健康万歳



 朝起きるとまず歯をみがく。緑色のチューブの『薬用』歯磨と、歯と歯の間をきれいにとる、高周波のなんとか機構のハブラシを使う。ついでに殺菌済みの蒸留水で顔を洗い、滅菌タオルでふき取る。殺菌灯のついたトイレに入り用を足し、薬用トイレットペーパーで始末する。消毒用芳香剤をひとふきする。
 次に朝食。ノンカロリー、高濃縮栄養のラスクを、ファイバードリンクで流し込む。プロテインをアロエのエキスに溶かしてすすり、クロレラスープにロイヤルゼリーを2、3落として、朝食は終わる。
 食後の運動をする。
 それほど広い場所ではないので、走り回るというわけにはいかない。青竹踏みの上でエキスパンダーを伸ばしながらどたばたしている。腕立て伏せに腹筋、背筋をメニュー通りにこなす。スクワット、うさぎとびをせわしなく行う。サンドバックを引きずり出して、ぶら下げる。実のところ、それだけで随分な運動になる。その後でバッグを叩く。フォームは目茶目茶だが、とりあえずコーチブックにある通りに形を整えているつもりでいる。パンチングボールも同じような物だ。その後、ぶら下がり健康器に飽きるまでつかまる。これはこれでなかなか疲れるものだ。
 昼飯には、濃縮ラスクをダンボールのなかから引っ張り出した。奇妙な名前の栄養ドリンクを鷲づかみにして、窓際の、コンテナの上にのぼった。
 立ち上がり、微かな日の光の来る方向をのぞきこむ。
 今日も物音一つしない。
 二重ガラスの向こうに見える風景は、いつもと同じ様にくすみ、沈んでいる。
 崩れ落ちた町の中を砂埃が舞っている。中天からの日の光は、強烈なストライプで世界を分割している。相変わらず誰もいない。
 あれから、どのくらいたったのだろう。
 あのとき、俺は一人で眠り込んでいて、おまけに防音装置のしっかりした部屋だったし、だから、警戒のサイレンも聞こえなかったし、どうかすると新聞やテレビなんて物から離れた生活を送っていたので、戦争が起こったなんてことはちっとも知らなかったのだ。ちょうど、2週間ほどかけた大仕事が終わったばかりで、徹夜続きだったせいもあって、元来、あまり外の世界に興味を持たない内向性格だったせいもあって、電話料金を払い込んでいなくておまけに電話がかかってくるのもいやで線を抜いていたりして、まあ、他にもきっといろいろあって、その結果、本当に俺はなにも知らなかった。
 腹が減ったので、いいかげんに外に出てみよう、と考えついたのが事の起こりだ。とは言うものの、実際の本当の事の起こりは、10時間以上前に始まってすでに終わっていたのだった。誰が最初に始めたのか、どうなって終わったのか、もう分からない。とにかく、戦争は始まって、そして終わった。そういうことらしい。それでどういうわけなのか知らないのだが、あたりには誰もいなくなっていた。
 俺はこのままではいけない、と考えた。よくわからないが、もし核兵器という代物が使われた場合には、このままでは俺は死んでしまうらしい。昔、戦争になったらどうなるか、とかいった話を、学校でしていたような気がする。どうせ俺は例によってまともに聞いちゃいなかったが、とにかく、こういう状態になった場合、とにかく地面に潜るべきだ、ということだった。その理由はよくわからないのだが、なんでもいいから地下室を見つければいいのだろう。そう思って、俺は町を探し回った。
 そこでみつけたのがこの地下シェルターらしき物だった。持ち主はとうの昔にどこかに逃げていったようで、俺が入っていっても文句をいう奴はとりあえず誰もいなかった。そこで、俺はここに住むことに決めた。薬屋の倉庫のようだったが、薬を扱うという感じではなかった。あらゆる健康食品、健康用具まがいのしろものが山と積まれていたものだ。そこに入って、しばらくうろうろしているうちにサバイバル用のマニュアルを見つけ出した。
 そこに書いてあった、『核戦争後の処置』ってやつを読んでびっくり仰天した。俺は、実は今この瞬間にとんでもない状況に陥っているのだ。放射能、というやつが攻めてくるらしい。そいつは、壁や土やもろもろのそういったものをすべて通り過ぎて来るらしい。もっとも、この地下室の元の持ち主はこの部屋をそういった用途にも用いるために造ったようで、なぜか、部屋の回りは鉛で覆われていた。これには実に驚いた。それを知ってとりあえず安心したのだが、だからといって、この状態がこれ以上良くなるわけでもなかった。
 俺は、実質上閉じ込められてしまった。
 幸い、といっていいものか、ここは奥の深い倉庫で、その『商品』は山のようにあふれていた。ただ、そのぶん俺のいる場所が狭くなっている。水のストックもある程度あり、自家発電装置あり、燃料も地下にたらふく、ざっと数年分は眠っていた。この持ち主はよほど用心深い人間だったのだろう。何を考えていたのかは、彼に聞くしかないだろう。まだどこかで生きていれば、の話だが。
 そこで俺は仕方なくここにいる。することがないから、毎日そこらへんにある運動器具を使ってトレーニングに励んでいる。医薬品やら健康食品やらはあり余っている。おかげで、俺はいまだかつてないほど、健康で体調もいい。こうなる前の、あの乱れた生活が嘘のようだ。筋肉はついてきたし姿勢も良くなってきた。へたに頭を使うと発狂しそうになるのは分かっているので、とにかく俺は何も考えずに体を鍛えている。
 もうなにがきても怖くない。いつかこの狭い部屋を飛び出して大きな世界へ走っ ていってやる。そのときのためにおれは体を鍛え続けるのだ。放射能なんかにやられないために。
 たった一人だが、負けるものか。
 俺はコンテナから飛び下りた。午後はルームランナーで6時間のマラソンと決 めている。6時間だぞ。フルマラソン2回分くらいの距離らしい。しかし今の俺 にはたいした運動ではない。ちょっとしたスタミナではないか。
 そうだ。今や俺は、この地上でもっとも健康な人間なのだ。


<完>


初出 Hotline?? 1990頃
go upstairs