遍在


 一人の夕食をとった後、しばらくすると風呂の明かりがついている。
 脱衣所の外から「誰かいるのかい」とたずねると
「入ってるよ」
と小さく母の声がする。
 手洗いに入ろうとすると、そこにも誰かがいる。ノックをすると
「あらいやだよ、今入っているんだよ」
とやはりかすかな母の言葉が聞こえる。
 台所に戻ると、母が茶を入れている姿が一瞬薄く透けて見え、そして消える。あとにはぬるま湯の入った茶碗がぽつんと置かれている。
 ふと気がつくと、居間のテレビに母の好きだった番組が映っている。テレビの正面の座椅子がかすかに暖かい。
 母が亡くなってもう一月ほどになる。
 逝ってからしばらくの間、母はこの家の中のどこにでもいた。
 居間に、台所に、手洗いに、風呂に、寝室に、そして庭に。
 長く暮らしたこの家の中で母の思いが残っている場所、すべてに母の姿と声があった。
 だが、それからひと月が過ぎようとしている今になると、母もさすがにしだい次第に薄くなっていくようだ。
 四十九日が過ぎるころには、きっと母の姿や声は私には感じられなくなっていることだろう。
 だが、それでも母は、本当はいつまでもこの家の中にいるのだと私は思う。
 薄く、広く、このただ広い家屋の隅々にまで散って、あらゆる場所に静かに たたずんでいるのに違いない。
 今でも薄く広く、家中に溶けている父と混じりあいながら。
 いつかこの家が取り壊されてしまう、その最後の日まで。


<完>


初出:静岡大学SF研究会会誌「SFR Vol.21」(2006/01)

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