あなたはふと目を覚ます.
 一瞬,自分がどこにいるのかわからなくなる.
 見慣れた闇が広がっている.
 あなたは自分の家に帰っているのだ.
 自分の家で,自分のふとんにくるまっているのだ.
 疲れていることがわかる.
 つい先程まで,夜更けの長い道のりを運転して帰ってきたばかりで,わが家のふとんの中にいても,まだ少し落ち着かない.それであんな夢を見たのだろうか.
 心の中に釈然としないものがあるような気がする.それが何なのか,それすらもぼんやりしている.
 隣で寝ている人物も目を覚ます.そしてあなたの方を眺める.汗をかいているようだ.
 相手はあなたをまじまじと見つめると,夢を見ていた,と言った.
 自分たちが,まだ車で我が家に向かっている途中で,運転している自分が居眠りをしている.車は左右に怪しく揺れているというのに,自分はどうしても眠くてしかたがない.微睡んでは目を覚まし,またぼんやりしてはあわてて意識をはっきりさせる.どこまで走っても我が家にはたどり着かず,延々と睡魔と闘いながら,もう明け方も近いと思われる濃紺の闇の中をさまよっている.そういう夢を見ていた.そう言った.
 だから,今こうしてあなたと一緒に暖かいふとんの中にくるまっていることが,とてもうれしく思えたのだ,と.
 あなたは部屋の天井の底を遠く眺めながら,こう言う.
 それはとても幸せなことだ,と.
 恐れていたことや,目前に迫った不幸が実はすべて夢だったのだ,という,そんな都合の良い解決は,実際にはめったに起こらないのだから.
 だから,そんな夢のような幸せは,深く考えずに楽しめばよいのだ.そうつぶやく.
 相手は再び眠りにつく.
 そして,あなたは考える.
 自分がさきほどまで見ていた夢は,果たしてなんだったのだろうか,と.
 たった今,あなたが聞いた夢と,ほとんど同じ内容だった.二人して同じ夢を見るほどまでに,夜中の長距離の運転は疲れたのだろうか.
 ただ,ドライバーがちがっていたのではないか.
 先程までずっと車を運転していたのは,実際には隣に眠っている人物ではなく,あなたのほうであったはずだ.
 お互いが,自分が車を運転していたと思っているのはどこかおかしいような気がする.
 不意に,あなたは,自分の家にたどり着いたという記憶が欠落していることに気がつく.
 いつの間に,このようなふとんに寝間着を着て眠っていたのか,まるで覚えていない.車を車庫に入れたのかどうかすら,ぼんやりしている.
 おかしい.
 先程から視界に重なる,ちらちらと目の前を行き過ぎてゆく光の列のようなものがなんなのか,それもわからないでいる.気になるのかならないのか,という低い単調な雑音はどこから来るのか.ふとんの中にあるはずの自分の両腕は,いったい何を握り締めているのか.
 わからないままに,あなたは漠然と焦燥を感じる.
 何かをしなくてはいけない.
 しかしあなたにはそれができない.だからこそ,そこがずっと気になっていたのだ.
 不意に視界が沈みこむ.
 闇の中に,自分の車のライトだけがそこだけ明るい世界を切り取っている.目まぐるしく輝いて流れる風景が,視野を左に,右にさまよう.あなたはあいまいな努力でそれを正すが,しかしそもそも世界それ自体が不可思議に震えていることにも気がつく.変化してゆく光と闇の交差する光景の中で,我が家だけがいつまでも遥かに遠い.
 力のはいらない腕で,あなたはハンドルを支えようと努力する.
 ふと見やると,誰もいないサイドシートがあなたを再びどこかにつれていこうとする.
 あの人がいてくれれば.一緒に,自分と一緒に.それだけでいいのに.たったそれだけでいいのに.それだけで,あとのことはどうなってもいいのに.
 そう思った瞬間,あなたはまた暖かいふとんの中にいる.
 そうだ.夢だったのだ.
 微かな光の中で,隣に寝ている人物の顔を眺める.穏やかな寝顔.
 あなたは心から幸せになる.
 そうだ.もう一緒にいるんじゃないか.
 これでいい.こうでなければならない.
 やがて,どこからか届く自分の声.足に力が入り,そして闇の裏側を貫くどこか別な世界の悲鳴.何かが何かにぶつかる衝撃.
 ちらりとした痛みのようなものを感じ取るが,もはやあなたには気にならない.
 やがて,世界が静寂を取り戻す.
 何一つ音がしなくなる.
 手も足も,どこか遠く微睡んでいる.
 もう落ち着いて眠ることができそうだとあなたは思う.
 きっと,車を運転する夢はもう二度と見ないのだろうと思う.
 幸せを手に入れる方法は,意外に簡単だった.
 愛しいその誰かの横顔を静かに見つめたまま,不思議に明けようとしない夜の底に,あなたはいつまでもいつまでも横たわっている.
 夢に終わりがあるとしたら,その時まで.



<完>
1999/07/10