Illustrated by 原 裕介


○ベースボールに要するもの  は凡そ千坪ばかりの平坦なる地面(芝生ならなお善し)皮にて包みたる小球(直径二寸ばかりにして中は護謨、糸の類にて充実したるもの)投手が投げたる球を打つべき木の棒(長さ四尺ばかりにして先の方やや太く手にて持つ処やや細きもの)一尺四方ばかりの荒布にて座布団の如く拵へたる基及び投手の位置に置くべき鉄板様の物一個づつ、攫者の後方にて張りて球を遮るべき網(高さ一間半、幅二、三間位)競技者十八人(九人づつ敵味方に分るるもの)審判者一人、幹事一人(勝負を記すもの)等なり。

 — 正岡子規 『松蘿玉液』 —


 俺は野球が好きだ。
 子供のころからボールとバットとグローブは俺の宝物だったし、学校と名のつくところに通ってきたこれまで、ひたすら野球だけをやっていた。いわゆるお勉強も含めて、他のことはほとんどしてこなかった。そんなことはする気もなく、かりにその気はあったとしても暇などなかったからだ。とくに「スポーツ精神」とか「正々堂々」とか、そういったものを好んでいたわけでもない。野球がおもしろかったし、他のことはおもしろくなかった。面白くないことは全くしなかった。ただそれだけの話だ。そうして、それだけのことをしたある意味当然の結果として、俺は野球が他人よりもうまくなり、あの「夏の選抜野球甲子園大会」に出場、みごとチームを優勝に導いた。
 高校生のくせに野球目的で体を半分改造している連中が多い中で、俺は一応生身の体でついていけるし、合法的なドーピングをすれば連中も驚く180キロほどのスピードで投げられる。プロからのスカウトが引っ切りなしに俺のところにやってくる。取材に時間も取られるし、顔を知られているせいか、ファンレターもそれなりに来る。
 しかし、そんなことはどうでもいい。
 問題は、そもそも野球とは何か、というところにあった。
 俺らしくない悩みだとは思う。
 いまさらあらためて考えてみるのも何なのだが、果たして『野球』とはなんだろうか。
 俺は哲学者とかそういうたぐいのものではないから、何も好き好んでこんなことを考えているわけではない。言葉あそびをしているつもりもない。ただ、俺が今投げ込まれている状況が、どうしてもそれを考えることを強要しているだけなのだ。
 俺は今、顕微鏡を覗きこみながら、自分の置かれた立場をぼんやりと考えている。
 なんというのか、つまりこんな感じなのだ。
 唐突に、野球をまったく知らない相手に野球のルールを説明せよ、と言われたら、君ならまずどこから始めるだろうか。しかも、その場で実際にプレイすることはできない、という状況だ。そう、もちろん相手によるだろう。相手が他の似たようなスポーツ、例えばクリケットなんかを知っているとするなら話は早い(今となってはこのスポーツを知っているほうがめずらしい気もするが)。あるいは、せめて棒や球を使ったスポーツ、つまりホッケーやテニスなんかを知っていてくれると、心のなぐさめにはなる。とりあえず、相手には俺達で言うところの手とか足とか、まあそれに類するものがあって、それをとりあえずは意のままに動かすことができるのだ、ということがわかるからだ。
 もっと引いてゆくと、その相手と同じような文化を持っている、その相手と言葉が通じ、相手の性質がある程度分っている、などの前提のもとにはじめて説明というものは成立する。そもそも言葉が通じない相手に野球のルールの説明をする、というのはなかなかやりにくいに違いない。不可能ではないだろうけれど、きっと大変だ。もちろん、これは野球に限った話ではなく、この世の中で暮らす上でいろいろなことにあてはまるんじゃないかという気がする。
 だが、例えば“自分との共通点がまるでない相手”に対して、そもそも何かを伝える、ということが可能なのだろうか。もしできたように思えたにしても、ひょっとすると、どこかにとんでもない誤解が潜んでいない、とは言えないのではなかろうか。たとえ、両者が互いの共通点と相違点を認識している、という合意が得られていたとしても、だ。そういった場合に、いったい何をもって『野球』のルールを伝えたことになるのか。本当に見知らぬ相手と『野球』ができるのか。
 ここまで読んで、こいつは少しナイーブなやつだ、と思ったかもしれない。確かに、一見野球をやる上ではどうでもいいことに対して妙に深刻すぎるように思えるだろう。実は俺もそう思う。
 だが、この瞬間、俺は、いや俺たち全員が、本気で悩んでいた。
 俺たちはこの相手とどうやって『野球』をするのだろうか。
 俺たちの相手は、気密シャーレの中にいる、微生物型の宇宙生物だった。


 事の起こりはこういうことだ。
 宇宙に進出した人類が、はるか離れた星系に住むようになり、そこで種々の異星人に出会った、と思ってほしい。大方の予想通り、はじめのうちはすったもんだがいろいろとあったが、そのうち互いになんとか仲良くなった。そうして長い間時間が経つうちに、お互いにいろいろと『文化』などを伝え合った、としてみよう。さらにたまたまその中に「スポーツ」という概念があり、さらにその中の一分野として『野球』というものがあったわけだ。
 むろん随分と省略しているのだけれど、まあおおよそはこんな感じだと理解して欲しい。
 問題はここからだ。
 どうしたわけか、その『野球』は星々を越えて広まった。伝えられた相手はまた自分たちの仲間にルールを伝えていったから、『野球』は知られている宇宙の隅々にまで数千年以上かかって広まっていった。人類にとって意外なほど、この『野球』というスポーツは宇宙的に見て受けがよかったらしい。まずルールブックが各星の各語に翻訳され、親善試合が行なわれた。そこここで各種大会が催され、ところによってはプロ組織まで作られている。つまり、野球文化は文字通りユニバーサル化した、といってもよかったのだろう。
 さて、俺の国には地域の(俺の母国語でしか印刷していない、という意味)新聞社が主催している地域の野球大会、君もご存じの、いわゆる「甲子園大会」と呼ばれているものがある。俺たちの地域では比較的有名なものだが、宇宙的規模で見ればしょせんは極めてローカルなねたでしかない。だが、何をどう勘違いしたのか、まさにそこが野球の発祥の地である、という誤解が宇宙レベルで大きく広まっていた。どこかの星系のいい加減な地球文化紹介パンフレットがその根源らしいが、もうすでに千年も前に頒布されたものらしいから、いまさらどうしようもない。千年かかって広まっていった誤解だ。誤解を解こうとしても同じくらいかかる。つまり、野球が知られているほとんどの地域でそういったデマが広がっていた。『コウシエン』という単語が『野球』と置き替っていた地域もあるくらいだ。
 そうして最近(といっても百年ほど前)になって、どういう運びか、宇宙規模の高校生野球大会をこの「野球発祥の地」甲子園で行なおう、ということになったのだそうだ。
 えらい誤解だが、まあ、やることに決まった以上しかたがない。ともかく、各星域の高校生(あるいはそれに匹敵するような教育段階の、という程度の意味だろう)代表を地球に招いて、一番を決めてみよう、とまあ、簡単にいえばそういうことになった。で、五十年かかって各星域とのコンタクトが取れ、もう五十年かかって第一回大会の開催にこぎつけた。このあたりもそこそこ端折ってあるわけだが、問題の本筋には関係がないのでこれ以上は触れない。
 ここまでがあらすじだ。
 なるほど、ここまでの話を聞くと単純にきこえる。しかし、だ。いろいろあろうが、何といっても相手が「野球」というものをどのように認識して、そして実行しているのか、というあたりがそもそもの問題になるのは間違いない。
 ご存じの通り、宇宙には様々な生命形態があり、野球という行為が実行可能な存在と不可能な存在とがあるだろう。また、仮に実行可能な存在であっても、果たして俺たちのいう「野球」と同じことをしているのか、というところが大切なポイントになる。2次元平面に広がった『グラウンド』という概念は浮遊型の生命体には理解困難らしいし、そもそも『味方』と『敵』という区別(これは俺たち人類が思っているほど普遍的な概念ではないらしい)を行える存在は、各個体の間ですばやい情報交換のできない『個別生物』であることが前提となる。物理的にも「ボール」とか「バット」とか、そういうものの存在からして怪しくなってくる。
 しかし、この点については、ある程度ローカルルールを擦りあわせることで何とか試合という形式を取ることが可能なのではないだろうか、というのが主催者側の言い分だった。
 気分的には言いたいことはわからなくもない。試合の組合わせ、審判などは全て中央のどでかいコンピュータが立案、実行、制御してくれるらしい。その点は俺たちは気にすることなく試合に集中できる。主催者はそう言っていたはずだ。
 だが、そもそもここに問題がないだろうか、と俺は思うのだ。
 今回の方針は「全て各星域での明文化されたルールを命題化して叩き込んで、対戦する二者のルールの矛盾を最小限のものにすりあわせてゆく」とかいうことらしい。要するに、二つのルールブックを足してから二で割る、といったようなものだと監督は言っていた。
 しかしコンピュータには身体がなく、実際に野球をやったことがない。やつは何か大きな勘違いをしていないだろうか。
 どうも俺は疑い深いのかもしれない。でも、気になることはこの際言っておいたほうが良いのだろう。
 俺の不安というのは、こんなものだ。
 例えば、元々ラグビーはサッカーで興奮したプレーヤーが手でボールをつかんで走り出したのがそもそものはじめ、ということを聞いたことがある。それを思うと、そもそも何かのスポーツのはっきりした「ルール」というやつは、身体の運動が伴ったあとであらためて説明のために作成されることが多いのではないか、と思える。だから、そもそも「ルール」を主体にして野球をしよう、というところがそもそもおかしいのではないか、という気がしてならないのだ。おまけに、単にルールを文章で伝えただけで野球ができるようになるとは、俺には到底思えない。空手の参考書を読んだところで黒帯になれるわけではないのと同じことだ、とでも言えばわかってもらえるだろう。
 これから俺たちが対戦するところの、この微生物的な高校生の方々 ---- 俺たちの言いかたで「かみのけ座」のあたりからはるばるお越しいただいたらしいのだが ---- にとって『野球』とは何だろう、と思うのだ。
 今この瞬間の俺の立場に立ったとしたら、誰でもここまで長々とこう考えて来ざるを得ないんじゃなかろうか。
 彼らは顕微鏡の視野の中で活発に練習をしていた。形態は地球でいうぞうり虫に似ている。これがまだみじんこ的なものであれば腕もあり目もあり顔もあるのだろうが、ぞうり虫ではいかんともしがたい。だが、よく見てみると彼らのプレイはそれなりによく、動きもよく、判断もすばやく、うまく球に追い付いていた。足も早く、肩もよく、いや、どこが足とか肩とかは明確ではないが、ともかく俺たちでいえばきっとそういうふうに評価するのだろう、と思うようなあたりがうまかった。
 しかし、だ。上手下手はともかく、そもそもこのスケールの違いをどうするつもりでいるのだろう。
 俺は他の八人と共に真夏の日ざしの下、甲子園球場の真ん中に設営された巨大顕微鏡を覗き込みながら、ずっとそんなことを考えていた。
 観衆は五万人以上入っている。こんな試合を見に来るとは暇なやつも多い。そして、こんな試合を真面目に受けて、グラウンドにつっ立って顕微鏡を覗いている俺達はきっとまぬけなんだろう。
 やがてルールが届いた。不正行為を予防する都合により(と主催者は言っていたが)ルールは試合直前まで明らかにされない。これはつらかったが、今回は驚いたことに俺たちのルールとほとんど同じだった。やがてチームに審判から電子スーツとゴーグルが渡され、俺たちはやっと納得がいった。要するに実際の対戦はできないので、仮想球場で互いを等身大に補正して戦うわけだ。そういうことなら話は早い。
 俺たちは皆、仮想甲子園球場におり、相手は等身大のぞうり虫だった。それなりに気色悪いとはいえ、ルール的には問題はなかった。等身大に補正されるとこちらの動きが相対的に鈍くなり、少々不利になったようだが、俺たちにも甲子園優勝校としての意地があった。相手の球が存外遅い(繊毛ではそれほど早く球を投げることができない)ところをついて終盤に集中打を浴びせ、5対0で完封した。
 こういうことなら話も早いのではないか。
 そう思った俺が甘いと悟ったのは、早くも次の二回戦だった。


 二回戦は、意外なことに俺たちと同じ人類だった。スケールも同じだ。
 これはやりやすい、と思っていたが、球場に入って彼らの練習を見て俺たちはたまげた。テニスラケットを持っている。そうして、守るも打つも、全てそのラケットでこなしている。ラケットで打ち込んでくるピッチャーの球は、比較的遅いものでもおそらく時速170キロ以上ある。まじめに打ち込めば200キロ以上出かねないだろう。守備の球回しも異常に早い。それはそうだ。全てラケットでボレーで回しているのだから、タイムロスがない。とにかく器用なやつらだった。ラケットで打たれる球はスピンをかけるのも自由自在で、おまけにコントロールもたやすいときている。守備の間を狙われては守るのも難しい。俺たちは戦慄した。
 しかし、いざ試合が始まると、意外な事実が判明した。連中には長打力がないのだ。普段使っている球が地球で言うところの公式テニスのそれらしく、野球の硬球など打ったことがなかったらしい。外野の間を抜かれることはなかった。スピンも慣れてしまえばある程度処理できるものだし、おまけに相手のピッチャーは何と二球続けてストライクが入らないと「ダブルフォルト」を取られてこちらに1点が入ってしまうのである。こちらは1球ストライクを取られるとそれが「エース」となってアウトになるのだが、それでも下手に打つよりもこの方が効率がいい。俺たちは特にバットに球を当てる努力をせずに、ストライクゾーンを狭くすることで得点を重ね、結局6—5、6—3、6—1で2回戦をものにした。


 三回戦はもう少しやっかいだった。今回も人類相手だったが、今度のルールはボーリングとの混成ルールだった。ストライクゾーにピンが九本置いてあり、投手がそれめがけて巨大なボールを転がし、それを倒した数で守備側に点数が入る。一撃で全部倒すとストライクアウトになり、得点がさらに加算される。なぜに守備側に得点が入るのか、そこのところはよくわからないのだが、ともかくごろごろと音をたててころがる重いボールを、俺たちは何とかしてバットで弾き返し、遅い送球を頼みに必死に一塁まで走る、という行為を繰り返した。投手の俺の方はいつもと同様のボールでピッチングをしていたが、相手は球が早くて小さくてまるでついてこれなかったようだ。何だかかわいそうになったが、ルールでこうなったからにはしかたがない。
 ということで、三回戦も154対88で快勝した。

 四回戦は、意外なことにまともな野球のルールだった。相手は俺たちの感覚でいうと昆虫的な外見をもっていて、スケールもほとんど同じといってよかった。空を飛ぶので、フライ性のあたりは皆、ホームランボールも含めてどれもアウトにされてしまう。グラブを四本ある腕のうち三本にはめ、動きもすばやい。これは本質的に侮りがたい、と皆が感じていた。
 予想通りの苦戦となった。中盤まで2対0で負けていた俺たちだったが、ともかくフライは打たない、徹底的に地面に叩きつけることを心掛ける、相手は足下のゴロが比較的苦手、というあたりを追及し、さらに相手が実は普段かなりの低重力下で生活しているらしいことを察知し、試合を意図的に長引かせることでスタミナ切れを待った。結果として何とか9回裏にサヨナラ逆転、3対2で辛勝した。


 俺たちの対戦状況だけを伝えているが、他のところも似たようなものだった。岩石状珪素生命体対野球人工知能プログラム(何とこのチームは98球で先手が必ず2点差で勝つ、という必勝アルゴリズムを見いだしたのだそうだ)、プラズマ生命体対植物生命体、など得体の知れない対戦が行なわれていたが、そもそもどういうルールで対戦したのかも、その結果も俺には興味がなかった。
 しかし、甲子園の記事の片隅に、常に『不戦勝』という見出しで常にあるチームの名が小さく書いてあった。誰も注意していなかったようだったが、俺はどうもそれが気になってしかたがなかった。


 準々決勝の相手は目に見えなかった。
 グラウンド上には、俺たちと審判のロボットの他には何者も存在していないように見えた。ただ、なんとなく蜃気楼のような漠然とした揺らぎがあたりにいくつかうかがえた。それが俺たちの対戦相手だ、ということらしかった。
 彼らは気体状の生命体らしく、形をもたず、また可視光線は全て透過させていたのでまるで姿は見えなかった。「高校生らしくユニホームを着てもらいたい」と監督はよくわからない抗議をしていたが、それも無理な話だろうと俺は思った。
 野球のプレイは、基本的に風を操る忍者のようなものだといってもよかった。ボールがマウンド上でフワリと浮び上がり、加速しながらストライクゾーンに向かってくる。これはなかなか迫力がある。何といっても、マウンドからホームベースまで全てが加速のための助走路になる。はじめの速度に合わせてゆっくり構えていると、目の前を通る球に完全に振り遅れる。手元で伸びる、なんてものじゃない。ストライクゾーンの中でもまだ加速しているような気すらした。速度それ自体はそれほど速くはないのかもしれないのだが、まるでタイミングが取れない。おまけに変化も自由自在、という感じでこれまたやっかいだ。こちらが打ち上げた球は、どこに打とうといつのまにやら勢いが止まり、逆風に吹かれるように静止してしまう。こうなるとアウトになる。実にやりにくい。
 しかたがないので、何とかバットをボールに当て、ゴロ狙いでひたすら地面にボールを叩きつけた。送球そのものは(短い距離の場合には)比較的遅いので、ともかくこせこせと短打だけをつないで塁に出ることを心掛けた。また、相手はこちらの球の速度についてくることが難しい(あちらも同様の理由でタイミングが取りにくく、ストライクゾーンだけで俺の球を風圧で押して打ち返すことは大変だった)という点を利用し、かろうじて相手の打線を押さえ、結局1対0の近差で逃げ切った。
 試合終了後の挨拶の時に握手をしたのだが、まるで手ごたえはなかった。本当に俺たちは何かと闘っていたのか、どうも自信がなくなっていた。


 準決勝が一番たちが悪かった。
 何でこいつらがここまで残っているのか、そのあたりがそもそも疑問なのだが、とにかく、この連中はまるで野球を知らなかった。いや、「知って」はいるのだが、少なくとも野球をスポーツとして楽しんだことはないらしい。つまり、準決勝は、野球ルールについてのクイズ大会になっていたのだ。
 普通の野球は連中にとってあまりに不利だ、とコンピュータが判断したためか、完全に連中のルールで話が進められていた。これには参った。第一、俺たちのように「実際に」野球をやっているプレーヤーは、ゲームのルールをいちいち意識に上らせたりしない。バッターボックスに立つたびに「野球とは、相手投手の投げる球をバットにおいて打撃し、それによって相手チームの守備を擦り抜け、安全地帯であるベースを経由しながらホームベースまで生還することで点を取るスポーツである」とか「守備側に立った場合には、相手の打者のバットに球を当てられないように、かつ一定のストライクゾーンを通過するように球を投げるよう心掛ける」などと逐一考えながらプレイしているわけではない。ことスポーツに関しては、体が先に動くものだ。基本的にこのへんもルールと同じわけだから、知識や言葉なぞあとから形式的に付属してくるものに過ぎない。そういう体の動かしかたも知識といえば知識なのだろうが、いわゆる頭の中のそれとは異なっていることは確かだ。おまけに技能的に巧くなるほど言葉はいらなくなるものでもある。
 試合はポイントの取合いになった。
 俺たちが意外に善戦したのは、何のことはない、試合のルールは連中のものだったが、問題は俺たちのものだったからだ。つまり、実戦を経験していないとわからない点というのはいくらでもある。連中のこれまで答えたことのないような実戦状況での判断の問題などが多く出され、その点で俺たちはうまくかせいだ。もちろんそれ以外の問題では、俺たちが回らない頭であたふた考えている間に連中が正答していることがほとんどだったから、かなりの接戦になった。
 延長15回、俺のかけたヤマカン早押しの一押しがサヨナラ逆転満塁の一問となって36ポイント対35ポイント、というところでようやくけりをつけた。
 俺は、自分達がいったい何をやってるのかよくわからなくなっていた。


 決勝戦の早朝、俺たちは奇妙なもの音で目を覚ました。腹の底に響く、低い、重い音だった。とてつもなく質量のある何かが、宿舎の比較的近くをゆっくりと移動していたようだった。
 もっとも、俺たちはいまさらそんなことを気にしてはいなかった。いいかげん疲れもピークに達していたし、ともかく今日の試合が終われば、この馬鹿げた大会からおさらばできる。おまけに、その肝心な相手は、どういうわけか全て不戦勝で勝ち進んできたらしく、その程度の「運」だけではいあがってきたような相手を誰も気にもしていなかった。
 だが、俺はその不戦勝の理由が見えないことがなんとなく不安だった。全ての試合を相手が放棄している不戦勝であるからには、必ず何かその理由があるはずだ。とは言うものの、この長くばかばかしい闘いに、俺自身も「もーどーでもいいや」的な気分になりつつあったので、それ以上のことは考えなかった。多分、監督も関係者も含めて誰も何も考えなかったのだろう。
 甲子園球場に近付くにつれ、何か爆音のようなものが一定の間をおいて聞こえてきた。しかし、俺たちは皆疲れていたし、どうせ何かの工事だろうと考えて気にもしていなかった。遠くから見て、球場の一部がどうも壊れているようだ、という意見は「気のせい」ということで相手にされなかった。
 甲子園に近付き、それが球場の中からしている音だ、と気がついた時、俺たちはようやく何かがおかしいことに気がついた。明け方聞いた音と同じ重低音と、そして間欠的に響く爆音。これはいったい何なのだろう。球場に入ると、その音は耐えがたいほど大きくなり、俺たちは耳をふさいで控え室に入った。そして、ベンチに出ていったときに俺たちは皆一様に叫んだ。
 これでは不戦勝になるのは当然ではないか。
 これは本当に「高校生」なのか。これは「野球」ができるのか。こいつにとって「野球」とは何なのだ。
 しかし、ここまで来てしまった俺たちにもはや逃げる道はなかった。何といっても、これは記念すべき第一回全宇宙選抜高等教育段階野球選手権甲子園大会の「決勝戦」なのだ。
 ナインの誰かがつぶやいた。
「---- つらい闘いになりそうだな」
 それに関しては、俺も心から賛成した。
 マウンドの上では、小山のような重戦車が一台、その長い砲身をホームプレートに向けて投球練習を行なっていた。


<完>


初出 筑波大学SF研究会アルビレオ部内誌 Hotline??(1988?)
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