この話が私の夢か一時の妄想でなかったならば、あの古ぼけたゲーム機を持っ た男こそがSF作家であったに相違ない。だが、時として、夢それ自体がこの 世界とどこか食い違った別な世界を垣間見せてくれるように、またある種の脳 の疾病を伴った人間が、我々のまったく感じ得ない物事を体感してしまうのと 同様に、これは私が不可思議な電子機械の仕掛けを通して、ほんの一時、この 世の視野の外れのすぐ近くにある、別な世界の片隅を覗き見てしまったものか もしれない。
いつとも知れぬ、ある静かな薄らと晴れた日のことである。
その時、私はコミケット見物に出かけた帰りだったのではないかと思う。
もっとも、私がこの話をすると、親しい友人達には「おまえはコミケになんか
行ったことないじゃないか」と返される。そういえば、私はいつのコミケに出向い
たのか、思い出の輪郭がぼんやりとしている。しかし、私の心象の中には、混
雑した会場の様子や、そのときのいささか微妙な臭いや、興奮したあげくに行
列に並ぶのに疲れ果てた人々の様子がありありと浮かんでくるのである。
そのような曖昧な思い出を元に話を進めると、それはおそらく帰りの列車の中
であった。コミケの魔力が人を夢見心地にさせるものなのだとしたら、私は少
なくとも帰り道の列車の途上までは、その魔力からは逃れることができなかった
と見える。
私は一人でぼんやりと夜の列車に揺られていた。他の客はほと
んどが降りてしまい、自分と、それからもう一人、座席の斜め前に、黒いコー
トを着て静かに佇んでいる男が客車にいるだけであった。おそらくは冬だった
のだろうかと思われるが、今となってはそれも曖昧なままである。
私は持っていた本を読み終わり、ずいぶん長い間ぼんやりと外の風景を
眺めていた。それも夕刻を過ぎて暗くなると次第に見えなくなり、なんという
こともなく、手持ちぶさたになった。しばらく手洗いなどにうろうろしていると
きに、斜め向かいに座っている男の持っている古ぼけた携帯型の装置、おそらく
はしばらく昔のゲーム機器の画面が目に入った。
奇妙なことに、その男は、そのゲーム画面を自分の方にではなく、外の風景
やあるいは車内に向けて置いていたい
た。それは、あたかもその小さな画面の中の誰かに、このいささかもの寂しい
風景をよくよく見せているかのようであった。
よく見ると、そこには、いかにも古色蒼然とした昔のアニメーションの背景
と、何人かの古めかしくも大層可愛く描かれた少女キャラクター達、そして、
そこに妙な現実感を持って描かれた一人の男性キャラクターがいた。そのときの
私は、その男性キャラクターにどこか場違いな印象を持ち、しばらくの間、心の
中で理由を探していた。
「不思議でしょう」
不意に声がかけられた。
私はつい、その画面をまじまじと眺めてしまっていたようだ。
黒いコートの男は私の席に近づくと、そのゲーム機を私に手渡した。この長い単
調な旅路に、向こうもいささか退屈していたようであった。
「その男性キャラだけが、ゲーム画面の中で明らかに浮いている。そう思われたのでしょう」
私は突然のことに少し驚いたが、しかし彼の言葉に悪意がないことを感じ
取り、簡単に挨拶をし、あらためて画面に目を落とした。
そうなのだ。描かれている他のキャラクターの構成と、その男性キャラクター
の描線、特性が明らかに異なっている。それは、単に女性キャラと男性キャラの
相違という以上に、異質な世界を無理にひとつの画面に押し込んでいる印象があっ
た。
「これはよくそのあたりに転がっている合成画像でもありませんし、また
その昔に市販されていたゲーム画面とも、いくつかの点で異なるのです。
その理由を知りたくありませんか」
私はいぶかしんで彼を見た。しかし、その男は私を単にからかっているだけで
はなさそうに見えた。
「まだ私が降りるまでしばらく時間があります。もしよろしければ、時間
つぶしに、私の兄がたどった運命について、簡単にお話しいたしましょう」
「これはもうずいぶん昔のお話です。
私の兄は、まじめに勉学に励んでそこそこの大学を卒業し、そのまま
なんということもなく普通に勤め、あたりまえのように働いておりました。
趣味という趣味もなく、ただ、仕事が終わってから帰って寝て、そして朝になっ
て仕事に行く、という生活を繰り返しておりました。浮いた話もまるで聞かず、
親はそろそろ結婚相手を、と心配していたようでしたが、兄の方は生来の内気な
ためか、そういったことは縁もなく、一人で静かに暮らしていたようでした。
そんな兄の会社から、ある時私の実家に連絡がありました。兄が会社に出て
行っていない、というのです。
真面目な兄のことですから、何か理由があるのだろうと、比較的近くに住んで
いた弟の私が兄のアパートに出向いていきました。
意外にも兄は部屋に居りました。しかし、兄の顔はやつれ、私は兄が何か
酷い病気を患っているのではないかと感じました。しかし、よくよく話を
聞いてみるとそうではなかったのです。
まず、兄の部屋の中は、私がそれまで知っていた兄の部屋とは大
きく異なっていました。
地味だった部屋の壁一面に、色とりどりのポスターが所狭しと貼られて
いました。その数たるや、何十枚というものだったでしょう。そして、そのすべ
てがあるゲームのキャラクターを印刷したものだったのです。本棚や押し入れに
も、そのゲームの“キャラクターグッズ”というものがいっぱいに詰まっていま
す。そんなことはそれまでありませんでしたから、私は兄に何が起きたのか、話
を聞きました。
すると、兄があるゲームに“はまった”ということがわかってきました。
兄が仕事から帰ったときに深夜にやっていたアニメーションを見るともなしに
眺めているうちに、気がつくと毎週ある作品を楽しみにするようになって
いたのだそうです。
その作品は、登場人物達に悪意がなく、すべてのどかな善意と、そして
暖かな愛情によって構成されていました。兄はそれまでそうした世界のことを
まるで考えたこともなかったと言っていました。最初のうちはばかばかしいと思っ
て見るともなしに眺めていたのが、次第次第に引き込まれ、気がついたときには、
その作品が大好きになっていたのだそうです。
それまでこれという趣味もなかった兄ですが、その作品だけは毎週か
欠かさず見るようになり、そのうち、主題歌の音楽や、あるいはその作品の
漫画なども購入するようになりました。そうして、売り出されている色々なグッ
ズなどを買い続け、最後にその作品のゲームを購入したときから、兄はすっかり
その作品の世界に取り込まれてしまったのです。
ゲーム自体はたわいのないものです。普通であれば一度クリヤして、それ
ですべてはもう終わりのはずでした。しかし、どういうわけか、そのゲームに
は不思議な中毒性があったようなのです。
兄はそのゲームにのめり込みました。それまで趣味というものを持たなかっ
ただけに、むしろその没頭ぶりはとてつもないものになっていきました。
仕事も忘れ、一日中、ものを食べることも眠ることもせずに、そのゲームを
繰り返しプレイし続け、ついにはそのゲームの中にどうしたら入ることが
できるのか、真剣に考え始めたのだそうです。
もうそれ以外のことは頭になく、会社も親兄弟も、あるいは世の中も自分の命
も、すべてがどうでもよいことのようでした。
兄は私に話したあとも、しばらくの間、うわごとのように「ゲームに入る
にはとうする」とつぶやいていましたが、やがて私にこう言いました。
「お前、そのカメラで私を撮ってくれ。そうしたら、そのデータをこのゲーム
機の中に移してくれないか」
そんなことをしてどうするのか、と私は思いましたが、兄があまりに
鬼気迫るように真剣に頼むものですから、仕方なしにその場で、やつれた兄の
写真を撮影しました。薄暗いカメラのファインダの中で、兄の姿はどこか
立体感を失い、平らに歪んで見えました。もしかすれば、私はそのときに
気がつくべきだったのかもしれません。
不思議なことに、カメラのフラッシュが瞬いたその間に、兄は消えてしまっ
たのです。
私はあわてました。はじめは何かのいたずらかと考えましたが、兄がそういっ
たことをする人間ではないことはよく知っていました。どこかに出て行ってしまっ
たのではないかとも思いましたが、しかし、その一瞬で部屋から出て行くことな
どは、たとえ誰であってもできそうにありません。
途方に暮れた私がふとカメラを見ると、今撮影したばかりの画面に兄が映って
います。自分では静止画で撮影したはずでしたが、不思議なことに、画面の中の
兄は動いていました。
「早く私をゲーム機に移してくれ」
兄の口はたしかにこう言っていました。そこで、私は画像データをコ
ピーし、携帯ゲーム機の中に入れました。するとどうでしょう。勝手にゲーム
が起動し、そこにあの兄の姿があるではありませんか。
「お前のおかげでこのゲームに入ることができた。礼を言うよ。父と母には よろしく伝えておいてくれ。俺は元気で、大層幸せに暮らしているとだけ言って おいて欲しい」
画面の中から兄は私にこう挨拶すると、ゲームの中で楽しげにキャラクター 達と会話を始めました。ゲームの中に入った兄は、心底楽しそうで、とても 幸せそうに見えました。
以来、兄はずっとこのゲーム機の中にいるのです。
酷い話と思われるかもしれません。兄の人生はこのゲームの中にしかなくなっ
てしまったのですから。おそらく二度とこの私達の世界に戻ることはできないで
しょう。しかし、考え方によっては、兄は理想的な人生を送っているとも言えま
す。このゲームの世界には、悪意もなければ邪な心もありません。それはそれは、
信じられないくらい美しい世界です。すべてがやさしい好意と暖かな愛情ででき
たこの終わらないゲームの中で、兄はいつまでもいつまでも、幸せに暮らしてゆ
けるのですから。
その後、私も雑事で長らく世間を西や東に動いたりいたしましたが、いつ
でもこの兄と一緒におります。なんといっても、電池を切らすわけにも参りま
せんし、万一これが故障などしようものなら、兄と兄の愛したこの世界がほん
の一瞬で消えてしまうのです。私が生きている間は、私はこの機械をずっと持
ち歩き、兄のこの幸せを長く続かせるための手伝いをしたいものだと思ってい
るのです」
話し終わると、男は古ぼけたゲーム機を大事そうに受け取り、 コートの内ポケットにしまった。ポケットにしまわれる前のほんの一瞬に、今 話をした男とよく似た、その画面の中の男が、いささか恥ずかしそうに 私に小さく会釈したように見えた。
車内は再び列車の走行音に包まれた。
私も、その昔、自分が愛していた作品たちのことを想い出していた。
あのとき、自分もどれほどそう感じたことか。本の世界に、あるいはゲームの
世界に入ってゆけたら、どんなに幸せか、そう思っていたか。些末な世事に体と
心を絡め取られ、いつの間にかそれを忘れて、どれほどの時間が過ぎていったの
か。
今思えばおかしなことに、私は男の話を本当のことであろうと信じていた。
そういうことがあっても良いのだ、あるいはさらに強く“なくてはならぬ”と
そのときの私はたしかに感じていたのだ。
私が何かを口にしようとする前に、列車が不意に減速した。次の駅まではま
だずいぶんと距離があるはずで、そもそもこんなところに駅があっただろうか
と私はかすかにいぶかしんだ。
どこか間延びしたアナウンスがあった。
「次は----------」
私は耳を疑った。これはどういうわけだ。
その駅が現実にあるわけがない。
その駅名は、私がかつて大好きだったある作品の中の地名だった。私自身が
その作品世界の中に入ってしまいたい、そう思うくらい愛したある物語の中の
地名が、次の駅名としてたしかに呼ばれていた。
列車が止まった。
私は振り返り、窓の外を見た。
夕刻の薄い闇に覆われていたが、しかし私が心ではっきりと覚えているその
作品の風景が広がっていた。かつて日夜を問わずにのめり込み、すべてを熟知
していたと言っても過言ではないあの風景。一生あそこで暮らしたい、と本気で
思った街。そして、いつの間にか心の中から消えていたあの世界。心の故郷と
いってもよいほどの懐かしさ。そして、なによりこの街には、きっと今でも
あの楽しい仲間達、そしてなによりやさしく可憐なあの彼女が、きっと今でも
私のことを待っていて、そして、長い長い旅から戻った私を、皆明るく微笑んで
迎えてくれるのだ……
私が呆然としている間に、コートの男は立ち上がり、そして扉を出た。
薄暗いプラットホームに降り立った男は、振り返るとこう言った。
「あなたはいいのですか」
私は思わず立ち上がり、扉の前まで数歩進んだ。
あと一歩、踏み出せば、私はあの街に、あの幸せな世界に戻れるのだ。
これからずっと。
しかし、私の足はそこで止まった。
どのくらいそうしていたのだろうか。ほんの数秒だったような気もするし、
とても長い時間だったような気もした。
不意に目の前で扉が閉じた。
列車が動き出した。何事もなかったかのように。
それから、どうやって自分の部屋に帰ったのか、私はよく覚えていない。
あれが果たして現実のことだったのか、私には自信がない。
しかし、今の私にはわかる。この世界のどこかには、必ず自分が所属するべ
き理想的な場所があり、そこに行きたいと強く願うことができれば、何もかも
をかなぐり捨ててまで想うことができれば、人はきっとそこに行き着くことが
できるのだろう。普通の人間には、なかなかそこまで激しく想うことができな
いだけの話なのだ。早い話が、あのときの私にはそれだけの覚悟がなかったの
だし、今の私にもまだないのだと思う。
それでも私はなにかの折りにつけて考えることがある。
もしもあの時、あの駅で降りていたとしたら、私は……
<完>