだったろうか。
元々暮らし始めたのは二人だったとはいえ、三人目の家族が生まれて以来、実際には家族の主役はその三人目の子供だったのだ。主役が不在の今、私たち夫婦にとって家族という概念自体が崩れかけているとしても不思議ではなかった。
そして、私はあきらめていた。
これだけ探して見つからないということは、娘はこの近辺には存在していない、ということを意味している。身代金以外の何らかの目的の誘拐かもしれない。そう感じていた。そしてそれは絶望的な考えだった。
ついに捜索が打ち切られた次の日、わたしは休暇を取り、一人で例の草原に出かけた。
もう何にも期待はしていなかった。私たちは探した。そして待った。全力を尽くした。それで何一つ手掛かりがないのであれば、もう仕方がないと思った。
ただ、本当に最後に、一つだけ気になることがあったのだ。
あの老婆なら、何かを知っているかもしれない。
ほとんど藁にすがる気持ちだったが、しかしそれでも何かがあの老婆にはあるような気がしていた。そもそも老婆の噂を私に知らせたのは娘なのだ。その前に娘と何らかの接触をしていたとしても不思議ではないはずだ。微かな可能性ではあるが、全く無駄というわけではないだろう。もしかすれば手掛かりの一つくらいは手に入るかもしれない、と思った。
家から草原への途上で、私は不意におかしな事に気がついた。
そういえば、捜索のとき不思議とあの老婆の話は出てこなかった。森の中に住んでいるのであれば捜索の初期のうちに参考人として名が挙げられそうなものだ。だが、警察も含めて誰もあの老婆の事を言い出さなかった。いや、私自身もなぜかあの老婆の事を思い出すことをしなかったではないか。
どういうわけなのだろうか。
単に「忘れていた」ということなのだろうか。どこかがおかしくはないだろうか。
心の隅で何かが不明瞭なまま、私は草原に到着した。
草原はあいかわらず濃緑の薮に被われており、そこに分け入って行くと以前たずねたときと同じようにピアノが見えた。そして家具が前に見たときとやはり同じように並んでいた。どれもが一様に白い陽に晒されており、その見慣れない陰影が不思議な現実感を醸し出していた。
「すみません」
我ながら間抜けな声に思えた。
「どなたかおられませんか」
不意に、突風が吹いた。
草が鳴った。
目の前にあの老婆が座っていた。どこから現れたのか、あいかわらず私にはまるでわからなかった。
「あの、」
「 」
あのときと同じように、私は自分の名前を呼ばれた。だがそれを無視して私は続けた。
「あの、小さな女の子をご存じありませんか。この写真の子供なんですが」
「 」
「私の娘で、10日ほど前にいなくなってしまったんです。私はこの子を捜しているんです。お願いです」
「 、帰ってきたんだね」
「もしご存じでしたら教えて下さいませんか」
まるでかみ合わない会話だったのだが、そのかみ合わなさに不思議と私は違和感を感じていなかった。
この老婆は何かを知っている。直感がそう告げていた。しかし、それが何なのか、私にはまだわからなかった。
その時、私は初めて自分の足下を見た。老婆の座っている座布団と、それを敷いてある汚れたござ。その前に、きちんと脱いでそろえてあるのは ----
---- 小さな靴だ。ピンクの運動靴。
私は弾けたようにその靴をつかもうとした。
そしてなぜかつかめなかった。手が届かないのだ。ほんの目の前に見えているのに、どうしても手が届かない。
「娘を返せ」
私は叫んでいた。だが、本当に自分がそう叫んでいるのか,そして叫び声が老婆に届いているのかどうか,定かではなかった。老婆の姿は近くに見えていながら実際には非常に遠くにあるようだった。そしてそちらに向かって走ろうとしても、体はなぜか夢の中で走るときのようにしか移動しなかった。急速に色彩を失って歪んでゆく視野の中心に小さなピンクの靴が脱ぎ捨てられており、その背景に灰色の影と化した老婆が写っていた。私はせめて靴を手に取りたかった。だがそれが本当に可能なことなのかどうか、自分でもわからなくなっていた。
雲が日を隠したのだろうか、辺り一面が一瞬薄暗くなり、草原は冷えた風にざわめいた。
そして老婆はいなくなっていた。
靴も消えていた。
ただ一群の家具だけが、白昼の陽射しの下で無為に輝いていた。
私は妻にだけこのことを話した。
警察に言ったところで証拠の靴が手元にあるわけでもなかった。また、実際誰にしてもあの老婆をどうすることができるとも思えなかった。
初めに出会って以来、あの老婆にまとわりついている雰囲気はどこかがおかしかった。考えてみればそもそもどうやってピアノを運んだのだろう。たとえピアノでなくとも大きな家具はとても一人では運べまい。あの老婆はただ者ではないのだ。そうに違いない。あそこに「暮らしている」というのも何かが妙だ。出現の仕方も消失の仕方も十分におかしい。捜索の最中に誰も老婆を思い出さなかったというのも、根本的にそういったことに関連した現象なのではないだろうか。
そして、なによりも娘の靴があそこにあったのは確かなのだ。
あの老婆は何か重要なことを知っている。知っているどころか、娘の行方不明の鍵を握っているに違いない。どこを探しても見つからない娘の行き先を知っているに違いない。
翌朝早く目覚めると、妻は横にはいなかった。
起きてリビングルームに向かったが、誰もいなかった。
がらんとした部屋の中には、家具だけが並んでいる。あの草原と大差がない。そう思えた。
今になって、初めて私は気がついた。
家族だ。
娘と妻は私の家族なのだ。そして、この家は家族が住まう家庭で、家具はそのために必要な道具なのだ。だからこの部屋の中に家具が置かれていても違和感がないのだ。いや、もはやすでに「なかった」のだ。
あの草原の等身大のままごとに何か違和感を感じたのは、そこに本来存在するべき家族、家庭の概念がすっぽり抜け落ちていたためだった。長い間一緒に住んでいる人間達に対する目に見えない絆、あるいは安心感とでも表現すればよいのかもしれない。だが、そもそもそれは何に由来するのだろうか。血のつながりなのか、一緒に過ごしてきた時間の量なのか、それとも普通に愛情と呼ばれるものなのか。考えてみてもよくわからなかった。しかし、言葉に直すとどれもが正鵠からは微妙にはずれてしまうように私には思えた。
あの老婆は私の名を呼んだが、それに対して私はまるで反応しなかった。家族ではなかったからだ。
だが、もし私があの声に返事をしていたらどうなっただろう。
あの非現実の世界に住む老婆の家族。それがいかなるものなのか私には良くわからなかった。あの老婆が狂っているのかどうかは今はどうでもいい。いずれにせよ、彼女は私たちとは異なった世界にたった独りで住んでいる。それだけで十分だと思った。
別にあの老婆だけに限ったことではない。家族という家族は別な構成員からできているし、当然そのあり方は家族ごとに異なっているだろう。だがどの家族にも共通することがある。歳を取って、自分の生活が家族にどれだけ負っていたのか、そのことに気がつく時にはたいてい家族は消滅している。かつて自分が育て一緒に住んでいた子供は独立し、また親や配偶者とは死に別れる。自分は取り残される。そんなときに、もう一度自分の家族を何らかの形で求めることは別に不自然ではない。人間は一人では生きてゆけない生物だからだ。生きている間、もう一度自分は家族を持っていたい。そう思うのだろう。他人ではない、自分自身の、自分だけの家族を。
もし、その思いが、自分自身を失わせるほど強くなったら。
そして世界を歪めるほどに強くなったとしたら。
ここまで考えて、妻があいかわらず姿を見せないことにようやく思い至った。
家の中にいる雰囲気ではない。庭にいる気配もなかった。
新聞を取りに行ったにしては長すぎる。早朝に散歩をするような趣味もないはずだ。
しまった、と思った。
やはり、話をするのではなかったか。
私にはどうしても他の場所を思いつけなかった。
着替えもそこそこに、私は例の草原へ急いだ。
雲が厚く、季節外れの薄ら寒い風が服を通してさしこんできた。だがそんなことに構ってはいられなかった。
自分よりも背の高い薮をかき分け、私は老婆の住処に急いだ。
小道に入り、薮を抜けた瞬間、今まで訪れたときとはどこかが違う、異様な世界が広がっていることに気がついた。
色彩のない灰色の世界。草も木も一様に精彩を欠いている。まだ弱い朝の光の中、その灰色の世界の中心に妻のサンダルがあるのが見えた。
妻の姿は、しかしすでに見えなかった。
「返事をしてしまったんだな」
私はこれまでたまたま老婆の呼びかけに対して返事をしてこなかった。しかし、もし一回でも返事をしていたら、きっと私の方が先に行方不明になっていたのかもしれない。
それがあの老婆の「やり方」なのだろう。
あの老婆が何者なのかは知らない。だが、相手の名前をあたかも家族であるかのように呼び、それに対して相手が返答したら、老婆は彼女の世界に相手を取り込んでしまう。彼女の家族にしてしまう。どのようにして、という質問はこの際意味をなさない。囚われた相手は二度と戻ることはできない。その事実だけが問題なのだ。
娘は自分の名を呼ばれて返事をしてしまったに違いない。そしてたった今、妻も。
「いいかげんにしろ」
私はつぶやいた。
「私の家族を返せ」
老婆はそこにいた。いつのまにか、その場所に現れていた。
「 」
老婆は私の名を呼んだ。
私は答えなかった。ただ、続けた。
「返してくれと言っているんだ」
「 」
「私は決してあなたに返事をしない。いつまでも呼び続けるといい。だが、私は決してあなたの家族にはならない。そして必ず私の家族を取り返してみせる」
「 」
「あなたの家族はもう無いんだ。あなたは遠い昔になくしてしまったんだ。寂しいだろう。確かに寂しいんだろう。だがね、だからといって他の家族の一部分を継ぎ足して持ってきてもあなたの家族にはならない。決してならない。私の家族は私の家族だ。それ以外の何者でもないからだ」
心の痛み。刺すような痛み。
「----、帰ってきたんだね」
老婆の感じているものが私に伝わってくる。穴の開いたような喪失感。とほうもない寂しさ。癒されない孤独。この老婆は、たった一人でこれに耐えてきたと言うのか。その果てのない時間のなかで。
そうだ。いずれは私自身にもこのときがくる。妻に先立たれ、娘は独り立ちし、一人取り残される長い長い時間。いつ終わりがくるともない、将来への希望も何も存在しない、どこまでも晴れない白い霧のような時間。
だが、私は続けた。
続けなければいけなかった。
自分のために。
「---- その人はきっともういない。旦那さんか息子さんか知らないがね。そして私は決してあなたの家族になるつもりはない。私の妻も娘も、あなたの家族じゃない。私たちが、そう、私たちが家族なんだ。そしてあなたは他人だ。無関係な他人でしかない。これまでも、そしてこれからも」
私の言葉が届いていたのか、それはわからなかった。だが、それまで定かではなかった老婆の視線が、そのときはじめて私をとらえ、そして陰影の中で微かに光ったのを感じた。
涙 ---- だろうか。
そして、次の瞬間、老婆の姿は揺らめいて消えた。私はその情景を今度こそはっきりと見た。
その奇妙に淡い光の中で、老婆は影のように薄くなり、揺らぎ、そして見えなくなった。
家具の群だけが灰色の世界に残された。
足下を見ると、娘のピンクの靴と、妻のサンダルがそろえて置いてあった。
手に取ることができた。
妻のサンダルは、まだ暖かかった。
確かに二人はこの世界にいるのだ。そうに違いない。私はあらためて確信した。
冷え切った風が身を切るように吹きすぎていった。一面の草が、乾いた、淋しい音色でざわめいている。
寒い。普通の寒さではない。どこかが狂った寒さだ。
灰色の世界で、家具だけが不思議な存在感を持って鈍い陽射しを反射していた。その光にも、なぜか暖かいものは感じられない。私は、今の季節がいつだったのか、思い出せなくなっていることに気がついた。
唐突に、あたりに金属音が響きわたった。
家具の隅にある、古ぼけた黒電話が鳴っていた。
本体から伸びた黒い回線は、台のすぐ下で途切れて風に揺れている。それでも電話は鳴り続けていた。
私はしばらく茫然と眺めていたが、ゆっくりと近づいて行き、そして受話器を取った。
ひどい雑音にまぎれて、かすかに妻の声がした。小さく、娘の声も聞こえたように思えた。二人は助けを求めていた。私にはそう聞こえた。そして回線は唐突に切れた。
いいだろう、と私は思った。
取り返しに行こうじゃないか。自分の家族を。
家族というものがどういう意味をもつものか、実のところ私にはわかっていない。単なる血縁関係に縛られた人間の小集団と言ってしまってもいいのかもしれない。だから、もともとそんなものにそれ以上の意味などない。さらに、人間同士がいっしょに暮らすことの意味など、すでに今の時代にはなくなっている。そう言われても、これまでの私の生活では反論はできない。だが、思い悩む以前に私は家族の一員なのであり、妻の夫であり、そして娘の父親ですらあるのだ。むろん将来のことは知らない。だが、すくなくともこの瞬間において、私達は家族なのだ。そしてそれがすべてなのだ。
気がつくと、あたりの風景は見慣れぬものに変化していた。住宅団地などどこにも見あたらず、左右を見渡しても、どこまでも遠く異様な濃緑色の草原が広がっている。気のせいか、雲の色も空の色もいつものそれではないように思えた。振り返っても、すでに見慣れたものは何もなかった。よく見れば、足下の雑草すらどこか奇怪なものに変わっていた。
かまうものか。
私はゆっくりと家具の間に歩を進めた。果たしてこの異世界でどれだけ生きていられるものか、一瞬不安にはなった。だが、ここで戻れば自分の家族を取り戻す機会は永久に失われるだろうという気がした。
「待っていろよ。お父さんが必ず助け出すからな」
大きく深呼吸を一つすると、私は得体の知れない世界に向かって静かに潜っていった。
<完>
初出 Cygnet6 (1995)
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