あなたは森の中にいる。
 それほど深い森ではない。ちょっとした植林地の中に入って行ってみたら、意外に歩きやすかった。そこで、ハイキングコースを少し外れて、下草の生えていないところをのんびりと進むことにした。
 鳥の声が聞こえている。こういう声を意識して聞くのは久しぶりのことだ。
 仲間たちとは少し離れてしまったようだが、まあすぐに追い付くことができるだろう。仮にはぐれたとしても、大して大きな森ではない。あなたはそう思うと、もう少し深い緑の中に分け入ってみる。
 少し奥に入ったばかりだと言うのに、急に静かになってしまう。薄暗い。しかし不思議と恐怖は覚えない。
 そうだ。この静寂だ。
 あなたは街の小さな部屋に住んでいる。部屋の中では一人でいることが多い。しかし、本当は違う。それに気が付いた。
 あなたの部屋は単に壁で仕切られているだけであって、実際のところ、あなたの3メートル横には誰か他の人が存在している。上にも、下にも、同じことが言える。あなたはこれまでの間ずっと、決して一人にはなれなかったのだ。
 なぜここで落ち着くのか、あなたは納得する。
 一人になれた。
 仲間ももうずいぶん離れているだろう。人の気配もしない。半径100メートル以内には、人間は自分しかいない。誰もいないのだ。
 あなたは木の根元に座る。そこはまるで、あなたを待っていたかのように不思議にきれいで、適度に乾燥してすらいる。そこだけかすかに日が当たり、ほのかに暖かい。
 悪くないではないか.
 あなたは背中の木によりかかり,目を閉じてみる.
 静寂の中に,木々の葉が擦れる音が届いている.
 土の匂いがしているのにようやく気がつく.
 日の光は確実にあなたをとらえ,やわらかな熱を送ってくる.
 静かだと思えた森の中は,実は存外いろいろな刺激に満ちている.そして,それは不快ではない.
 しばらくそうしていると,ずいぶん遠くの鳥の声が聞こえているのに驚く.目を閉じたままであっても,どれほど遠くなのか,あなたには何となく分かりはじめている.  普段コンピュータの画面に向かってばかりいるあなたの世界は,いつのまにかとても小さくなっていたのかもしれない.
 それはそれで仕方のないことのようにも思える。
 あなたの仕事は存外に気を使うもので、結局は人間と人間の関係がうまく行くかどうかが問題となっている。その度毎にあくせくしては、人と人と間を取り持つのがいつのまにかあなたの仕事になっている。
 いつのまにか、そうなっていた。
 あなたがそういうことが得意だと、人々は思っているような気もする。
 でも、実際にはあなたには面倒なのだ。
 どうでもいい。
 子供じゃないんだから、実は誰と誰が仲が悪いとか、間に人を通した方がいいとか、一度は実際に顔を出しておけとか、一席用意しておくとか。
 本当にどうでもいいことだ。あなたは思う。
 仲が悪いなら喧嘩させておけばいい。
 お互いが損をしているだけだということに気がつくまで放っておくといい。
 自分の知ったことではない。
 日向に座りながら、あなたはそんなことを知らずのうちに反芻している。
 ふと、川の音が聞こえてくる。
 何だかつまらないことを考えていたものだ、と気がつく。
 森の中に座っているこの瞬間においては,そうしたことはまさにどうでもいいことであり,自分がするべきことは他にある.
 それは,こうしていろいろな音を聞いていることだ.
 風邪の立てる木々の音,川の水のたてる音,鳥の声,そうした音を聞いていると,普段自分が何を聞いているのか,何を聞いていなかったのか,よくわかってくる.
 聞くべきものはずいぶんとあったのに,聞こえてはいなかったのだ.
 あなたは,これまであなたのやりたいことをやってきてここまで来た.だから,別に悔いというものはない.自分のいる場所は常に自分で決めて来た.
 だから,本来自分のために自分が動いていたのであり,他人のことなど本質的 に無関係であったはずだ.
 それがいつの間にか,わずらわしいことに巻き込まれている.
 大人になったのだ,ということもあるのだろう.自分だけの面倒をみているだ けでは,なかなか気がつかないこともある.また,それはそれまで自分がどの程度他 人に世話になってきたのか,それを実感する良い経験でもある.
 が,それも程度の問題だ.
 最終的に自分の人生を決めるのは自分自身であって,他の誰かではない.それ は,自分自身にも,また他人にもあてはまる.
 せっかく生まれてきたのだから,やりたいことをやって,なりたいものになら なければ,死ぬときに後悔しそうだ.
 こんなあたり前のことに,どうして他人は気がつかないのだろうと,あなたは 思う.
 こうして陽のあたる森の中に座っていると,いろいろなものが生きていること を実感する.気がつくと,あなたの靴の上を蟻が通りすぎていったりする.不意 に視界に飛び込んでくる白いものは蝶だ.
  (中断)