侵略



 十三階から乗ったエレベーターは、もうほとんど満員だった。
 私はなんとか体を人と人の間に押し込んで入ることができたが、私の次の男が足をかけたとたん、重量オーバーのブザーが響く。小さく舌打ちをして去って行く男の後ろ姿が、閉まるドアに遮られて見えなくなった。
 日曜日のデパートというのはひとつの街のようだ。あまりの人間の量に動きがとれない。それでもなんとか買い物を済ませて帰ろうとすればこのありさまだ。参ってしまう。おまけに一階ずつ止まっていくものだから、その度に人の出入りがあり時間のかかることおびただしい。私はいつのまにか、エレベーターの一番奥の隅に流されてきていた。相変わらず身動きもとれない。
 ぎゅうぎゅうとつまって壁に押しつけられている私の目の下、ちょうど10センチメートルほどのところに人の頭があった。それだけならばどうということもないのだが、どういうわけか、その頭には髪の毛というものが少しもなかった。つまりその頭は『はげ』だった。他に見るものもなく、また特に目をそらす必要も感じなかったため、私はしばらくそのはだ色の丸い物体を眺めていた。
 何の気なしに眺めているうちに、私はしだいに妙な気分になってきた。目の前の丸いはだ色の物体が人間の体の一部とは思えなくなってくる。そもそも、私たちはふだん『はげ』というものは人の顔の上端に付着しているべき髪の毛が「ない」という負のパターンでしか認識していない。そこにはげが「ある」とは考えないのが常だから、ふつうその当人以外は詳しいはげの観察などしない。「ない」ものは見えないのがあたりまえだからだ。だがこうして否応なしにはげと直面せざるを得ない状況に追いこまれてみると、実は『はげ』は決してネガティブな存在ではないのだ、ということがわかった。
 球形とも卵形ともつかぬ三次元球面によって構成されたそれは、そのバランスの微妙さゆえに造形美すら感じさせる。わずかにくすんだはだ色と、毎朝の日課の養毛剤の塗布の成果であろう輝きと艶、それははげ以外には見出だし得ないものだ。さらに、一見滑らかに思われる表面には、実は無数の毛穴が存在し、かつてここにも髪が生えていたという物証となっている。はげは単に無毛であるという状況ではなく、こうした積極的な要素の複合体として認識されうるものである、と。
 人間暇になると、妙なことを考えつくものだ
 私は相変わらず壁にぴったりと押しつけられたまま、あまりのばかばかしさに内心苦笑していた。だからなんだというのか。私がそう認識を変えたところで、はげそのものが変わってゆくわけではあるまい。依然として目の前の毛のない丸い頭は鈍く照り返していただけだった。
 その照り返しの白い光が、何かある意味を持っているように思えてきたのはしばらく過ぎてからだった。
「何なんだ」
 私は思わず声に出してしまっていた。あわててあたりを見るが、だれも気づかなかったようだ。落ち着いて、もう一度その目の前のはげの艶を見てみる。明らかにパターンをくりかえしている。そして、それを見ている私の関心をひきつけているようであった。
 その周期にある種の催眠効果があったのだろうか。ほんの一瞬だったが私は眠っていたようだ。そして、その時にはすべてが終わっていたらしかった。
「こんにちは」
 はげがあいさつをした。はげを持った人間ではない。はげそのものが私に語りかけてきていた。
「私をあなたの視覚情報に乗せて、あなたの脳の一部に移植しました」
 目の前のはげは、今やその表面を微妙に運動させ、明らかにはげ当人の意思とはまったくかかわりなく独立して意思を伝達しつつあった。艶の形状の変化が意味を持っているらしく、白い光がはげの表面で様々に形を変えていた。なぜ私がそれを理解してしまうのかもよくわからなかった。その言葉は目の前のはげがいっているようにも思えたし、自分の頭の中から聞こえてくるようにも思えた。
「私は情報生命体の一種です。理解できますか。わからないようなら、私があなたの皮質に直接イメージを投影します」
 何を言うこともできなかった。私は混乱していた。
 意識の底に何かが流れこんでくるのがわかった。
 一瞬の後、私はすべてを理解してしまっていた。
 大昔から、宇宙の情報の海には多くの「情報ループ」が存在していた。無数のそうしたループは、もともとはそれ自身が自己保存の能力を持った生命であった。それらが複合して有機体の形態にダウンロードして存在を半固定化したものが、現在の地球上の生命である、ということだった。例えば、それは生命を存続させてゆく上での生得的な反射運動の一つであったり、細かく見れば、視覚情報伝達系の画像処理過程の一工程であったり、複雑になると学習機能やさらに個人のレベルを超えた言語・思想といったものにまで発達していった。言いかえれば「人間」あるいは「人類」というものは、そうした様々な情報ループの共生体のようなものらしかった。
 だが、直接に生命存在と関わってくる反射や学習はともかく、はたして思想とか宗教とかいうものがどうして何千年にもわたって人間の脳の中に保存されてきたのであろうか。実は、これら宗教や思想はそれ自身が高次の寄生的な情報生命体であったのだ。微視的な情報ループの相互作用に存在する生きている影。いかなる状況においても、環境に適応して自己存続を行う能力を持つマルチループ。「人類の救済」などという標題を掲げて脳内に定着し、その他のライバルの情報生命体を駆逐すべく寄主を操作して自己の存在スペースを広げてゆく。宗教などそもそもそういったたぐいの存在なのだから人類を救うことなどできるわけもなく、ただ他の宗教と争うことにその存在意義があっただけなのだ。例えば「十字軍」というものは単にそうした二つの情報生命体が争っただけなのだ。そうでなければ、どうして愛だの戒律だのをかかげた立派な信仰を持った人間たちがお互い殺し合いなどするものか。
 そうして、それらの情報生命体の一つが、今、このはげだということだった。
 だが、なんともごたいそうなのは確かだったが、それがどうしたというのだ。確かに私は今このわけのわからない情報ループを取りこんでしまったようだが、しかしどうということもないではないか。別に乗っ取られるというわけでもなさそうだ。
「そうです。私はあくまであなたの脳の使われていないネットワークに入りこむだけですから、たいしたことはありません」
 そうだろう。何のことはないではないか。
「ただ、私が外部に情報を伝達する際にここの運動神経をお借りします。たいしておじゃまではないでしょう」
 私の頭髪が、私の意思とはかかわりなく、わさわさと動いた。
「では、この表面の黒い繊維は伝達効率を低下させますので、分離させてもらいます」
 それと同時に、私の髪はすべて根元から抜け落ちた。
 ちょっとした悲鳴が上り、エレベーターの中の視線は私に集まった。より正確には私の頭に集まった。人々が騒ぎ始めたのを遠くに聞きながら、不思議に私は落ち着いていた。かすかに「彼岸」「諸行無常」などのイメージが脳裏をよぎり、心は平静を保っていた。この情報生命体は、その存在の副産物としてこうした安心感をもたらすらしい。
 目の前のはげの当人がゆっくりと振り向き私を見た。袈裟を着て手首には数珠 を巻いている。
 男は一言こう言った。
「悟りましたな」
 そして私は出家した。



<完>


初出 hotline29(1987)
再掲 Cygnet5(1990)
go upstairs