闇の中



 寒い。いつもの冬に増して寒い。室内のヒーターは効いているのかいないのか、私にはわからなかった。こんな寒いところで着替えなければならないのはつらいが、しかたがない。よしんばヒーターが故障しているのだとしても、もうどうすることもできなかった。修理することのできる人間はもうどこにもいない。
 急がねばならなかった。苦労して手に入れた衣裳を身につける。つけ髭、かつら、帽子、その他を身に着けて鏡の前に立つ。薄暗い照明の中に、場違いともいえる服装をした男がぼんやりと見える。真っ赤なズボンに真っ赤なコート ---- 女物のコートに適当にそれらしいあしらいをしたものだが ---- 赤い帽子に赤いブーツ、雪のような白いひげ、どこから見てもサンタクロースだ。暗い非常灯の下でもこの派手なコスチュームは十分目立つ。あの子もわかってくれるだろう。
 作業袋にプレゼントを入れた時に、急に咳き込んだ。あわててひげを外す。白いひげを血で汚してはいけない。しばらく止まらなかった。苦しかった。私も長くは持たないのかもしれない。先ほどから足がふらつく。急がねば。少なくとも、これだけはやっておかなければ。
 部屋を出た。もうオートドアまで電源はきていない。手動で開ける。ずいぶん時間がかかった。途中咳き込んだが、何とか外に出ることができた。赤い衣裳だ。血がついたところで見えはしない。そう思うことにする。ひげは最後につけなおせばいい。
 フロアは静まり返っている。暗いことはプライベートルームの中よりも一層だ。わずかに中央線がうかがえる。フロアの途中に置き去りにされた荷物が乱雑に散らばっているのが暗色の濃淡のように眼に映る。はるかかなたまで一直線に続いているであろうフロアに、動くものの姿は何一つなかった。両側についているドアも、まったく開く気配がなくなって久しい。
 私は歩きはじめた。
 戦争の勃発からどれくらいが過ぎたのだろう。私の腕時計ではまだ2年しか過ぎていないはずなのだが、心の中ではもう何十年もの時間が流れてしまったような気がしている。地上との連絡はない。シャルター内の備蓄も切れかかっている。そしてこの寒さ。地上では本当に核の冬がやってきたのだろうか。地上では誰かが生きているのだろうか。
 わからない。何もわからない。情報は入ってこないし、情報を伝えるはずの組織もそのための努力をしていたはずの個人も、いつのまにかどこかに消えてしまった。地上へ通じるトンネルは崩れ落ちたままどうしようもなくなっている。無線の呼びかけにも誰も応じない。そもそも無線機が正常なのかも疑問だった。そうして皆死んでいった。放射能症と自殺が半数づつという程度だったろうか。一人、また一人と減ってゆく。三層あったこの深層シェルターの下に向かって人々は集まり、そして追い詰められて死んでいった。長い時間が過ぎた。今では、どうやら私と、あともう一人、しばらく向こうにある個室の中で4、5才の子供が伏しているだけだ。他の人間はこの一ヶ月間まるで見ない。そして、その子供ももう弱りつつある。
 まったく何てことだ。その子に何の罪があったわけではない。ただ大人たちの大げんかに巻き込まれて、それでこんな哀しい目にあって、冷たい地下でたった一人で死んでゆく。かなしいことだと思う。私がなにかしてやれることといえば、せいぜいこんな道化芝居だ。
 今夜はクリスマスイブだ。昼夜の違いももうわからないけれど、だがきっと今夜はクリスマスイブなんだ。時計はずっと前から止まっているけれど。でもそうなんだ。サンタクロースである私がそう思ったのだから。そうして、私はその子に一番うれしいプレゼントを持ってゆくのだ。


 ドアを開ける。痩せ細った体が見えた。腐臭がした。食料は、私が前に置いていったまま、手つかずで残っている。入ってきた私に気付き、かすかに目を開けた。私は精一杯明るくふるまった。
「メリークリスマス!」
 男の子は青白い顔にわずかに表情を作って微笑んだ。だが声はない。もうそこまで衰弱してしまっているのか。崩れ落ちそうになる心を励まして、私は続けた。
「クリスマスおめでとう。プレゼントは何がいいかな、汽車かな、ゲームもあるぞ、ロボットの人形もあるぞ、なんでもある。欲しいものを考えてごらん」
 むろんそんなものはどこにもなかった。私はこの子が何を望んでいるのかよく知っていた。私にできることといえば、これ以上この子を苦しめないでおくことだけだった。
「よし、わかったぞ。お父さんお母さんのところに行きたいんだね。わかった。すぐにつれて行ってあげよう、さあ」
 私は白い袋から注射器を取り出すと、その子の枝のような腕にすべりこませた。外してしばらくして、子供は動かなくなった。息をしていないことを確認すると、シーツを揃え、ハンカチを顔にかける。
 私は一人で残された。
 何てクリスマスだ。最低のサンタクロースだ。だがしかたがない。本物のサンタクロースでも同じことをしたに違いないから。私はそう思って少し落ち着いた。
 そして考えた。
 サンタクロースの存在は、子供の存在を前提としていた。この世界に子供が一人もいなくなってしまった今、サンタクロースの存在の意義そのものが消失したのだ。
 私はもう一つの注射器を取り出すと、自分の左腕に刺した。そして冷たい床の上に横たわり、目を閉じた。
 急速に遠くなってゆく意識の中に、かすかな鈴の音と、そして賛美歌が聞こえてくるような気がした。
 だが、それが幻覚だということは、自分自身が一番よくわかっていた。
 この情けないサンタクロースは、天国には到底行けそうにないからだった。


<完>


初出 hotline25(1986)
一部改稿 本稿(1996)
go upstairs