未来のほうから来た男



 ある晴れた何の変哲もない日曜日、その男は不意に訪ねてきた。
 アパートのドアを開けたあたしの、いささか人様にお見せするのが恥ずかしい 感じのラフな服装にはほとんど一瞥もくれず、その灰色のスーツの男は商売をこ う切り出したのだった。
『私、未来の方から参ったものでございますが、お時間少しよろしいでしょうか』
 あたしはしばらく口を半開きにした。これまで新聞の勧誘やら竿竹の切り売り、 得体の知れない宗教関係の勧誘なんかは片端から撃退していたあたしだったが、 さすがにこんなのははじめてだ。
 いつもならそもそもその段階でドアを閉めてご退散願うところだったはずが、 そのあまりの異様な物言いについつい興味を持ってしまったがことの始まり。
「な、なんなのよ、その未来の『ほう』から、ってのは」
 あたしは思わず突っ込んだ。それで男はつかみは十分と踏んだらしい。
『私はこのようなものでございます』とおもむろに名刺を差し出した。

『運命総合改善商社 営業担当 第二十八之十三号』

 なんだこれ。
 運命改善?やっぱ怪しい宗教?でもそうならわざわざ未来からなんて言わない だろうし。いや、未来の『ほう』からか。
 男はあたしの心を読んだみたいに、おもむろに説明を始めた。
『私は、未来の方から参ったものでございまして、あなた様の将来に起きる不幸 な事故を、ぜひ我が社の商品で防いでいただきたく、こうして参った次第です』
 ……はあ。
 あたしはなんかまずいものに首を突っ込みかけている気がしたけど、でもなん となく、この男の言うことをもう少し聞いてみたくなった。今日は割と暇だし、 もしかしたらなんか友達に話すネタくらいにはなるのかも。ことと次第によって はなんか面白いもの売ってくれるかも。そんなに高くなければ。
 こんな風に思ったのは、あたしも少し変人だからなのかもしれない。

「よくわかんないけど、そもそもなんで未来の『方』なのよ? 素直に未来から 来ました、って言わないの? その方が通りがいいはずでしょ?」
 男は、よく聞かれるのですが、と前置きして、
『今のこの現在というのは、未来の側から見れば規定された事実の積み重ねであ る直線上をさかのぼったところにあるものなのですが、この現在から未来を見る と、無数の可能性を秘めた混沌なのです。つまり、今この現在で何か重大な変更 を行えば、未来も変化してしまいます』
 なるほど、わゆるタイムパラドックスってやつ。そういうのって、あんまり良 くないんじゃないの?とあたしは思ったが、男は続けた。
『つまり、私がここに来ることによって、皆さんにとっての「ここにおける未来 事象」それ自体が変わってしまう可能性が高いので、厳密な意味で『未来から来 ました』とは言いにくいのです。ですので、私はあくまで『未来の“方”から来 た』としか申し上げられません』
 うーん。やっぱりうさんくさい。
 この下手をすれば消火器を売りつけられかねない印象の「うさんくささ」は何 だろうか。
 確かにこの男の言っていることにそれほど大きな間違いはない。ないんだけど、 でもなんかだまされてる感じがする。
 でも、とりあえず話だけは聞いてみようとあたしは思った。何でそう思ったの かは、今となってはよくわからない。
「で、なにを買って欲しいのよ?」
『それで、今回の御願いは、この消火器を買っていただきたい、という……』
「出て行け!」
 あたしはドアを閉めて奴をたたき出しかけた。よりによって消火器。結局いつ もの“消防署の方から”ってやつと同じじゃないのよ。
『待ってください、冷静に、冷静に話を……』
 あたしはドアの隙間から氷のように冷たい目で奴を眺めた。
『私どもは、将来において火事でうちを失ってしまう方々に、少しでもその危険 を食い止めようと消火器を売りに参っている次第で……』

 なんですって?
 なんであたしが火事で家を失うのよ。
 まあ確かにあたしは不注意の塊のような人間ではあるが、いろいろと細かい事 故っぽいものは起こしてはいるが、さすがにそれほど大きなことを起こしてしま うとは、にわかには信じられない。確かに今部屋に消火器はないけど。ないけど、 火事が起きなければ消火器なんていらないわけだし。
 おまけに、起こるべき火事を防いでしまったら、未来が変わってしまう訳なの で、これはやっぱり、いわゆる「タイムパトロール」とかが出しゃばってきてし まうんじゃないのだろうか。やっぱりおかしくない?

 いろいろと突っ込んでいくと、これについては、奴はこんな言い訳をしてきた。
『歴史に残る大きな事故などは、さすがに起こらなかったことにするにはあまり に影響が大きすぎます。しかし、ちょっとした、個人的な事故については、防げ るものであれば防いでも良い、という法律が制定されたのです。たとえば、あな たの場合には、エー、これですね。あなたの不注意で台所から出火し、アパート 全体を焼失させてしまいます。電話をかけられていた最中だそうですね。その損 害賠償であなたのその後の一生は大きく変わってしまいますが、そのこと自体は 世界的な大規模な歴史の流れにはほとんど無関係です。言い換えれば、それはあ なたご自身が世界の歴史に対してまるっきりぜんぜんどっこも影響を与えない小 さな小さな存在であることを意味しておりますが……あ、いや、しかし、それは それとして、私どもは、様々な法定基準から算定した『過去において防いでも良 い事故』をリストアップしていまして、個人の人生に大きく影響する“防げるも のであれば防ぎたい事故”というものを未然に防ぐために、こうして皆様のとこ ろにおじゃましている次第です』
『様々な時代で、そうした防げる事故を最大効率で防いでいただくために、ある 事象の改変がその後の事象に影響を与えることを計算に入れつつ、私がどのよう に移動すればよいのか、という最適時空間移動ルートの解析を、個人的に『時空 間巡回セールスマン問題』と呼んでいるのですが、それが示した解の中に、今回 あなたの事故の防止が含まれていました。この近辺の時代では、後二つほどの事 故原因をつぶすことができます。世界の歴史的に見れば無視しても良い、ほんと うに小さなちょっとしたものですが、それでも個人にとってはとても大事な人生 の事件です。残念ながら、今回の私の移動ルートからははずれてしまう方々もい らっしゃいますが、そのような方々も、私以外のセールスマンが伺うことになる かもしれません』

 あたしはまたもや突っ込んだ。
「バタフライ効果ってのはどうなのよ?確かにあたし自身は世界的に見て対した ことのない存在なんでしょ。そこんとこはいいのよ。でも、あたしの事故を防ぐ ことで、他に波及する別な事故が起きたり歴史が変わってしまったりとか、本当 にぜんぜんないの?」
『大きな川の流れをイメージしてください。その途中での小さな渦や、障害物を 取り除いても、川の大きな流れには影響はほとんどありません。世界の歴史の流 れというのもそれと似ています。人々の不幸のほとんどは、時間をさかのぼって 防いでしまっても、世界の歴史には全くといってよいほど影響を与えないのです』
『ですから、これはサービスなのです。私どものサービスをお受けになって、起 こるべくして起こる事故を起こらないようにすることで、あなたの未来の生活や 人生が、良い方向に大きく変わるわけです。実は、既にもう相当数の事件や事故 は私どものこの仕事で防がれているのですが……防がれた事故については皆様に は起きないことになっていますので、ご存じないというのが私どもとしましては ご説明がつらいところです』
「ちょっと待って。じゃ、防げるけど防いではいけない事故ってのもあるわけ?」
『……それはございます。具体的にどれがどうなのか、ということは職務上の機 密保持義務のため申し上げられませんが、ほんの小さな事故であっても、 シミュレーションによって、その後の世界の流れに決定的な影響を与えてしまう ことがわかっているものもございますので』
 気のせいか、そのときの男の顔は少しだけ暗くなった気がした。

 その後もいろいろと突っ込みを入れたものの、男はのらりくらりとかわし続け て、そして気がついたら、あたしは消火器を買っていた。
 男が言うには、外見は現在のものと同じように見えるが、内部は未来のテクノ ロジーで構成された画期的な製品らしい。実のところ、普段買うことのない消火 器の値段なんかわからなかったので、男の言い値で買ってみたけれど、それが本 当なら、もしかしたらお得だったのかも、などと一瞬思ったりもした。

 そして、認めたくないことだが、実際にこの消火器は役だった。
 およそあのセールスマンの言ったとおりの事故だった。情けないことに。
 あたしがぼおーっとしながら湯を沸かしている間に電話が鳴り、すっかり忘れ て長話をしているそのときに台所で上がった火の手を、この消化器はきちんと消 し止めてくれた。部屋の中に多少の焦げ臭さは残ったとはいえ、おおよそ無事に 済んだというのはまさにこの備えのおかげだったといえた。ただ、それが奴の言っ たように「特殊な消火器だった」ためかどうかは確認できなかった。そもそもあ たし自身、消火器を普段から使い慣れているわけではなかったので、あの消火力 が普通の消火器よりも格段に上だったのかどうか、よくわからなかった。件の使 い終わった消火器を強引に分解してみても、中身は空なだけだった。
 しかし、これは些細なことなのだろう。
 結局、あたしはかなりお得な買い物をしたことになる。実際に事故は防げたの だから。おかげで、あたしの人生は山のような借金および鬼のような借金取りか ら逃れることができたわけだ。これだけでも十分に感謝すべきかも知れない。
 そう、事故は起こらなくなってしまったのだ。
 したがって、本来であれば、あのセールスマンの所属していた未来を変更して しまったわけだが、しかし、彼自身の時間軸では矛盾は存在していない。だから 問題はないのだ。そうだ。
 なんだか、だまされているような気がする。
 そして、今でもあたしは考える。
 あのセールスマンは、あたしに消火器を売りつけたことで自分の存在していた 未来を変えてしまった。とはいえ、あのセールスマン自体はそのことで何ら損を していない。“彼の時間軸”においては、もうすでにあたしに消化器を売りつけ たあとだからだ。
 彼は、そうしたことを繰り返し、起こりうる事故を防ぐという名目で、そして 実際にその役に立つ商品を売りさばいていくのだ。じわじわと過去に戻りながら。 そして、彼自身の内的時間軸だけは未来に進みながら。
 その意味では、あの男は誰からも恨まれる筋合いはない。ただ、彼のタイムマ シンは過去に戻ることしかできない、という点だけが問題なのだが、その点につ いては彼自身があまり気にしていなさそうなので、まあどうでも良いことなのだ ろう。
 個人的には、決して自分の未来に後戻りのできないあの男が、稼いだその金を 最後にどこでどうやって使うことができるのか、その点だけが少し気になった。 が、それは彼の問題であって、抜け目のないセールスマンとしては、それなりに いろいろと考えているんじゃないかしら、とあたしは思った。


<完>


初出 静岡大学SF研究会浜松支部部内誌「SFR」Summer ver.2.0 (2007) 
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