長い夜




 長い夜だね。いつものことかな。ああ、そうだね。静かな夜だ。いつものことだね。
 久しぶりだね。元気かい。そうかい。うん、君が元気でうれしいよ。
 君は僕の親友だから、たぶん、きっとそうにちがいないから、ぜひ聞いてほしい話があるのだ。
 たいしたことではないのだけれど、でもぜひ君に聞いてほしい。悩み、というほどのものでもない、そう、本当のところ、それはもう「悩み」ではないんだ。
 もちろん僕は真剣だ。話はばかばかしいと君は思うかもしれないがね。
 聞いてもらえるだろうか。
 そう、たとえばこんなところからはじめよう。
 普段の自分がどんなことを考えて、どんな風に生きているのかは、自分で分っているつもりでいる。誰だってそうだ。君も僕も。
 でも「本当に」自分がなにを考えて、何を望んでいるのか、どこまで自分は知っているのだろうか。自分は本当は何者なのだろうか。この、それほど何のとりえがあるわけでもない自分が、本当にやりたいと思っていることは何なのだろうか。
 そういう「本当の」自分を見つめることができる時がわずかにある。それが夢だ。夢は自分の中の自分の世界だ。
 もちろん、今更僕からこんな一般論みたいなことをいわれても、別にどうと言うこともないだろう。そんなことは常識だから。そう、常識なんだ。
 で、そんな夢の中で君や僕がいったいどんなふうに行動するのか、というところが問題になってくるわけだ。ここからが僕自身の話になる。
 例えば夢の中で絶体絶命の危機に陥ったとしよう。崖の上で片手で何かにぶら下がっていて落ちそうになっているとか、何か得体の知れない化けものに追い詰められている、というような状況だ。よくあるだろう。そうかい、僕にはよくあるんだよ。
 で、そのときに、例えば自分といっしょに誰か大切な人がいる、という状況であるとする。恋人だの、両親だの、あるいは親友だの。現実に自分にそんな人がいなくてもこの場合には関係ないよ。そうして、その人が自分といっしょにつる下がっている、とかいっしょに逃げている、という状況を思い浮べてほしいんだ。
 さて、もう腕は疲れてきたし、化け物は直後に迫ってきている。いっしょに逃げている人が誰かはともかくとして、はっきりいってしまうとその人は邪魔だ。ぶら下がっている時は自分の体にしがみついているし、逃げている時にはいつも足を引っ張るスピードしか出せない。そうしてもう自分自身も限界に達しつつある。これ以上一秒ももちそうにない。
 そんなとき、君ならどうする。
 難しいね。そう。困るだろう。夢の中なのだが、自分にはそれはわからない。
 さて、そのとき僕はどうしたか。
 躊躇なくその大切なはずの人を見殺しにした。
 ただ見殺しにしただけではない。時間稼ぎのためにわざわざ置き去ったんだ。状況が状況だったのだけど、ともかく自分は何かに追われていて、それでその追手をかわすためにその人を犠牲にした。そう、追ってくる連中の足留めをするために。
 その後僕はそのことで後悔して、それが他の人にばれることが恐ろしくて、化けものばかりではなく、ひたすらいろいろなものから逃回っていた。全てが僕を追っていた。追われる恐怖が最高潮に達したところで、目が覚めた。
 そのとき、僕はこんな声を聞いたような気がした。
「3回までは許そう。これが1回」
 その声が本当にあったものなのか、それとも僕自身の良心が作り上げたものなのか、そんなことはどうでもいい。今となっては、もうどうでもいいことなんだ。
 次の夢もひどいものだった。誰彼かまわずナイフで刺し殺している夢だ。そんなことになるまでにいったい何があったのか、まるでわからないけれど。ともかく殺しながら後悔して、それでもそれがばれると困るから感付いた人や目撃者をまた殺す。夢の中で緩やかにナイフを突き刺してゆく感覚は曰く言い難いよ。自分では決して殺したいわけじゃないのに体が勝手に動く。次々と返り血を浴びる。追手がかかって、もうどうしようもなくなった時に、やっと目が覚めた。また声が聞こえた。
「これで2回」
 しばらくは夢も見なかった。何ということもなかった。
 油断していたのかもしれない。次が一番ひどかった。僕は貯水池にとんでもない毒を混入させてしまった。もちろん夢の話だ。数十万人が死ぬことが分っていた。言い訳しておくが、僕が人殺しをしたかったわけではない。たぶんそう思う。誰を殺したいと思ったわけでもない。ただ、ただ訳もなく、数十万人分の致死量の毒を水源に投げ入れてしまった。そうして、また後悔して、とめどなく冷や汗をかいて逃回ったところで目が覚めた。
「3回目だ」
 もうここから後はなかった。
 それからずいぶん長い時間が過ぎた。そんな気がする。今となってはもうよくわからないのだけれど。長いことそんな夢もみなくなった。僕はいつのまにか忘れていた。
 そして、不意にある晩やってしまったのだ。
 僕はどういうわけか、核ミサイルのボタンを押してしまった。なぜそんなボタンが手の届くところにあったのか、とかどういう理由で押してしまったのか、などと聞かないように。押してしまったものは仕方ない。
 でも、きっと僕は本当は「押したかった」のだと思う。何か重いものが僕の心にのしかかっていて、いっそのこと世界中を破壊してしまいたかったのかもしれない。自分が生きているということ自体が大嫌いで、他人が存在していると言うことも大嫌いで、子供みたいにいやでいやで我慢ならなくて、全てをきれいにしてしまおうとしていたのかもしれない。いろいろあるのかもしれない。君もほんの少しくらいでも、そういう感覚を持っていないだろうか。
 だが理由はともかく、僕はボタンを押した。それが意味するところを十分に承知してね。僕の押したボタンは正確に命令を伝えて、サイロから次々と戦略級のミサイルが飛び立っていった。そして、その反撃がくるのはもうすぐだ。何てことをしてしまったのか。僕がよりによって世界を破滅させてしまう原因だったのか。そう後悔した。
 いつもの通り、そこで目が覚めるのかとおもった。
そう思った。
 違った。
 目は覚めなかった。
 世界はそのままだった。
 いつまでもそのままだった。
 そのとき気がついた。
 これは試験だったんだ。僕は試験に落第したんだ。
 普段はあたりまえな顔をして静かに暮らしていても、心のそこで何を考えているのかわからない人間を選別するための夢の試験。
 僕は危険だったんだ。だからとじ込められたんだ。危険な夢を見て、そして危険な現実を本当に見てしまうかもしれない人間。かすかな危険性だが、想像したことをいつかは現実にしてしまう能力を持っている人間がときとして存在しているものだ。
 そうだ、実際まさに僕がそうだったのだ。悲しい想像が全て現実になって覆い被さってくる。今思うと、一種の超能力だったのかもしれない。いやな能力だよ。不幸ばかり予告するのだから、誰もかれもが自分から遠ざかっていく。不思議と悲しいことだけが本当になる。どういうわけかわからないけど、そうだったんだよ。本当に。
 そうして、そんなことのくり返しで悲しがっていたそんな自分が、ついに最後にこんな想像をはじめたのにちがいない。
 世界の終わり。
「だから、こんな危険な人間は何処かに閉じこめておかねばならない」
 どこに。
「夢の檻に」
 夢の檻。 
 目が覚めている時に、僕が「本当に」自分のしたいことに気がついてしまう危険性を察知した誰かが、僕のために作り上げた取っておきの監獄。
 それがこの酒場だよ。
 いや,“誰か”じゃない.わかってるんだ.
 これを作ったのは,ここを想像して自分の心を閉じこめたのは,きっと僕自身なんだ.自分の能力を利用して,自分の想像した悲しいことを実現した,その結果がここなんだ.
 ここにいれば,もうこれ以上世界に悲しいことを起こさないで済む.自分の力で,自分を閉じこめておきさえすれば.
 わかるかい、今僕は自分の夢の中にいるんだ。周りにいる人間はみな知った人ばかりだし、ほら、あの扉のわきに立っているのは私のおばあさんだ。顔は影になっていて分らないけれどね。バーテンさんは大学時代の同級生の顔をしているし、他にも限りなく知りあいや何かの象徴のような人物ばかりがあちこちに佇んでいる。その誰もがこんなところにいるはずのない人なんだ。君だってそうさ。目の前にいるのに顔もろくに見えないけど、でも君だとわかる。よく見ればおかしなことはたくさん起きている。普通はこんな店の中にあんな噴水はないけれど、僕の思い出の中では、子供の頃に母親と一緒にでかけた動物園の噴水の思い出と、その近くにあるこのお店とが結びついていて、パズルの断片のようにうまくはまっているんだ。
 おまけに全体の雰囲気はとても歪んでいる。僕は空だって飛べるんだ。ほら、この通りさ。浮いているだろう。ふわふわと。空を歩くこともできる。水の中を歩くように、ゆらゆらと。動くでもない、飛ぶでもない、ただこうして浮かんで揺れている。
 なんだかおかしいだろう。でもこれでいいんだ。
 酒を飲んでもまるで酔わない。味も何もしないからね。それでもおかしいという感じはあまりしない。夢の中では気がつかないことが普通だから。だからきっと問題はないんだ。そうして僕はこの夢の中で犯罪者として生きていかねばならない。僕が射った核ミサイルの報復がいつか必ずくるはずのこの世界のこの夜の街で、永久に。
 夢の中では歳は取らないのだし、おまけに、もうこの夢は絶対に覚めることはないものときている。大きな声で出してくれって叫んでも、きっと誰も出してくれないんだろうと思う。
 でもいいんだ。
 ここでは僕は一人じゃないから。僕の思い出の中にいる君達と一緒だから。本当は僕の目の前から去っていってしまったはずの君達と、これからはいつまでもずっと一緒にいられるのだから。
 そうだね、僕は少し寂しいのかもしれないね。
 慰めてくれているんだね。ありがとう。
 でも、ちょっと思ったのだけれど、きっと本物の君だって君自身の夢の檻に閉じこめられているのかもしれないよ。君ばかりじゃなくて、他の誰かも同じようなものなのかもしれないんだ。そう、みんなみんなそういうものかもしれない。みんなみんな自分の夢の檻に閉じこめられて、一人ぼっちで夢の中でさまよっているのかもしれない。もしそれが普通だったら、僕だけが寂しいっていうこともたぶんないんだ。
 ああ、夜がずいぶん長いね。仕方がないよ。
 僕がそう思っているのだし、おまけにここには本当は僕以外誰もいないのだから。
 だからいつでも静かで、そしていつまでもいつまでも闇の中なんだ。


<完>


初出 本稿(1996)
go upstairs