風の中、長老と若い誰かがが言い争っているのが聞こえた。
私はまだ眠りから覚めきっておらず、それが誰かはわからなかったが、話の断片は聞こえてくる。どうやら私たちの掟についての話で、いつも通り、この定めが何のためのものなのか、そしてなぜ私たちがその定めに従わなければならないのかを論じているようだった。近頃は別にそれほど珍しいことでもなかったので、私はそのまま静かに眠りに戻った。
やがて起きてみると、一騒動が持ち上がっていた。
先ほど言い争いをしていたのは、群の中でも主に若いメンバーを束ねている最後尾の男だったようだ。その彼が、彼に従う一団を統べ、今私たちが停留しているこの大きな水辺にそのまま留まろうとしている。
もうすでに彼の群は移動の準備をしていない。今回はかなり本気だ。私はそう感じた。
昔から、いつかこんな日がくるのではないか、とは私は薄々感じとっていた。最近は何かにつけて彼は長に反抗し続けていたのだから、こういう実際の行動に出るのは時間の問題だったと言っても不思議ではなかった。むろん長の方でもそのことは分かり切っていたことだろう。
彼らはもう、テントをたたもうと気もないらしく、すでに食事を終え、家畜を放しに出かけようとしている。つまり、もう掟を守ろうという気はないのだ。暦の上では、今日は目が覚めたら、まず何をおいてもテントをたたみ、そしてあの光から逃れなければならない日となっている。食事も移動しながら取り、そしてそのまま休憩するまで動き続けるのだ。しかしもう彼らは動こうととしない。
「もう俺たちはこりごりだ。いつまでもいつまでも昔の掟にしばられて、どこまでもどこまでも歩いて行かなくちゃならないなどと、そんな馬鹿な話があるか。この水辺に留まれば、畑を作ることもできる、家畜だってもっと肥えるだろう。なぜ俺たちが旅を続けなくちゃならないのか、一つでもまともな理由を聞かせて欲しい。その天の怒りとかいうたわごとを除いて、だが」
長老はいつも通り静かに口を開いたが、すでに半ばあきらめかけているようだった。
「おまえたちにその天の怒りの本当の姿を説明したところで、まるで要領を得まい。実際、私自身もその昔長から伝えられたときにはまるで合点が行かなかったのだから。だが、今となっては、おそらくこの掟が正しいのだと言うことがわしにはわかっている。まさに天の怒りなのだ。おまえたちはまだ見たことがあるまい、我らの後ろから迫ってくるあの輝ける神の正体を。いや、わしとてかつて一度だけかすかにこの目で見ただけの話だが、しかしそのおかげでわしは片方の目を失った。その時の長老に片目だけで見るように言われていたのだ。そしてわしは跡を継いで長となった。あれは怒りなのだ。わしらはその怒りから逃れねばならぬ。だからわしらはどこまでも歩いていき、あの光の下から逃れなければならないのだ」
「だからといって、いつまでも逃げてばかりいるというのか。あの光の正体が何なのか、そんなことは知らねえが、どうせ巨大な炎かなんかに違いない。そいつを何とかして消しちまえばあとはもういいんだろうが。別に完全に消しちまわなくてもよ、少うしだけ光らせておいてやってもいいんだしよ、別にたいしたことはないんじゃねえのか。幸いにも、ここにはたくさんの水がある。そいつが何かはともかく、燃えているものならば、この水に入れてしまえば消えるだろうに」
長老は溜息をついた。
「おまえ達は思い違いをしている。あの火はそんな水などで消えるような代物ではないのだ。そんなものではとてもないのだ」
最後尾の群の若者の一人が叫んだ。続いて群全体がどよめきはじめた。
「その証拠を見せてみろ」
「そうだ、どうしてそんなことが言えるのか、それを説明してくれ」
「あんたの繰り言ははもう聞きあきた」
群は口々に長老に詰め寄った。長老がつぶやいた。
「わしをもう信じられん、というのか」
最後尾を統べている男が、一歩前に出ておもむろに、聴衆に聞かせるように述べた。
「そうだ。長老よ、あなたの時代は終わったのだ。昔のたわごとなぞ、あなたと共にどうかどこまでもこのまま歩んでいって、地の果てに消えて欲しい。我々はここに残る。ここで新しい豊かな生活を得る。旅の日々は終わりだ。これからは我々は動かない地面と共に生きる。我々も動かない。ここから伝説に記された豊かな生活が始まるのだ」
群の中から歓声が上がった。
私は少し離れたところで、根の果実を掘りながらこれを見ていた。
あの群が離れると、家畜は今の3分の1近くに減ってしまう。それでも何とか残りで暮らしていけばいけないことはない。有能な働き手が減ってしまうのは痛手だが、しかし群の中に不和を抱えているよりは、いくらかましなのかもしれない。いずれにしても、この群は少し大きくなりすぎた。食料が不足気味になってきたのはここしばらくのことだ。いずれこうなるのは必然だったのかもしれない。私にはそう思えた。
結局、後尾の群と、それに同調したいくつかの小さな群はここに留まることになった。長は、自身掟を曲げてでももうしばらく説得したかったようだが、結局時間の無駄に等しかった。
彼ら後尾の群達は、微妙に明るくなり始めた後ろの空の下、家畜をすでに水辺に解き放っていた。しばらくはもう戻らないつもりだろう。私を含めた残りの群は彼らと別れ、わずかになった家畜を率いて水辺を離れていった。
風に向かい、そして薄い藍色の闇に向かって。
長老と同じ車に揺られていた私は、しばらく彼の様子をうかがっていた。焦燥の色が濃かった。先ほどよりも一層老け込んだように思えた。彼は長いこと黙っていたが、私の視線に気づくと、いつも通りの穏やかさで口を開いた。
「おまえはあそこに残らなかったのだね」
私はええ、と答えた。
「なぜ残らなかったのかね。あそこは確かにいい場所だ。もしあの掟が、でたらめな根拠や大昔の慣習に基づいて無意味に定められたものなのだとしたら、確かにわしらは無駄な努力をしていることになる。こうしていつまでも地上を移動して生活しなければならないなど、疲弊するだけで何の益もない。せっかく家畜の餌があるところをみすみす通り過ぎ、ただいたずらに歩を進める。つらいとは思わないのかね」
「確かにつらいです。長よ。でも、掟にはきっと何か含むところがあるはず。そうでなければ、これだけ綿々と私たちを動かし続けることはないはず。私はそう思います」
私は答えてから、思い切ってこうつけ加えた。
「地図があります。あれはたぶん正しい地図です。私たちは、長よ、これまであなたの指示通りあれに従って動いてきました。間違った情報はささいな点だけで、大まかな地形はほぼあっているという噂は本当なのでしょう。私たちは決して迷ったことはありませんから。そして、私たちが遠い昔から本当に真っ直ぐただ前にだけ進んできたのだとしたら、そして世界がただ広がっているだけなのであれば、そもそも地図など作りようがありません。ですから、あれは確かに、私たちが丸いものの上を進んでいる証拠だ、とそう聞いたことがあります」
長老は笑った。
「おお、そこに気がついたのか、賢い子どもよ。おまえはいずれ長にもなろうというものじゃ、聞かせてやろう、この地図の由来を」
私は緊張した。地図の由来を知らされる、ということは大人として認められた
ことであるばかりか、ある意味で群の権力的な中心に近づいたことを示唆してい
る。その一方で、あえてまだ子どもの私にそれを明かす、ということの意味を私
は漠然と感じとった。
彼は疲れているのだ。
老人は奥の箱の中から厚い地図の束を取り出してきた。不完全な写しを断片的に見たことはあり、また話にも聞いてはいたものの、その本物ははじめて目にする。私は緊張した。
「そもそもこの地図は、わしがその前の長老から受け継いだもの、その長老はその前の長老から受け継いだもの。その長老もまた前の長老から受け継いだもの。ここ数代は代わりがない。もちろんこれが唯一無二の地図という訳ではないがの。他の大群にもほとんど同じ地図があるはずじゃ。そうして受け継がれてきたこの地図は、一人の長老の生きている間、一枚の地図は1回しか役に立たない。そうだ。この1枚は、わしの生きている間では、たったの1回しか役に立たなかった。おや、おまえは今こう思わなかったか。もともとその地図はでたらめで、いい加減な地形が好きな順番で書いてあるだけなのではないか、とな。だからどの地図がどこで役に立つのかはまるでわからないし、どれかの地図が何回や食うにたつのか、などと言うことは誰にもわからないのではないか。そう思わなかったか」
「はい。でも、すぐに考え直しました。地図には隅に順番が書いてあります。その通りに並べていって役に立つのであれば、それは決してでたらめではありません」
「そうじゃ。この地図には明らかに順序がある。正しい順序で用いていけば、裏切られることはない。いや、かつて数千年の間なかったのだ。そしてこれからもないだろう。そして、この一番初めの地形は、どうじゃ、最後の地形とほとんど重なっておる。水場の形やらなにやらはやや違うものの、ほとんど同じだ。そして終わりまで言ったらもう一度また初めから地図を見て行けば、また同じ世界が現れる。安全に通るべき道筋もわかる。これが、この世界が丸くなっているだろう、という考えのおおもとになった」
世界が丸い。確かにそう言ううわさも聞いたことはあった。私たちは、この世界をただ旅をし続けているけれども、でも実は同じところをめぐっているだけなのだ、と言う話だ。いささか信じられないのだが、長は真顔で話している。地図の話もどうやら本当のことらしい。確かにこれは本当のことなのだろう。
だが、私はどうもよくわからなかった。
「この世界が丸く、私たちはその丸いものの表面をただ一方行に動き続けているのだと言うことはわかりました。しかし、長よ、私にはその先がわからないのです」
「掟のことじゃな」
私はうなずいた。
「実はわしにもうまくいえんのじゃ。これから話す事はあまりにも突飛で、信じられず、わし自身もかつて聞いたときにはさっぱり意味が分からなかった。だが、もう一度おまえにそれを繰り返してみよう。もしかすれば、賢いおまえならわかるかもしれぬ」
老人がどこまで本気でその言葉を口にしているのかはわからなかったが、私は黙ってうなずくより他なかった。
「先ほどおまえは、この世界が丸くなっている、と言った。わしらはその丸いものの表面に住んでいる、と。では、さらに聞こう。丸くなっているということは、その外側があるはずじゃ。その外側はどうなっていると思う」
私は詰まった。今まであまり考えたことのない話だった。私が普段目にしているのは、動いて行く地表と、そしていつも薄明るい空、そして私たちが常に進んで行こうとしている暗い空。私たちが逃げようとしている明るい光。他の群のメンバー、家畜。この程度だった。暗い空には何か光る小さなものがいくつも瞬いており、それはたいてい常に同じ位置にあったが、長い月日が経つと、私たちが進んで行くにしたがい少しづつその位置を動かして行く。その理由は私にはよくわからなかった。
だが、おそらく丸い何かがあるのだとして、その外側というものを考えてみると、それはその表面にいる者にしてみれば、おそらく上を見たときに見えるはずだ。上を見上げたときに見えるものは、光るもの、星と呼ばれるものがある。他のものは見えるか。雲がある。しかし、あれはそれほど遠くはない。少なくとも、星ほどは。
私は目を閉じて懸命に考え、答えた。
「きっと、あの光る星と呼ばれるものが散らばっているに違いないと思います」
ほう、と言う声が聞こえた。
「おまえはわしがおまえと同じ歳頃だったときよりも、ずっと賢い。わしは雲と答えたものじゃ。じゃが、雲はそれほど遠くにはない。なぜなら、雲は星を隠すから。本当に遠いところにあるのは、あの星というものなのだそうだ」
「ですが、長老、そのことと私たちの掟の間に、何か関係があるのですか」
「問題はここからじゃ。おまえにこれを見せよう」
地図の下から、長は一枚の紙を取り出した。それは地図ではなく、そこには中心に丸い大きなものが白く描かれ、それを中心とした円がいくつも広がっていた。そして、その同心円の弧の一部に、小さな丸が、一つの同心円に一つづつ、描かれていた。その小さな丸の一つには、ひときわ目立つ印が付けられている。
「これは何じゃと思う」
急にこんなものを見せられても、私にはどうもぴんと来なかった。ただ、同心円の最外周に細かい点のようなものがうがたれており、その点のいくつかが線で結ばれていた。それがどこかで見たような形に並んでいるような気がしていた。
私はしばらくじっとその図を見つめていた。思い出せそうで思い出せない。そんな感覚が続いた。やがて、心の下の方では、きっと答えはわかっている。そんな気分がしてきた。だが、それが口から出てこないのだ。もうわかっている。自分にはもう答えがわかっている。だが心がそれを口に出させない。
「星に気がついたか」
そうだ。星だ。見上げたときにいつも見えるあのぼんやりと明るい光の点。あの並び方が、この地図の外周にある点の並び方に似ている。本当の星はこんな線で結ばれてはいないのだけれど、でも何となくわかる。
私は考えながらうなずいた。
これが星なのだとしたら、この中心にある白い大きな丸は私たちが今いるところなのだろうか。ではしかし、この周りをとりまいている同心円は何だ。そしてこの同心円のところに描かれているいくつかの小さな丸と、その中の一つであるはっきりと描かれた、そう、中心にはないものの、あたかもこの図の最も重要な中心であるかのような描かれ方をされている、この丸い図形。
これには何か途方もないものが描いてある。
今まで見たことも聞いたこともないものが。
そんな予感にとらわれて、私は少し身震いした。そう、これは今まで見てきたいろいろなものとは、根本的に違う何かだ。
そんな私の内心を察していたのか、長は穏やかに言った。
「これは、この世界を表している」
この世界。
どういうことなのだろう。
私が今まで日々見てきた世界といえば、ただ広い大地と、雲。そして闇と後ろから迫る光。家畜に食物。所々にある水場。その程度のものだった。
常に光から逃げて暮らさねばならないと言う掟の意味など、子どもの私にはほとんど考えることはなかった。それは生まれたときからあるがままの世界なのであり、疑問を持つこともなかった。それが、いきなりこの得体の知れない図形を見せられて、大まじめな顔でこれが世界だ、と説かれる。混乱しない方がおかしいのだろう。私は正直に言った。
「長よ、私にはこれ以上のことはわかりません。これが世界だ、というのはどういう意味なのですか。こんな紙に書いた図形が、世界だなどと、私にはまるで理解ません」
「おまえはよくやっている。もう一歩なのだ。しかしその一歩は果てしなく遠い....」
心なしか、最後の一言は溜息に混じっていたようだった。しかし、長は意外なくらいはっきりした声でこう続けた。
「よいか、心して聞くがよい。賢い子よ。この真ん中の大きな円、これが後ろから来る光の正体じゃ。そして、円周上のこの小さな丸い粒のようなもの、これが今我々のいるこの世界なのだそうだ。わからぬか。無理もない。本当の所はわしにもよくわからぬのだ。とりあえず聞け。わし達はこのよく描かれた小さな粒のようなものの上にいる。そして、その粒を拡大したのが、この次の絵じゃ」
私は完全に混乱していたが、とりあえず長の指す絵を眺めた。
図の中心に大きな丸が書いてあるが、その左側は白く、右側は黒かった。そして、その白と黒の境目ははっきりしておらず、ぼんやりとした灰色の領域が白と黒とを分けているように描かれている。円の周囲に一つの矢印があり、それは円がその方向に向かって回転していることを示しているようだった。また、白い部分の左側には、その方向からいくつもの矢印が引かれていて、円周のところで止まっている。
「この円が回転するのに、たまたまちょうどわしらの一生と同じくらいの年月がかかるのだ。だから長老はその一周の最後まできちんと生きて行き、地図を新しい若き長に譲り渡す。この意味が分かるか」
一周するのにちょうど一人の人間が生きて死ぬ程度の時間がかかる。それはわかった。だが、それは本当のところ何を意味しているのか。
よく見ると、中間の灰色の領域には「可住範囲」と書いてあった。また、白い部分には何かを意味する数字が書かれていて、それが左からの矢印に近い、つまり左端に近づくほど桁の異なった大きな値になっているのが見えた。また、反対側の黒い方にも同じような数字が書かれており、右に行くに従って、つまり黒くなるに従って、小さくなっているのがわかった。
私は、しばらくこの図の意味が分かりかね、じっと見ていた。
やがて、「可住範囲」という言葉が気になりはじめた。このことを逆に言えば、おそらくそう書かれている部分にしか「住めない」に違いない。しかし、この丸いもの自体は上から見て回転している。矢印から生じているらしい白と黒の位置関係は、どうもこの円そのものの「つくり」には無関係で、ただその矢印がたまたまこの円の上に白と黒の領域を作っているだけなのだろう。そうだ、火を起こしたときに私の後ろにできる影のように。
そうだ。これは、陰と光の関係をあらわしているのに違いない。白い光と、黒い闇。そして、素のどちらもが「可住範囲」には含まれていない。どういうことなのだろうか。
逆に、白と黒の際に住むことができるとするのであれば、その住める部分はいつも移動してしまっているのではないか。そうだ。ということは、誰かが可住範囲に常に滞在しようとすれば、どうしてもこの円が回る速度にあわせて自分が動いて行く必要があるのだ...
「わかった!」
私は叫んだ。
そうなのだ。これは単なる円周ではないのだ。この図が私たちの住んでいる「球」なのだ。私たちは、この丸いものが回転するのにあわせて、灰色の可住範囲から外れないように、いつまでもいつまでも動き続けなければならない。そして、この矢印はあの怒りの光なのだろう。きっと、この光から逃げるように、私たちは日々旅をしているのだ。これが掟の正体だとすれば、納得がいく。そうに違いない。そして、その丸いものの一周にちょうど一人の長の人生が対応するのではないか。だから地図の一枚は一人の長には一回しか有効ではないのだ。そしてちょうどこの円を一周回ったところで新しい長がその地図を引き継ぐ。そしてその長は再び同じ道筋をたどりながらこの円を回り続ける。その繰り返し。
だが、だとすると、この白や灰色のところに記されている数字はいったい何を意味しているのか。可住範囲、と言うことは、それ以外の場所には住めないことを意味している。そのことを表す数値なのか。いったい何を意味する数値なのだろう。
その問いに対して、長は明快な解答を与えてくれた。
「その数は、その場所での平均気温を意味しているのだ」
そう言われて、私はもう一度あらためてその図を見直して、目を疑った。
この数値は本当に気温なのか。
確かに、この可住範囲と記されているあたりの数値は納得がいく。しかし、白い部分になるにしたがい、信じられないような数値に上昇して行く。中でも最も高いところを見てみると、これではまずどんな生き物でも普通の意味で生きて行くのは不可能だと思えた。また、暗い方に行くにつれ、逆に今度は信じられないほど低くなっていった。
「これがわしらが常に旅を続けなければならない本当の意味だ。光の強烈な照射は常にわしらの背後から迫ってくる。が、このわし達が住んでいる丸いものの回転は、幸い非常にゆっくりとしている。とりあえず、この地図に従って日々普通に移動してさえいれば、わしらはこの灰色の世界に留まることができる。ここはこの世界で、ただ一カ所、気温が穏やかで、そして家畜の餌になるような草が生えている世界だ。だがその場所はこの回転に従って常に移り変わってゆく。あの光がわずかに届く、この狭い領域だけで、わし達は暮らして行くことができるのだ。では光が届きすぎるとどうなるのか。あの白い光、前の図で言うこの中心の大きな円は、途方もない熱を出している。それにさらされてしまうと、わし達はまず長く生きて行くことはできない。わしらはその恐ろしい熱から常に逃れていなければならない。また、先に進みすぎても冷たい大地が広がるばかりだ。だから、常に一定の速度で旅を続ける必要があるのだ」
私は一つの疑問を持った。
「ですが、長老、もしこの世界がこういう構造になっているのだとしたら、私たちとは反対のもの達、つまり、光を常に追い続けて暮らしているものもいるのではないですか。つまり、この円のこちら側、反対側にももう一つ灰色の領域ができているのですから。」
「よいか、考えて見よ。この白い部分が平均気温だとしたら、そしてこの温度に長い間さらされるのだとしたら、その土地に何が生えていよう。そして、そうした土地を追って生活して行くことができるのかどうか。家畜の餌もない、草一本も生えぬ。おそらくまだどこにも水もない。それどころか、足を踏むこともできない熱せられた大地が広がっているだけじゃ。そのようなところで生活をすることは誰も望むまい」
そうだ。大切なことを忘れていた。単に気温の問題ではなかった。食料や水をどこで調達すればよいのか。そこに大きな問題があったのだ。私たちのいる側の灰色の領域には、常に目の前に雨の降る世界が広がっているが、これもきっと私たちのいる位置に無関係な現象ではないのだろう。そしてその影響で草木も生える。もちろんそれほど長い期間そうした好条件が続くわけではないが、しかしこの気候に耐えて育ってきた植物にとってはそれで十分なのだろう。その期間に急速に繁茂し、やがて来る破滅的な熱に備えて種子を何重もの油脂の断熱層でくるみ、しかもその種子を土中深く埋め込んでしまう。そうして長い長い灼熱の期間をしのぎ、ある温度以下になってかつ水が豊富に出現した瞬間に、再び地上に現れる。そして、まさにその瞬間を狙って私たちは移動して行く。家畜に餌をやり、また地中に溜め込まれている養分の豊富な根の果実を掘り出し、自分たちの命を長らえさせるのだ。
世界の仕組みがわかった気がした。
あの光は、私たちを追い立てている。しかも、あの光はとても大きく、遠いところにあり、とても水で消そうとか弱めようとか、そんな考え方ができるものではない。あれはもう、私たちには手の届かない、そういうものなのだ。しかし、あの光が完全になくなってしまっても生きて行くことはできなくなる。そして、それ故に、私たちはこれからもずっと、この旅を続けながら生きて行くのだろう。止まったら死ぬのだ。淡い光を背に受けながら闇に向かって進み続け、そしてその結果、どこまでも薄明のこの世界に生き続ける。先祖がそうしたように、私もそうするのだし、きっと私の子ども達もそうするのに違いない。
私は揺られながら、あの水辺に残った群の運命を思った。
彼らが異常な気温に気がつきはじめ、あわてて移動して行く様が目に浮かんでくる。しかし、おそらくその時はもう遅いのだ。急速に上昇して行く気温に体力を奪われ、そしてゆっくりと遅れはじめた群に、あの巨大な光の固まりが容赦なく熱線を浴びせかけてるだろう。そうなってしまったら、ほとんど助かるものはいるまい。彼らが好んで選択した運命とはいえ、いささか気の毒ではある。
だが、彼らが私と同じ説明を受けたとしたら、果たして納得しなかったと言えるだろうか。私にはそうは思えなかった。東の群の男だって、聞けばある程度の理解はできただろう。その時には、いくら不満があろうとむやみに自分の統べる群を危険にさらすような真似はしなかったはずだ。
「もし掟が間違っているとしたら、それは掟それ自体ではなく、本当の掟の意味を隠してきたというそのことにある」
私はそう確信した。
秘密にしていることの本質的な意味は、権力志向と結びついた単なる秘密主義であること以上ではあるまい。たとえこの光と円の説明が彼らに理解されなかったとしても、決して無駄な説明にはなるまい、と思うのだ。自分たちがどうなるのか、をきちんと知った上で残ったのであれば、何かの対策を立てる可能性はあるではないか。天の怒り、などといういい加減な説明よりはずっといい。運が良ければ、いつか遠い日に、その対策が実を結び、日々移動などせずとも生活ができる日がくるかもしれない。もちろ中天の空の色よりも淡い期待だが、決して間違ってはいない。そう思えた。
また、私は、自分が掟に従ってこの長老の跡を継ぎ、儀式の形式通り、高い山の上から白い光の固まりを直視することを考えた。私はいつの日にかまず間違いなくそうした役目に就くことだろう。だが、やはりここでも私はある意味で掟を破るに違いない。
淡い光に慣れた私たちの目は、強い光を直視することはできないに違いない。光に対する恐怖感、絶対感を植え付けるために、長になるべきものにはあえて片目をつぶさせて、掟の意味を直感させるのだろう。だが、幸いにも私には掟の意味がはっきりと分かった。あえてこれ以上恐怖感を持つ必要もない。
何か光をうまく遮るものを見つけよう。それを介して見つめれば、運が良ければあの白い光を出すものと直接対面できるかもしれない。
きっとその時に、私たちの生き方も、また微妙に別な意味を持ちはじめる。それが具体的にどういった行動に現れることになるのかは、その時になればわかってくるにちがいない。
そう思いながら、私は後ろに広がる、永久に薄明のままの地平線をいつまでも見つめ続けていた。
<完>
初出 Hotline?? (1994頃)
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