暑い。
 あなたはどことも知れぬ町中を歩いている。
 なぜかスーツなどを着て、ネクタイなどを締めている。あなたは後悔しているが、仕方がないとも思っている。ともかく服装をきちんとしておかなければならない都合があるのだ。そういう事になっているのだろう。
 正午を少し過ぎたあたりで、不思議と人通りは少ない。
 日の光が容赦なくあなたに降り注ぎ、さすがのあなたも疲労の色を隠せない。建物の日陰を選んで歩き、その所々で荷物を置いて休みながら、これからどれだけ歩かねばならないのかをぼんやりと考える.
 ともかく強烈な暑さだ。
 直射日光を浴びていると、頭の温度がじりじりと上昇してゆくのがわかる。もうあまり物を考えられそうにない。何という日に予定を入れてしまったのか、自分を怨むが今更どうしようもない。しかし,その予定がなんだったのか,実は自分でも明白ではない.
 とにかくそこに行かねばならない.
 その思いだけがあなたを動かしている.
 この国の夏は暑い。
 重みを感じるような熱の下、あなたはどこまでも歩き続ける。
 真上から直射してくる日差しの下で,街を歩いている人間は影のように暗く沈んで見える.
 よく見ると,あるいている人々はどこに行くということもせず,右往左往しているように感じられる.歩いては立ち止まり,そしてまた別の方向に動きはじめてはまた止まる.
 信号は点滅を繰り返している.通りを行き交う車の動きもぎこちない.表面上は穏やかに時が過ぎている.しかし,どこかがおかしい.
 総じて,街が目的というものを見失っているように思える.
「そのとおりさ」
 不意に誰かがそうつぶやく。あなたは辺りを見回すが、誰もいない。
 誰だ。
 答えはない。
 気のせいなのかもしれない、とあなたは思う。この暑さであなたが参りかけていることはあなた自身が一番よくわかっている。しかし、休んでいる暇はない。間に合わないかもしれないからだ。
 バランスの崩れかけた背負った荷物を反射的に担ぎなおして、そしてあなたは愕然とする。
 何に間に合わないというのだ。
 わからない。
 一体、自分は何の目的でこの街を歩いているのか。
 思い出せない。
 この荷物は何だ。この服装は何だ。何のためのものだったんだ。
 「考えている暇はないだろう」
 そうだ、とあなたは思い直す。
 とにかく一歩でも先に進まなくてはいけない。
 このままでは間に合わない。
 それだけの想いがあなたをこの灼熱の中、先に進ませている。
 疲れている。疲労はあなたの内部に炎のようにはためき、淀み、流れ、霧のようにとけ,やがて再結晶してゆく。
 もはや暑さは外界の客観的な気温ではない。
 暑さはあなたの中にあり、あなた自身が暑さの概念と化している。
 ネクタイを取り去る。いつのまにか手に持っていたスーツは、気がつくとどこかに落としている。ぼんやりとしている意識の中で、それでも微かな日陰を選んで足を運ぶ自分にあなたは驚きを感じてもいる。
 たどり着かねばならない.
 それがどこなのか,あなたの意識には答えが上ってこない.しかしあなたは歩き続ける.
 そうしなければならないことがわかっているからだ.
 やがて,あなたは,ある高い建物の中に入ってゆく.
 建物の中も、どういうわけか外部に劣らず暑い。
 あなたの足音だけがホールに響いてゆく。
 エレベーターは動いていない。灯もついていない.だが、あなたには、そのことはもう入る前からわかっていたような気もする。
 あなたはまた自分の足でビルの上まで行かねばならない。
 階段の下で一瞬立ち止まると、上を眺める。
 あたりでは途方に暮れたような人々があなたを眺めている.
 彼らは床に座り込んだまま,何もしていない.
 きっと,何をしたらよいのか,わからないのだろうとあなたは思う.
 とりあえず,今のあなたにはしなければならないことがわかっている.
 このビルの一番上までたどり着くのだ.
 このビルがどの程度の高さなのか、あなたにはよくわからない。ただ、行き着けるところまで上っていかねばならないことがわかっている。なぜそんなことをわかっているのか、一瞬疑問に思いはするが、しかし躊躇している余裕はないのだと気がつく。
 あなたは、階段にむけて一歩を踏み出す。
 体が重い,とあなたは感じる.
 あらためて,背負った荷物は相当なものだということがわかる.
 そこから先は、延々と同じ作業のくり返しだ。右足を上に運び、そこに体重を移動させて体の残りの部分を持ち上げる。次に左足を同じように上に運び、体を移動させ、その勢いを利用してまた右足を上にのばす。崩れかける荷物を背負いなおす.
 長い時間が過ぎたような印象がある。
 どのくらいそうした行為を繰り返したのか、あなたにはもうわからなくなっている。ただ、暑さに加えて疲労が体の内部を埋めてゆくのを他人事のように感じている。
 階段は果てることなく存在し、そしてあなたはどこまでもその階段を上昇してゆく。
 暑い、とか,疲れた、という概念は消滅している。
 自分が上に向かってあがっているのかどうかすら、定かではない気がしている。
 上がる、という意識ももう消えている。
 ただ、あなたはそこにいて、足を動かしている。
 その結果として、たまたま上に上っている。
 たまたま下がっていたとしても、それは仕方ないことだ、とあなたはぼんやりと思う。
 不意に階段が終わる。
 一つの扉がそこにある。
 大きな扉だ。
 あなたは、昔この扉を見たことがある。
 確かにある気がする。
 それがいつだったのか,どこで見たのか,そういったことはよくわからない.
 しかし,この扉の奥が自分の目標であることはよくわかる.
 あなたは扉をノックする.
 返事はない.
 しばらくノックを続けるが,やはり返事はない.
 「納品に参りました」
 そう声に出してみる.
 すると,扉の奥で物音がする.
 扉が細く開いて,そこから何者かの目が覗く.
 「納品ですね」
 小さな声がする.女性の声のようだが,はっきりしない.
 「御注文の品をお持ちしました」
 背負っていた荷物をここで下ろす.
 荷物をドアの隙間から入れ,認め印をもらうと,ドアが閉まる.
 これで終わりだ.
 終りのはずだ.
 しかし,なにかが釈然としない.
 自分がここまで苦労して持ってきたあの物体が,果たして何なのか,それを知らないままに終えるのは何ともいえないではないか.
 あなたはしばらく躊躇する.
 やがて,あなたはもう一度ドアをノックする.
「すいません」
 返事はない.
「行くんだ」
 どこからか,不意に,例の声がする.
 しかし,その声を信じて良いものかどうか,あなたには判断しかねている.
 何回か声をかけるが,やはり返事はない.
 恐る恐るドアを開けると,そこには何も見えない.
 暗い.
 目が慣れてくると,かすかな熱と、小さな点が見えはじめる.
 暗い空間の所々に光る点が見える.まるで星のようだ.そして、空間それ自体が熱を帯びているように,顔が熱い.
 いや,これは宇宙空間そのものではないか,とあなたは気が付く.
 ドアを開けたあなたの目の前に,茫漠とした宇宙空間がどこまでも広がっている.
 そして,妙なことに,その宇宙空間は,ぼんやりと赤黒く、ゆるやかに波打っている.
 耳も目も,体で感じる感覚が,どこかに向かって広がっていく.
 一体,自分が何のためにドアを開けたのか,忘れかけてしまう.
 そうだ.あなたは自分が持って来たその荷物の正体を知るためにドアを開けたのではなかったか.
「これがその正体さ」
 あの声がする.
「君は君の存在している宇宙を運んで来たんだ」
 どういうことだろう,とあなたは思う.
「君の他には,この世界で目的をもって動いている存在はいなかった.君以外は,全て目的も無く存在し,ほとんど何の意志もなく偶然のままに動いていた.だが,不意に君が出現した.理由はさておくとして,目的をもって行動していた,唯一の存在だった.」
「君が存在することによって,これまで混沌としていた世界に,“可能性”が生じた.君が運んでいたのは,その“可能性”それ自身だった.方向性は定まらないが,現在ある何かが未来において異なった何かに変化しうるという,その運動性を秘めた世界,あるいは状態,あるいは存在.それは君自身でもあった.」
「ここにあるのは,その可能性の広がった世界だ.勝手なベクトルを与えられた世界は様々な形態に展開し,あるものはさらに展開を続け,あるものは別な状態に収束し,またあるものは実のところまったく変化しない.だが総じて世界はそうした様々な変化の様相を示すことになる.変化の経路はそのイベントの生起毎に亜種を産み,増殖する生命のようにそのバリエーションの指数的な増加が世界そのものを豊穣なものに変えてゆく.」
 あなたがこの荷物を運んでくる過程で通り過ぎた世界は,すでに行うべきことを行い,終わるべき状態に落着いていた.だから人々は何もすることがなく,ただ呆然としていたのだ.君の世界はすでに熱的死を迎えている.
 だから、あの世界はこれほどまでに抽象的に暑かったのかとあなたは理解する.
 しかし,あなたは叫ぶ.
「だが,この空間は閉じているではないか.我々の世界に対して何も働きかけることができないではないか.私が運んで来たのが可能性であるとしても,それは試験管の中の芽にすぎない.世界を変える原動力にはなり得ないではないか.」
 声が返ってくる.
「これから先は,ここが世界だ.君達が同様の試験管の中の世界に閉じこもっているのと同様に,これからはこの中が世界として機能しはじめる.そうした変転の繰り返しで世界は少しずつ先に進んで来たのだから」
 違う.とあなたは思う.たとえ自分達がこの声の言うとおり閉じられた世界の中に住んでいたとしても,それをもってして世界の限界としたり,あるいは自分達の崩壊を善しとして,さらに閉じられた世界に望みを託すようなことはしてはいけない.
 そう思いながら、あなたは思い出す.
 自分がこの世界に存在していたのも、そもそもこの外側の世界から、閉じられた世界を開放するために,飛び込んできたのではなかったのか.極度に集約されてしまった世界の可能性を,もう一度自分たちの手に取り戻すために潜ってきたのではなかったのか.
 しかも、それは一度や二度のことではなかったのではないか.
 あなたは,これまで自分の越えてきた長い道程をかすかに思い浮かべる.
 世界の中の、世界の中の、そのまた世界の中の.
 姿形を変え、あらゆる場所に存在したあなた自身のことを思いだす.
 そして、ここまで来るときの,街の途方もない暑さをちらりと感じ取る.
 声の主が何者であるのかはさておき、あなたをここまで導いたその声の意図するところも漠然と掴む.
 既に、声の気配は消えている.
 あなたは熱い宇宙の縁に静かに佇む.
 部屋の中で揺らめく空間はどこまでも広がり、事象のまたたきがあちらこちらで輝いている.
 一瞬だけ扉を振り返る.
 そして、あなたは、波打つ可能性の炎の中に一人飛び込んでゆく.



<完>
1999/12/04