海である。
 辺り一面が海である。
 海ばかりである。
 他に芸はないのか、とあなたは言いたくなるが、しかしどうにもならない。
 見上げれば、空である。
 辺り一面が空である。
 空ばかりである。
 こちらにも雲の一つとしてなく、概していい天気、という状態にあるのだとわかる。
 あなたは水面にぷかぷかと浮いたまま、じっとしている。
 することがない。
 一人で泳ぎに来たものの、どういうわけか海岸に人の姿はなく、仕方がなく一人でただ泳いでいた。しかしただ右に左に泳いでいるというのも、それだけのものだ。あなたは、もともと単に泳ぐということにはそれほどの面白みを見出さないタイプである。人々がいて、にぎやかに楽しくやっているその隅の方で自分も楽しむ、というのがあなたのスタイルだ。
 それは確かにこういう状態の方が静かではあるし、雰囲気として涼しいのかもしれないのだが、こうも活気がないとなんともいいようがない。一人でビーチパラソルを運び、組立式の寝椅子に寝転がっては見たものの、どうもよろしくない。仕方なくまた海の中に入り、今度はゴムボートなどで浮いていたりするものの、やはり状況に大きな変化はない。
 時折どこか遠くで何か低い音がしているが,しかしそれも気にしなければ気にもならない.
 のんきで結構な事だとあなたは思うのだが、それにしても何もなさ過ぎる。
 広い夏の空の中で、入道雲が濃い牛乳のように沸き上がっている。実にいい日だ。
 そして、あなたは何故か漠然と不満である。
 普段はあなたは喧騒の中にいる。回り中どこかしこで音がする、そんな世界で暮らしている。静かな世界にはあこがれていたはずだ。
 弁当を広げて食う。うまい。思っていたよりもずっとうまい。
 良いことだ、とあなたは思う。
 思いながらも、あなたは何か物足りない。
 夏の海、というものはこんなものだっただろうか。
 一体人々はどこに行ってしまったのだろう。
 今日は8月の半ばを少し過ぎたところで、まだ十分に暑い。いや、それどころか、とても暑い。普段あまり避暑などに行かないあなたをして、ずいぶん早起きをして、まだ道路の混まないうちに部屋を出発させたほど、ここしばらくの天候は強烈だった。
 それにしても、しかし、だ。
 あなたは奇妙に思う。
 もう午前10時を回った。
 人々が海岸にあふれてきてもいい頃だ。
 ふと思い出す。
 そう言えば、この弁当を買ったコンビニには人がいなかった。店の奥に声をかけても誰もおらず、仕方なしに、あなたは自分で弁当を温め、お金を置いて店を出た。
 まあ、午前4時半という時間が時間だったので、そういうこともあるのだろうか、となんとなく考えてはいたが、いま思い出すと少しおかしい気がする。
 確かに朝早く出たとはいえ、あまりに車に出会わなかったのではなかったか。
 対向車は幾つか見た。どれも強烈な速度であなたの後方に消えていった。道路が空いているからといってそんなに飛ばすこともないではないか、とあなたはむしろ速度を落としてのんびりとこの海岸目指して向かってきたはずだ。
 見回すと、海の家にも人影はない。
 自動販売機がひっそりと置いてあるだけだ。あなたは、先ほどそこでコーラを買った。
 波の音がする。
 それはそれで悪くはない。
 人々は、きっとどこかに避暑に行ってしまったんだ。
 あなたはそう思うことにする。
 波の音があたりにこだまする。
 どこか遠くで、サイレンのようなものが鳴っているような気もする。
 でも、それはきっと気のせいだろうとあなたは思う。なぜなら、今日はこんなにいい天気で、パラソルの下にいるのが心地好いからだ。
 気温は高いものの、からっと晴れ上がっているためか、それほど不快感はない。時折吹いてくる風もなかなかに心地好い。
 いい日ではないか。
 あなたは満足する。
 砂浜に寝ていると、相変わらずどうも微妙に何か響いてくる音がしているような気もする。
 それはとても低く、音と言うよりも振動のようだ。
 あらためて見渡すと、はるか遠く、水平線のあたりで何か煙のようなものが見える。
 振動もそのあたりから出ているようだ。
 何かが燃えている。
 とても小さい。だから、あなたには何が燃えているのかは見えない。
 見えないものはないものと同じだ。
 だからあなたはそれほど気にしていない。
 あなたにはあなたの夏がある。
 たとえ、世の中がどうなっていようと、今この瞬間において、あなたにはそれほどの関心はない。
 夏だからだ。そして自分は休暇を取っているからだ。
 そうしている間に,気温はますます上昇しつつあるようだ.
 ゆっくりと汗が流れてくる.
 そろそろ頃合だろう.
 あなたは,クーラーボックスからおもむろにビールを取り出す。ボックスには氷を一袋入れてある。おかげできりきりと冷えている。
 ありがたいことである、とあなたは思う。
 冷えたビールを喉の奥に送り込みながら,枝豆をつまむ.
 問題は何もない.
 そのはずだ.
「平和だよな」
 あらためて声に出してみる.
 突然,金属音が響きわたる.
 あなたの背後から,ジェット機のようなものが現れ,そして海の向こうに消えてゆく.
 その音が消えると,また世界はおだやかな波の音に包まれる.
 あなたの知っている戦争は,古びた白黒の写真の中にある.
 そうだ.あなたが生まれてからこのかた,戦争などと言うものはあなたの国にはなかった.それはもう,昔話なのであって,戦争などというものはすでに歴史の遺物なのだ.
 あなたはそう思っている.
 再び遠くから地響きのような音が聞こえてくる.
 ビールは相変わらず冷えている.
 空はいつものように青い.
 ビールが冷えていて,この空が,そして海が,世界が青い限り,戦争などという概念はあなたには無関連なのだろう.
 そう思いながら,あなたはしばし静かな海岸に佇んでいる.
 突然,あなたは自分の鼻の上に,何かがのっていることに気がつく.
 これはなんだろう.
 そうだ.
 これはサングラスだ.
 濃い青のガラスを使った,とても軽いサングラスだ.
 それに気がついた瞬間,あなたはそのサングラスを外すことができないことに気がつく.
 あなたの見るその青い世の中は,実際にはそのサングラスによって産み出されていたのだ.
 いつからこんなサングラスをしていたのか,あなたは覚えていない.もしかしたら,物心ついたときから,あなたはずっとこのサングラスをしていたのかもしれない.そんな気になりはじめる.
 そして,耳の奥に何かが入っていることにも気がつく.
 耳の奥深くに仕込まれていた耳栓.
 いつからこの耳栓をしていたのか.これも生まれたその時からあなたの耳に入っていたのではあるまいか.
 静かな青い世界に生きてきたあなたが,その真の世界の姿を体感するためには,このサングラスと耳栓を取らねばならない.
 だが,あなたには外すことができない.
 水平線上の黒い煙は少しずつ大きくなっているようだ.気のせいか,背後の道路には何かとても重いものが道を削りながら移動しているようにも思える.
 しかし,あなたは関係がない.
 あなたの眺める世界は相変わらず青く美しい.そして,心の奥から流れてくる潮騒は,何者にも代え難くさわやかなのだ.



<完>