回想





 彼は目を覚ました.
 いつもと同じ朝だ.
 とはいえ,この朝は一応それなりの区切りの朝ではある,ということをすぐに思い出した.
 壁のカレンダーを目で探す.
 1月1日.元旦だった.
 その年を眺めて,彼はあらためて考え込んだ.
 もう新世紀になってずいぶんになる.
 そうだ.
 気がついたら,もうこんなになっていたのだ.
 彼の若い頃に,その新しい時代が始まった.そしてそれは時とともに徐々になじみのあるものになっていき,そして今はもはややや古びつつある.
 子供のころに“かくあるもの”として存在していた未来が,いつの間にか現在に,そして過去に移動していく.
 自分も年をとった.
 未来は決して思ったようにはやってこなかった.
 枝葉末節の技術は確かに進歩していた.いろいろな技術が発展し,生活は一見とても合理的になり,そして,過去からの問題は何も解決していなかった.実際の感覚として,生活が子供のころに比べて大きく変わったり楽になったという印象は,彼にはなかった.
 新しい技術は新しい問題を産み出し,それに関わるいろいろな人や物事を変えていった.それは必ずしも良い方向だけに向けられたわけではない.いや,どんなものにもかならず良い面と悪い面があり,何かが産み出されるとそれが生み出す波紋はすべての方向に広がるものだ.
 未来というものは,もともとそういうものなのかもしれない,と彼は思った.
 心の中にあるのは理想であって,それを目指して人間は進む.しかし道がまっすぐに用意されているわけではない.道を自分たちでつくりながら進んでいくのだから.
 それでも,なぜか彼の心の中のどこかには,子供のころの“輝く未来”があった.決してやってはこなかった銀色のぴかぴかした未来が,彼の中のどこかにあった.
 いまだ眠りからさめない頭で彼は思い出す.
 あの世紀末というやつはなかなか曲者だった.
 彼が子供時代から青年期を過ごしたのは,ちょうど世紀末と呼ばれる時代だった.
 時代の変わり目には,世の中はなにかと騒々しくなるものだ.
 その頃,ちょうど流行していたのは,その世紀末の年に世界が滅びてしまう,というものだった.
 大昔の無名詩人の書いたいいかげんな詩を,適当に解釈していくと,世界の歴史のいろいろなことが実は予言されていた,という話で,そして,その最後に描かれていたのが,その年に空から世界を滅ぼすものが降ってくる,ということだった.
 考えてみればおかしな話だが,その話はそれなりに人口に膾炙した.彼自身も,その予言の解釈が書かれた本を何冊か流し読みしたことがあったくらいだ.
 そして,彼は今ここにいて,新世紀の始まりからずいぶんと隔たった新年の正月を迎えている.
 馬鹿馬鹿しいことだった.
 あの時に本を書いて大もうけした人間達は,今どうしているのだろうか.次の世紀末がめぐってくるまで息を潜めているのだろうか.
 今となってはどうでもいいことだ.
 そう思って,彼は心の底で何か引っかかるものを感じた.
 何だろうか.
“今となってはどうでもいい”
 では,その時はどうだったのだ.
 その年には,何も起きなかったのだろうか.
 不思議と,思い出がかすんでいる.
 あの時,彼はまだ子供だった.だから,印象が薄いのかもしれない.
 しかし,と彼は考える.
 新しい世紀に入ってからのことは比較的良く覚えているような気がする.
 そして世紀末の辺り,そしてさらに昔のことがはっきりしない.
 そんなに急激に記憶力が変わることがあるだろうか.
 きちんと考えてみる.
 子供のころ,彼は日記をつけていた.それがまだどこかにしまってあるはずだ.
 狭い部屋をしばらく探していると,天井に近い棚の上から,なんとか昔の日記らしきものを見つけ出すことができた.
 長いこと生きていると,妙なものが役に立つものだ.
 眺めてみる.
 そして,彼は驚愕した.
 わからないのだ.
 なんだ,これは.
 何を書いているのだ.
 テレビ,とはなんだ.
 遊園地,学校,とは何だ.
 ドライブに行く,とはどういうことだろうか.
 かつての彼の書いたはずの日記が,今の彼には全く理解できないものに変貌している.
 本当に,これは自分が書いたものだったのだろうか.
 何かが彼の中でざわっと音を立てた.
 あれからもう何十年も過ぎている.長い時間が経過しているので,こんなに何もかもあいまいなのだろうか.
 違う.
 彼の中で,誰かがささやいていた.
 思い出せ.
 思い出せ.
 本当は,あの世紀末の年に何が“起きた”のか,思い出すんだ.
 それが大切なことなんだ.
 わからない.わからない.まるでわからない.
 彼はうめいた.
 思い出すことができないのだ.
 何かが彼の記憶を封じている.
 彼は目を開き,頭を振った.
 そして,丸い窓から外の景色を眺める.
 灰色の瓦礫がどこまでも広がっていた.
 この風景も,昔から変わっていない.物心ついたときからこうだった.
 この瓦礫の中で彼は成長し,生活をしてきた.
 そのはずだった.
 昔から何も変わらないこの風景こそが,彼のふるさとだった.
 なぜこのような瓦礫ができているのか,彼にはわからなかったし,疑問に思うこともなかった.それは“そこにあるもの”だったからだ.
 子供のころに比べて,少しずつ技術は発展し,生活も変わってはいる.この前は,なんと馬がいないのに勝手に自分で走る車を目撃した.
 しかし,本質的なところでは何も変わっていない.問題は山積みのままだ.エネルギーの不足,資源の不足,失業と経済停滞.
 新世紀になったところで,同じことだ.
 いや、いつの時代になっても、実は同じことの繰り返しなのだ。
 彼にはそう思えた.
 そして,彼は,彼自身が心の奥にいだいている漠然とした輝く未来像と,現在の世界の間の,不自然なまでに大きなギャップを漠然と自覚している.
 何かがおかしい.
 何がおかしいのかは,彼にはわからない.
 しかし,そんなことがなんだというのか.
 世界はここにある.それでいいのだ.もし何かがあのときに起こったのだとして も,それは今という「新しい時代」に生活する自分にとってもはや関係のないこ となのだから.
 彼は起き上がると,乏しい食料を探しに,冷え冷えした部屋を出た.


<完>


初出 Hotline72 (1998)
go upstairs