草が鳴っている。
 乾いた音を立てている。
 足元から風が通り過ぎてゆく。
 冷たい風だ、とあなたは思う。
 夏の間のあれほどまでに繁茂していた草が、あっけなく季節とともに死んでゆく。わかっていることだとはいえ、なんとなく寂しいものだとあなたは感じる。わかってはいるのだ。だが、理解することは感情とは別なものらしい。
 あなたはしばし呆然と佇んでいる。
 足元を通り過ぎた風は、やがて遠く、見渡す限り広がるこの枯れ野原に消えてゆく。地平線がぼんやりと窺える。その地平線の彼方に、小さな幾何学的な稜線を持った黒い影が見えている。
 たった一つ残った建物。
 この距離からもまだ窺えるくらいなのだ。実際には相当大きなものなのに違いないとあなたは思う。あの建物だけは、夏や冬を何回過ごした後も、相変わらずあの場所に見えている。誰かが住んでいるのかもしれない、とは思うが、あなたはあえてそこまで出向くような危険を冒す気はない。
 さらにその向こう,ここから見える限り,あれは確かに,人,ないしそれに近い形をした何かが屹立したまま静止しているのも見えている.その存在も,あなたが見てきた限りでは,全く動く気配を見せたことはない.やはり同じように巨大なもののように思える.
 その人のようなものが何なのか,あなたには気になる.
 風の中,用心深くすみかから頭だけを出しながら,あなたはじっとそちらの方を窺っている.
 もうどれだけの間こうしてそちらの方を見渡しただろうか.
 何年にもわたって変化というものが見えたためしがない.
 常に,あの巨人(そう呼んでよければだが)は固まった姿勢のまま,動かない.もしかすれば死んでいるのか,あるいはもともと動く機能を持たない存在なのかもしれないとあなたは考える.
 その一方で,あなたはあれが動いていた姿を遠い昔見たような気がしている.
 それは,あまりにぼんやりしており,あなたがそう考えただけの空想と,あなた自身が区別がつかない.
 風が吹く.
 あたりを撫でつけてゆく風だけが,動きの全てである.
 いずれの物体も,あなたの日常からはとても遠い.だから,あなたはそれを気にしなくともよいのだ.そうわかっている.しかし,あなたにはなぜかそれが気になって仕方がない.
 あれはなんだろうか.
 これまでずっとあなたはそれが気になって来た.そして,それを探求することに対して,なぜか恐れを抱いて来た.
 なぜかわからない.しかし,それに近づくことを妨げる何かがある.
 それは,目に見える何かではなく,あなた自身の中にある壁のようなものだということに,最近は少しづつ気がついている.
 頭を少し上げて,辺りを見回してみる.
 枯れ果てた草以外に,見えるものはない.
 あなたがここに住んで以来,動くものは何も見たことがない.
 それでいながら,あなたは何かを恐れている.
 自分がいつこの穴に住みはじめていたのか,あなたは覚えていない.年齢という概念は失われて久しい.この穴に来る前に自分がどこで何をしていたのか,まるで自覚がない.ただ,あなたはできるだけ静かなこの場所にやって来て,時折穴の外を眺めながら,とりとめなく考えることを繰り返している.
 穴の中には,あなたの寝床がある.
 やわらかい,常にかすかに暖かい場所.そこに寝ている限り,安心があなたのものになる,そういう場所だ.
 寝床の周りには,管のようなものが縦横に通っている.それがなんであるのか,あなたは気にしたことがない.ただ,あなたはそれらを踏まないように,静かに寝床から出るようにしている.
 あなたの覚えていることは全てそこから始り,そこに帰着する.気が付いたときからそこに寝ていた.起きているのに飽きると,そこに横になり,蓋を閉める.それだけだ.
 そういえば,覚えている限り,食物というものをとったことがないのに,どうしてあなたは生きているのだろう.
 わからない.
 そうしたことを考えようとすると,あなたの心はどこか遠くの何かに触れようとする.そして,今ではその何かがもう存在しないので,あなたはもうそれ以上考えることができない.
 そんな気がする.
 昼だというのに薄暗い.
 空は一様に何かに覆われている.その色は何かいやなものをあなたに思い起こさせる.どこか遠くで,“夕暮れ”“血”という言葉がひらめく.しかし,それが何なのか,あなたにはよくわからない.
 遠くが見えるということは,光源がどこかにあるはずなのだが,それもわからない.
 寒いな.
 あなたは不意にそう思う.
 また寝た方がいいような気がする.
 長い間起きていてもいいことはないのかもしれない.
 前に起きたときには,世の中はもう少し明るかったような気もする.
 この次に目覚めるときには,世界はもっと薄暗くなっているのかもしれない.
 一体自分がどれだけ寝ているのか,あなたにはよくわからない.
 いつまで寝ていればいいのか,それもわからない.
 自分は何かをするべきではなかったのか.
 自分は何かをするためにここにいるのではなかったのか.
 突然,鈍い頭の奥から何か鋭いものが投げかけられる.
 私は誰だ.
 私は誰かであるはずだ.
 私は誰かであるべきだ.
 シッタータ、おりおなえ,あるいはあしゅらおう,といった言葉が不意にあなたの脳裏に閃く.
 それはなんなのだろうか.
 あなたは尻尾を丸めると、静かに眠りにつこうとする.
 仲間がいたはずだ.
 しかし、ずっと昔から一人でここに潜んできたあなたには、仲間というものが理解できない.
 彼らとどこで出会うことになるのか,仲間とはどんな存在なのか,それもあなたにはわからない.
 もしかすれば、すでに仲間は出発し,あなたは取り残されているのかもしれない.
 地表は静まり返り、時折風が吹きすぎてゆくだけだ.この滅びを誰がどこで見つめているのだろうか.
 それとも、敵も味方も、すでにここにはいないのかもしれない.
 あなたは夢の中で遠い星の上にいる仲間を見つめる.
 暗い夜空の下で,たったひとりで,崩れる砂のような大地の上に佇む、少女の形をした人影を見つめる.
 彼女がどこに行こうとしているのか,なにをしようとしているのか,あなたにはわからない.
 ただ,その澄んだ瞳に,長い道と、長い年月を、果てしなく長い歳月を見出している.そして、あなたは、終りのない闘いが未だに続いていること、そして自分が戦線を遠く離れていることを自覚する.
(中断)