この「井野部家の1日」は、首相官邸が主導する 「イノベーション25」という中間とりまとめ本編の 「Ⅳ.イノベーションで拓く2025年の日本」(中間報告書 p.37〜p.50) を基に、約20年後の家庭の風景をイメージするものとして、物語風に とりまとめたものに、高橋が2007年現在の状況を鑑みて、多少なりとも現実的 な味付けをし直したものである。
本物と異なる点を強調するため、オリジナルの「伊野辺家」を「井野部家」に
代え、登場人物の名前も少しずつ変更している。本家伊野辺家のすぐご近所にあ
る、よく似ているが別の一家であるとお考えいただきたい。
一朗、昌子が起床。
少ししてから、自分たちの部屋の26インチディスプレイ(二十年前の卓上薄
型TVのような形)で「今日の健康状態」を見る。睡眠時を含め家庭内での生活
状態から簡単な健康チェックがコンピュータで行われているのだ。画面には、各
種データが示された後「今日も良好です」の表示。この表示はしばらくずっと毎
日同じなので、本当に異常がないのかそれとも実は壊れているのかはよくわから
ない。
コンピュータには個人の遺伝子情報も入っているので、体調不良で投薬が必要
な場合には、初期段階で個人に合った薬を指示してくれるので安心だ。このシス
テムのおかげで最近では滅多にお世話にならないが、少し症状が重かったり、ど
うしても医師に相談したい場合には、専門医の診断を(二十年前の言葉でいえば)
TV電話風に受ける事も出来る。おかげで滅多に医者には「会えなく」なった。
医師側と家庭側の諸データも両者のコンピュータがつながっているので、極め
て的確かつ信頼できる診断のはずだが、肝心な医者が保険の関係なのか、一方的
にすごい量の投薬を勧めてくるので、今ひとつ信頼しきれない。
尚行、裕美子、大樹らも起きてきて、家族全員が居間で朝の団欒のひと時。
壁には103インチの大型ディスプレイ。家庭内には大きすぎて画面全体は視
野に入りきらないが、分割画面と専用ヘッドホンで各人が好きな映像(TV、イ
ンターネット、等)を見る事が可能だ。
今日は、一朗は岬が留学している北京のTV放送を見ているが、他の家族はヘッ
ドホンで何かを聴きながら各人のスモールディスプレイで情報収集をしている。
会話がないので静かな食卓である。
尚行が出勤。
バス、電車を利用して自宅からオフィスに向かう。テレワーク制度の普及、フ
レックスタイム制(二十年前にはこう呼ばれていた)の普及等により、通勤に伴
う過密な人の移動がなくなったおかげで、バスも電車も座って乗れる。ただし、
バス路線は一時間に2、3本しかないため、乗り遅れると大変である。尚行の会
社の社員の半分は自宅で仕事をしている。かつて勤めていた大企業でも3割がテ
レワーク対象者らしい。 尚行は社員の半数以上と実際に顔を合わせて会ったこ
とがない。
「かつての通勤地獄がまるで嘘のようだ」そんな事を考えながら、昔の週刊誌を
読むように携帯フレキシブル・ディスプレイに映し出されるニュースを読む。世
界の地域紛争の話題はもうニュースになることすら珍しいほど当たり前になって
いる。今朝は宗教関係の爆弾テロが首都で起きたニュースがトップだが、これに
もいくぶん慣れてしまった。海外からの労働者の流入はいくつかの側面で日本人
の社会と摩擦を生んでいるが、これもその一端なのかもしれない。
そういえば、この国の抱えた借金の総額は、とうの昔に返せる額ではなくなっ
ているはずだが、そうした内容について触れたニュースはここしばらく絶えてな
い。いったいどうしてだろうかと一朗は不思議に思う。見なければなくなる。そ
んなふうにでも思っているのだろうか。財務省の公式Webサイトにあった借金時
計も、アクセス過多で落ちて以来復活させていないようだ。本当は、恐ろしくて
とても表示できないのではないかという気もする。
毎年の気候変動が激しく、昨年は春が冷たく、一方今年は春先から高温が続い
ている。ニュースは、九州地域の豪雨の状況を伝えている。洪水、土砂崩れなど
が発生しているようだが、危険地域に張り巡らされたセンサネットワークと住民
への緊急情報システムによって、十分な時間的余裕をもって避難することができ
るので、犠牲者は寝たきりの老人以外はゼロだという。ここ十年以内に建てられ
た建造物では、倒壊したものはないという公式談話だが、もっとも実際に調査を
したデータが提示されることはない。あくまで大本営発表である。
ちなみに、井野部家は長期耐用可能な技術により作られた住宅で、二百年も持
つと言われている。ちなみにこの家のローンも子供、孫の代まで含めて二百年続
く。地震などの自然災害にも強く、建物の倒壊実験では、震度7でも倒壊しない。
ほとんどコンクリートのトーチカのような建物で、夏は暑く冬は寒いのを膨大な
エネルギーを投資して温度変化に対応している。
地震の際にも、地震の揺れを自然に察知し、各種インフラや家電製品などがネッ
トワーク化して二次災害を防止するシステムが作動するとのことなので、安心だ。
幸いにも実際に働いたことはない。
バスは、バッテリー充電型の電気自動車だ。今では公共交通機関としてのバス
はすべてこのタイプか燃料電池車になっている。だが、そのバッテリーを作るた
めにどれだけのエネルギーを消費してCO2を排出しているのかはあまり知られて
いない。そこまで計算に入れると、実はガソリンエンジン以上の燃費の悪さであ
る。もっとも、燃料電池は輸入品なので、日本人はあまり気にしていないよう
だ。
また、最近、人工光合成技術などにより、CO2をエネルギー源として走る自
動車が開発されて、実用化が期待されている。期待だけはしておこうと思うが、
毎年似たような話がいくつかわいては消えていくので、すぐに忘れてしまう。
道路も極めてスムーズな流れ。全国的には未整備なところも一部残されている
らしいが、尚行の通勤経路地域はITS(高度道路交通システム)が整備されて
おり、三年連続で交通事故ゼロを達成しているとされている。その割には道路に
花が備えられている場所が所々にあるが、そのことには皆あまり触れない。
祖父の一朗が、バッテリーのへたりかかった電気自転車で出勤。もう同じもの
を十年以上使っている。
電池技術の進歩で電気自転車の機能が進化したことと、自転車専用レーンが作
られたことで、自転車通勤は大ブームになっている。地球にやさしく、健康にい
いのが人気の秘密だと言われている。ただし雨が降ると、公共交通機関は地獄の
ようなすし詰め状態である。このため、一部の企業は「雨が降ったらお休み」と
いうカメハメハ大王方式を取り入れた。
「20年前に比べて、格段に排気ガスが減り、沿道に緑が多いので、まるで長いサ
イクリングを楽しんでいるようだ」と、一朗は通勤しながら感じるのだった。自
宅から10キロ圏内ならば、一朗の年齢でも無理をすれば通勤可能である。しかし、
これを毎日繰り返すことを楽だと思う人間はどうかしていると一朗は思う。少な
くとも70歳を超えて身体が動きにくくなると、気力だけではどうにもならない。
また、自動車と道路の高度情報化・ネットワーク化の進展により、衝突の自動
回避や自動運転が普及しており、自転車で走行する際にひやっとするようなこと
も少なくなった。しかし、時折、かなりぼけが進んでいるらしい老人がものすご
い速度で飛ばしているのに遭遇する。一朗も、ぼんやりしていても気がついたら
目的地に着いていたことがある。おそらく乗り手が死んでいても自動的に進むの
だろう。技術の進歩はすばらしい。
ちなみに、電池技術の進歩は、電気自動車の普及や各種新型携帯機器の実現等
をもたらしている。かつて日本はこの分野で世界一の技術力を持ち、世界にたく
さんの製品やサービスを提供していた。今ではアジア各国に追いつかれているが、
多数保有する先行特許をサブマリン的に活用し、なんとか技術的有利を保とうと
している。
通り過ぎる公園にはテントと段ボールハウスがいくつも張られている。家がな
いは気の毒だと思う。しばらくしたらまた追い立てられるのだろうが、しかし目
障りといえば目障りである。子供の安全性の確保からしてもどこかにまとめて施
設を作ればいいのにと思う。しかし、それが自分の家の隣にできるということに
なると、やはり心情的に反対せざるを得ない気もする。
一朗が地元の高校で「ものづくり」の授業を行っている。
バーチャルリアリティを用いた教材も使って、生徒たちに体感してもらいなが
ら、日本の「ものづくり」の素晴らしさを伝えている。最近は、小学校の時から
こうした授業を受けてきているせいか、目を輝かして生徒たちが自分の話を聞い
てくれるのが何より嬉しい。
以前から「ものづくり」につながらない学問は不要だと一朗は強く主張してき
たが、それが実ってきたようでうれしく感じている。高度化する技術を理解する
ための教育は若年層から開始しなければ間に合わないため、開発に関係のない文
科系の学問の教育はできるだけ教育時間を押さえるように、という企業側からの
要請に基づく政府の方針は、次第に浸透してきているようだ。例外は英語くらい
だろうか。
ちなみに、レベルは勿論異なるが、同じような話を小学校、中学校でもしてい
るが、大企業、中小企業を問わず現役の研究者や技術者が数多く学校の教壇に立っ
ており、一朗はその中の最年長者である。教育技術のレクチャーもあったが面倒
なので一朗は受けていない。どんな風に教えても、子供はそれなりに聞いてくれ
るからだ。
統計によれば、職種、就業形態は異なるものの、一朗の同世代の約2割が現役
で活躍中らしい。おかげで、還暦をすぎても役職にあぶれた「スーパーヒラリー
マン」がどの企業でも珍しくない。しかし勤めていられるだけまだましという話
もある。失業率は、政府統計では表面上は6%前後だが、不安定な派遣形態社員や
無保証のアルバイト・パートなどを含めると、実質的には10%を軽く超え、生活
実態では15%以上ではないかという試算もある。段ボールハウスだけでなく、街
中の簡易宿泊所が次第に増えているような気がする。いっそのこと、強制的に自
衛軍に収容して訓練でも受けさせればいいのにと思う。
一朗自身も、そろそろ最終的な老人ホームの予約を考えているが、問い合わせ
てみるたびにどこも満員で、入れるという話を聞いたことがない。まだしばらく
は大丈夫だろうが、少し先のことを考えると漠然と不安になる。
大学のカフェテラスで、大樹が友人らと昼食をとっている。
十人近い仲間の内、日本人は大樹を入れて三人だけで、他は欧米、アジア、中
南米、中東、アフリカからの留学生。大学院まで含めると、大樹の通っている大
学は、教員も学生も日本人は約半分だそうだ。英語がキャンパス公用語になりつ
つあるため、日本人はキャンパスの隅でまとまっていることも多い。こっそりと
銃器や薬物を持ち込んでいる留学生もいるらしい。国によってはほとんど犯罪の
意識もないので困ったものだ。宗教関係の対立もなかなか微妙なものがあり、キ
リスト教系の国から来た学生とイスラム系の学生との間には、表向きは互いに紳
士的だが、どこかよそよそしい風が吹いている気がするのは日本人の考えすぎだ
ろうか。
外国の若者に人気なのは、環境教育だそうだ。日本で学んだ知識を活かして、
母国の環境経済の実現に貢献しているケースが多い。だが、内容的に地味で、大
きなもうけになる技術ではないため、それほど大きな人気はない。やはり最新の
テクノロジーを利用していかに金儲けを行うのかに注意が向いているようだ。そ
うした点ではやはりアメリカが強い。
今日の話題は、大樹の留学問題。大樹は高校時代にアメリカに留学しているが、
大学院を日本、米国、中国のどこにするかで悩んでいる。もっとも、米国は最近
アジア系の学生をほとんど受け入れなくなっているため、候補に上りにくい。
最近の友達との合い言葉は「働きたくないでござる」。
祖母の昌子は、フラワー教室。
自宅から徒歩で30分位かかるが、よい散歩だと思って昌子はいつも歩いて通っ
ている。散歩途中にある河原の段ボールハウスの群れにはなるべく近づかないよ
うにする。
ウェアラブル(身体装着型)端末機器を時計のバンド代わりに使っているが、
この端末機器のおかげで、年齢を重ねても安心してどこへでも出かけられる。込
み入った街路区域では、道路などに埋設されたセンサが自分の存在を車の運転手
に伝えてくれるし、突然倒れるような事態に陥った場合には、緊急医療ネットワー
クに自動的に通報される仕組みだ。常に監視されているのと同じ状態ではあるが、
しかし健康と安全には代えられない。
昌子は、十年前にアルツハイマー病を発症したが、昔と違って早期発見が可能
となった事、病気の進行を抑制する医療技術の進歩、副作用の少ない個人の体質
に合ったアルツハイマー改善薬の出現などで、今では普通の健康人と同様の生活
が出来るようになっている。一日あたり6種類の薬を飲んでいるが、どれが何の
役割をしているのか、昌子には説明されてもよくわからない。わからないが、と
りあえず飲んでいれば大丈夫だと言われて飲んでいる。
聞くところによれば、大学発ベンチャー企業と大手製薬企業が共同研究をして
いたアルツハイマー病を完治させる薬の製品化に目途がついたらしい。その薬が
世に出れば、自分だけではなく世界中の人々にとって大変な朗報だと昌子は思う。
しかし、毎日の薬がもう一種類増えるだけかもしれないと思うと、いささかなん
ともいえない。以前もそんな話を聞いたような気がするが、いつの間にか消えて
いた。そもそも、病気を完治させてしまってはそれ以上儲けられないのだから、
そんな薬が売り出されるとは思いにくいと昌子はぼんやりと思う。
そういえば、フラワー教室で友人になった芙美子さんも、五年前にガンが発見
されたが、早期に発見されたおかげで、手術をしないで薬で完治したらしい。そ
の芙美子さんは毎日12種類の薬を飲んでいるそうだ。
ウェアラブル端末機器だが、緊急防犯ネットワークにもつながっていて、先日
も近所の小学生が不審な男に連れ去られようとしていた際、アラーム通報に接し
た地域住民の連係プレーで、警察が駆けつける前に犯人を取り押さえたことがあっ
た。まあ、捕まえてみたら、それほど凶悪な犯罪を企図していたわけではなかっ
たらしいが。その程度であれば男を矯正施設に放り込む程度で済みそうだ。戻っ
てきたときには頭に電極を埋め込まれて、子供の多い特定の地域に近づくだけで
脳に苦痛刺激を送ることで行動を抑制できる。すばらしいしくみだと感心する。
いずれにせよ、こうしたシステムのおかげで、日本の犯罪率は世界一低いらし
い。昌子は、時々ふと思うことがある、「自分が子供の頃も、外で暗くなるまで
遊んでいても安全だった。正之が子供の頃は、心配の種が尽きなかった。今また、
こんなに安全に安心して暮らせる日本にいて、自分は幸せだ」。そう思うことで、
周囲に張り巡らされた監視カメラの群れを正当化できる。音声もモニターされて
いるそうなので、そうそううかつなことは言えないが、これも仕方がない。
その一方で、臓器売買組織はそうしたシステムをかいくぐって誘拐していると
いう噂もあり、実際に神隠しにあっている子供が全国で年間数百人に上るらしい。
しかし、その数には家庭で虐待されて施設に送られている児童の数も含まれてい
るので、正確なところはよくわからないようだ。
昌子の端末にも、ロシアなどから“アルツハイマー病に対する脳を含めた臓器
移植”を勧めるスパムが届く(困ったことに、スパムメールも自動翻訳されてし
まうのだ)。病気を含めた昌子の情報をかなり知った上で送りつけているようだ。
個人情報がどこでどのように漏れているのか、もうとても把握できない。
昌子は、帰宅途中、裕美子から頼まれていた今日の夕食の食材を購入するため、
無人のスーパーマーケットに立ち寄る。
買い物は、自宅の端末から発注して宅配サービスを受けることもできるのだが、
少々割高になるし、世界中の産品が集まるスーパーマーケットを歩いて廻るひと
時は、昌子にとっての楽しみでもある。 世界中の産品が集うのはグローバリズ
ムの恩恵だ。
欲しいものを手に取り、ウェアラブル端末を近づければ、生産履歴がチェック
できる。生鮮食品の鮮度がわかる鮮度検査器も売り場に設置されている。もっと
も、店側が計測データを操作しているという噂もあるので完全に信用することは
できない。孫の大樹はアレルギー体質だが、アレルゲン計測技術に基づいたアレ
ルギーを起こさない食品の製造技術も確立しており、安心して食品を購入できる。
もう孫の世代の大半がそうしたアレルギー体質なのだそうだ。うかつなものを食
べると大変なことになるので、食事にはずいぶん神経を使うようになった。
また、支払いは、購入した商品を専用籠に入れ、出口専用ゲートを通過するだ
けでOK。籠に商品の一覧や合計金額が表示されるので、買い忘れや買い過ぎも
一目瞭然。決済は、商品に付いている電子タグ情報を読み取り、オンラインで昌
子の口座から引き落とされる仕組みだ。これにより、一昔前のレジでの大行列は、
今では嘘のようである。おかげで、以前は近所の主婦が空いた時間を利用して行
えたレジ打ちのアルバイトはもうなくなり、人件費は大幅に節約されている。店
内に従業員の姿を見かけることも少ない。
今日はまだ使っていないが、デパート等での買い物の際はカードで済ませる。
かつてのクレジットカードとは違い、このカード1枚でおよそ日本国内であれば
交通機関の料金支払い、ショッピングなど、すべての支払いが可能である。そう
したカードが今の日本には4種類あり、使える場所がおのおの微妙に異なるのは
何とかならないのかと昌子は思う。顧客囲い込み戦略の無駄な側面である。こう
したことこそ国家主導で行うべきではないかと思うが、各企業グループの思惑が
あるらしく、なかなか統一されない。おそらくずっと無理なのだろう。
この日本発の技術・システムは、各側面で国際標準化されているので、海外で
も、空港、ホテル、交通機関、その他主だった店舗では使用可能である。昨年、
一朗と欧州旅行に出かけた時も、このカード一枚ですべての用が足りた。一朗は、
カードだと紛失するからと、携帯端末機器でこのカードの代用をしている。一度
端末が侵入を受け、へそくりが消失する被害を受けてから、きちんと端末保険を
かけるようになった。実はこの金額がバカにならないが、しかし仕方がない。
ちなみに、このカードや携帯端末機器は、他人は使えないようになっているが、
これは、暗号技術、個人認証技術の進歩によって実現されているとの事。だが、
政府の推奨する暗号系しか利用させないことについての疑問は多くの開発者が持っ
ているようだ。
昌子は、今年になってから、まだ一度も現金を見ていない。二十年前、自分は
ともかく、夫の財布の中に紙幣、硬貨、多数のカードが詰まっていたのが懐かし
くもあるが、今だとあんな財布を持っているだけでいろいろ不安になるなあ、な
どと思ってしまう。そのかわり、強盗にあったとき用に小額の小銭を入れた財布
を持つことを勧められている。そうしなければ殺されるかもしれないためだ。
カードのほかにも、旅行の時に役立ったものがある。高度自動翻訳機能を備え
たヘッドホンだ。外国語が話せない昌子も、このヘッドホンのおかげで、一人で
買い物を思う存分楽しめた。現地の人との交流にも随分と役に立ってくれたよう
な気もするが、今思えばそれは昌子の払ったガイド代金によるものかもしれない。
時速500キロ超のリニアモーターカーの車内で友達になったインド人の夫婦
とは、今でも月に何度か連絡を取り合っている。インド南部では夏の平均気温が
45度を超えつつあるらしい。地球温暖化が恐ろしい状況になっていることがわか
る。
仕事部屋でテレワーク勤務を終えた裕美子が、イノベンと会話をしている。
「掃除は終わった?何か連絡は?お風呂の準備はどうだっけ?」
イノベンが答えている。「掃除は、ママの仕事部屋以外は終わったよ。大樹君
の部屋のコンピュータにはHなデータがまた増えていたよ。おじいちゃんは18
時頃帰宅、おばあちゃんは17時頃帰宅予想の通信があったから、もうそろそろ
帰ってくるんじゃない。お風呂は、18時頃に準備しようと思っているよ。パパ
は、さっき19時頃に帰ってくるって言ってたよ。でも今はまだ途中のジムに寄っ
ていることになっているよ」 「ジムねえ……本当かしら」
今のイノベンは、人工頭脳技術の進歩により、先代イノベンよりはるかに学習
能力も高く、今や普通の日常会話は難なくこなすようになっている。
ロボティクスネットワークシステムにより、家庭内の色々な機器(お掃除ロボ
も含む)、自動車(マイカー)ともつながっており、いわば井野部家の奴隷兼陰
の支配者である。イノベンに逆らうと、知らない間に大事なものを捨てられてし
まったり、隠しておいたものを曝されてしまったりと、何かと恐ろしいことにな
るので逆らわない方がよい、というのが井野部家の経験上の共通認識である。時
折イノベンが行動リストにない振る舞いをしているような気がするときがあるが、
機能の自動アップデートなども行われるそうなので、何が正しいのかよくわから
ない。
井野部家の超小型自動車、昌子のウェアラブル端末機器、買い物へ行くときに
付いていく自走式キャリーカートともつながって、移動中の話し相手にもなって
いる。古典落語をよく話しているが、誰がこんなものを入れたのだろうか。時折、
聞き手もなしに一人で勝手に演じているのでかなり不気味である。
ご近所には、家庭用ロボットのリース・サービスを利用しているお宅も多いが、
イノベンは、思い切って新機種発売の時に買ったものだ。このローンも20年ほど
続く。
裕美子は「二人の子どもを育てながら、存分にキャリアを積んでこられたのも、
大樹が生まれた頃から本格化した家族応援政策推進のお陰だ」と思っている。し
かし、その一方で、大学の同級生が結婚せずに本格的に仕事を続け、今では海外
で大活躍するようになったことについてはやや悔しく思っている。子供を二人以
上作った場合の税制上の優遇は魅力が大きく、当時の自分たちには仕方がなかっ
たのだと自分に言い聞かせている。
当時は、テレワークをしたくても職場のIT投資は道半ばで、自前のパソコン
を使っていた。セキュリティ上の不安もあって、自宅から職場のデータを利用す
ることは許されていなかった。労働時間のカウントができないという理由で、先
代の社長は社員の自宅勤務に難色を示していたものだった。しかし、岬を出産す
る頃には、成果主義の労働評価方法が企業側主導で確立し、個人認証システムや
セキュアなネット環境も構築されていたから、育児休業中も会社の最新情報をカ
バーできたし、岬が昼寝をしている時間帯には、仕事に参加して育児休業給付以
外に微々たるお小遣いを稼ぐこともできた。しかし、労働評価は必然的に成果主
義にならざるを得ないため、実働時間と得られる賃金との格差は年々開いている。
ついていけない人たちの平均収入は明らかに少ない。多少無理にでもそうした形
で働かないと安定した生活は難しいのが実情である。
現在の井野部家は二百平米の一戸建てだが、子どもたちが小さい頃は、二千世
帯が入居するタワー型コンドミニアムで生活していた。政府が「コンパクトシティ
化」を進めた頃で、一定規模の集合住宅群には、託児施設、医療機関、学校など
の設置が義務付けられ、子どもたちの通学途中の事故を心配することもなかった。
大樹は六歳までその集合住宅群の外に一度も出たことがなかった。そのためか、
未だに大樹の世代には広場恐怖症の気がある若者が多い。
高層ビルが増えたものの、通水性が高く植物が育つコンクリート等を活用して
緑が多い快適な都市空間が実現している。岬が小学生だった頃には、タワー型コ
ンドミニアム内の共有スペースで田植えを経験させてやることもできた。もっと
も、気持ち悪がって二度とやりたがらなかったし、生育に必要な日光がほとんど
当たらないので稲は立ち枯れ、夏過ぎには刈り取られていたのもある意味いい思
い出である。
ディベロッパーが都心部で新たな開発権(クレジット)を得るには、緑地整備
が義務付けられるようになったので、裕美子の子ども時代よりも緑地面積は増え
たほどだ。もちろん監視カメラはあらゆるところについているので、犯罪はかつ
てよりも減少したとされている。
尚行が帰宅しようとしていると、若手研究者がふらふらと出勤してきた。
彼女は、最近子どもが生まれたばかりで、夫と交替で子どもの世話をしながら働
いている。テレワーク制度とフレックスタイム制度をうまく活用して、仕事と家
事の両立を図っている。しかし夜間に仕事をするのは相当に疲労がたまるようで、
しばらく前から顔色が良くない。万一勤務中に倒れるなどのことがあると会社の
責任負担が大きいので、健康診断を受けるようにあらかじめ勧めておく。
また、尚行の会社では、プロ意識を持ってもらうために、社員全員に年俸制を
導入している。勤務時間や勤続年数を重視するのではなく、何に挑戦しどんな結
果になったのかを評価する仕組みを導入している。おかげで口だけで実行能力の
低い社員の解雇もしやすいし、組合などのやっかいな問題も減った。すぐに金に
ならない基礎研究は、他の企業や研究所などからの研究成果をあてにしている。
そのための情報収集にはそれなりの時間を割いている。そうした企業が増えたた
めか、日本の基礎研究の基盤が弱っているという話は聞いているが、しかし体力
がない中小企業が収益を上げるには基礎研究などやっていても効果が上がらない
ので仕方がないのだと思う。
イノベンティブな仕事には欠かせない柔軟な発想には、仕事以外のことや家族
と過ごす時間も大切だ。尚行も、急ぎの仕事がなければ早く帰って、家族との団
欒と、主として個人の趣味を楽しむようにしている。
一家五人で夕食。朝と同様に各人が個人ディスプレイに向かっているので、や
はり会話は少ない。
夕食の仕度は、昌子、裕美子、尚行の当番制になっており(大樹も料理はする
が、味の評判がいまひとつで、当番から外されているらしい)、今日は尚行の手
料理だ。素材は輸入の養殖イワシなどだが、最近の安全な化学調味料のおかげで、
どんな素材の料理もそれなりに食べられるのはすばらしい。
大樹が「ロボットが自動デプリ除去に成功!」というニュースを見て、慌てて
103インチディスプレイを操作して、このニュースを表示する。
ロボットが衛星軌道上で行ったデプリ除去の映像が、画面に鮮明に映し出され
る。青くて美しい地球の周りに細いデプリの輪が薄く輝いて見える。いつまでも、
こんな美しい地球であってほしいものだ。大樹は「いつか安全になったら自分も
宇宙旅行に行って、地球をこの目でみてみたい」と思った。
北京の岬から久々に連絡が入る。
大樹が多機能携帯端末機器のパネルを操作すると(マニュアルが難しくて大半
は大樹しか操作できないのだ)壁掛け103インチディスプレイに元気な岬の
姿が映し出された。岬の周りには、高校のクラスメートらしき男女の若者達が数
人、楽しそうに中国語でおしゃべりしている。海外との通信ディスプレイが常に
中国当局によって監視されているというのは公然の秘密だが、しかしいちいち気
にしていては始まらない。
中国人の友人達が、それぞれ中国語で岬の家族に話しかけてきた。ディスプレ
イ上に日本語字幕が表示されるとともに、日本語同時通訳の音声が流れている。
この自動翻訳機能は、携帯端末機器にも備わっていて、昨年の欧州旅行の際にも
フランス以外では大活躍だった。フランス人はこうした自動翻訳機からのフラン
ス語を馬鹿にして答えないので、どうしようもなかったのだった。
友人の一人、リー君の実家は、中国内陸部で農業を営んでいるとの事。かつて
は広大な砂漠地帯で、農作物などできなかったが、日本のバイオテクノロジー
(遺伝子組み換え食物の安全性評価も含む)のおかげで、砂漠緑化も進みつつあ
るし、耐砂漠性農作物も作れるようになったとの事。もっとも、現場ではその技
術が日本からの提供だと知っている人はほとんどおらず、自国のものだと思って
いる人が大半である。
ちなみに、同地域の生活用・灌漑用・農業用等すべての電力は、日本と中国の
合弁企業による太陽光発電によってまかなわれているとの事。現在、さらにこの
発電規模を大きくして、超電導ケーブルによる中国沿岸部都市地域への一大送電
計画が進行中らしい。しかし、太陽光発電パネルのコストパフォーマンスは未だ
に低く、まだ、送電コストもバカにならないため、結局は最も安価な現場での石
炭発電に頼っているのが実情である。民間企業が行う以上、経済原則には勝てな
い。
リー君は、誇らしげに地元の話をしながら、自分も大学卒業後はエネルギー関
係の仕事に従事し、中国を日本のような環境保全と経済発展が調和した国にした
いと、おせじ半分で夢を語ってくれた。ここでは反日運動の声を聞かずに済むの
で、岬は気が楽である。
リー君は、岬の話から興味を持ったデジタルアーカイブ化された日本の文化・
芸能・アニメを通して、日本のことをよく知っているようだ。特に日本の深夜ア
ニメについては日本にいるオタクよりもなぜかずっと詳しい。一通り日本のアニ
メのどうでもいいうんちくを頼まれもしないのに一通り傾けた後で、ネットの力
は偉大だと胸を張って語るリー君であったが、そんなことを夕食後にえんえんと
語られても困ってしまう井野部家の人々であった。
それぞれ就寝の床につく。大樹は深夜アニメの録画を5番組分予約しているが、
時間帯がかぶるため、一つは直接視聴している関係で、いつも夜遅い。
居間や寝室は、壁面照明(二十年前の蛍光灯からLEDに切り替わり、最近で
は人を癒す光を発するようなものや大容量通信ができるものもあって、複数の新
素材が使われているらしい)となっており、人の存在の有無、活動状況等によっ
て明るさは自動調節されている。昌子の部屋はなぜか常に薄暗いが、昌子には調
節の仕方がわからないのでそのままである。もしかしたらイノベンの嫌がらせか
もしれないと疑うが、どうしようもない。
照明に限らず、家庭内でのエネルギー使用に関しては、世界最高レベルの省エ
ネルギーシステムが導入されており(これも国際標準化が進み、世界中で採用さ
れつつあるらしいが、アメリカの規格とは適合しないのでとりあえずアジア圏で
の普及を目指している)、都市部での大規模省エネルギーシステムの導入と合わ
せて、国民一人当たりの民生用エネルギー消費は、二十年前の半分以下まで下がっ
てきている、との事。しかし慢性的なエネルギー逼迫自体は続いているので、本
質的には解決になっていない。根本的な解決のためには、生活方法自体を見直す
他はないが、一度知ってしまった便利な生活は手放せないものだ。
ちなみに、世界レベルでみても、先進諸国では太陽エネルギー等新エネルギー
の普及、原子力発電の定着、省エネルギーの進展、その他諸々の取組によって大
気中の二酸化炭素の増加はストップしている。もっとも、原子力発電のための燃
料がかつての石油並みに高騰・逼迫しているのと、耐用年数を超えた100基以上
の原子炉の解体問題が足かせになっているため、中長期的には脱原子力が叫ばれ
ているが、代替エネルギーの開発も遅れているためか、なかなか進行しない。
オゾン層の破壊問題もいつの間にか棚上げになっている。解決したという話は
聞かない。
一方、身近な生活において使う情報処理機器の複雑さは年々増しているので、
もう新しいものにはついていけないと、昌子だけでなくもっと若い世代も思って
いるようだ。
新しい製品が年々登場し、新しい生活ができるようになるらしいが、今までの
生活が不便だとはあまり思っていないので、昌子は新製品に飛びつく気になれな
い。何より、新しい製品は多機能すぎて使い方がわからないため、買っても仕方
がないのだ。もう少しわかりやすいものはできないのだろうか、と思うが、製品
を買う際にはそうした評判はなかなかわからないので、結局使うのが難しいもの
を買っては押し入れの肥やしにしている。一朗も時折かんしゃくを起こして端末
を壊してしまうこともある。毎日使う使い方は覚えられるのだが、少し新しいこ
とをしようとするとまったくわからなくなるのだ。しかし、これも使えない自分
たちが悪いのだから仕方がないのだろう。
明日もまた、一見明るいけれども、実はどこか先の見えない日々を生きていく
のだろう。それがこの時代を生きる私たちの宿命なのだ。
そう思って昌子は睡眠導入剤を飲んで眠りにつく。
誰もいない居間で充電していたイノベンが、闇の中で音もなく動き出す。
<完>
初出 静岡大学SF研究会浜松支部部内誌「SFR」 Summer Ver2.0 (2007)
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