辺り一面に菜の花が咲いている。
 どこまで歩いても、菜の花が咲いている。
 あなたは随分歩き通したと思っている。しかしいつまで経ってもこの草原から抜け出すことができない。
 ちょっとした近道をするだけのつもりだった。少し離れた友人の家に歩いて出かけるときに、いつもこの小山を大きく回って歩かねばならなかった。それがあなたには何とも面倒に思われた。そこで、今日は天気もいいことであるし、この丘を越えて直接歩いて行って見ようと考えた。ものの数分もあれば通り抜けてしまうだろう。あなたはそう思っていた。
 それが、いつまでもいつまでも菜の花が咲いている。
 歩きはじめてから、30分以上経過している。約束の時間に間に合うのか、あなたはやや不安になりはじめている
 あたりは一面の菜の花で、どういうわけか他の草は見当たらない。本当にどちらを向いても明るい黄金の花が咲いている。
 あなたは、自分がどの方向に向かって歩いているのか、自信がなくなっている事に気がつく。
 どちらを向いても同じなのだ。太陽も、ちょうど中天をさしたままで動いていないかのように見える。そして景色はどこまでも菜の花だ。
 暖かい。
 迷いながらも,あなたは少し嬉しくなる。
 長い冬だった。
 やっと暖かくなってきたのだ。
 そう思うと、少しくらい遅れても、きっと相手は許してくれるのではないか、という気がしてくる。何事もいい方に考えたいものだ。
 おみやげの甘いものも、お茶の時間に間に合えばよいだろう。
 そう思うと、あなたは気楽になる。急いでいた足も、自然に緩くなる。
 鳥の声がする。
 いい天気ではないか。
 あなたはあらためてそう思う。
 友人を訪ねるのも久しぶりだ。
 この前誰かと会ったのはいつのことだったろうか。
 思い出せない。
 もうずいぶん昔のことのような気がする。
 誰と会ったのが最後だったのかも思い出せない。
 それほどまでに昔だったのか。どれほど前のことだったと言うのか。
 そういうことを思い出しても、なににもならないだろう。
 あなたはそう思うことにする。
 歩いているうちに、上り坂は終り、平坦なところに出た。
 ここまでくれば、もう少しではないかと思える。
 振り向けば、菜の花がどこまでも斜面の下の方に向かって生えていて、そしてそれだけではなく、はるかな遠景の山々まで覆い尽くしている。
 世界は一色で埋め尽くされている。
 あなたは,ようやく何かが奇妙なことに気が付く.
 この丘はこんなに広くはないはずだ.
 自分はどこにいるのだ.
 これはなんだ。
 これは本当に菜の花なのだろうか。
 そして,ここはどこだ.
 今はいつなのだ.
 突き刺すようにまばゆく輝く風景の中で、あなたは一人立ちすくむ。
 遠くからやってくる風が、世界を幻のように揺らめかせる。
 あなたの輪郭は、光の中で溶けはじめる。
 何者かがあなたの耳元でつぶやく.
「これが春なのさ」
 その声をあなたは以前どこかで聞いたことがあるような気がする.
 今日訪ねるはずの友人というのは,いったい誰のことだっただろうか.
 そもそも自分に訪ねるべき友人などいたのだろうか.
 長い長い冬の間,自分はたった一人で白い世界の中にうずくまっていた.あなたはそのことをよく覚えている.
 生まれてからずっと,あなたの世界は冬だったような気もしている.
 いや,違う.あなたは不意に思い出す.
 たった一度だけ,夢を見たような気がする.
 微かな,遠い夢.
 あれは何だったのだろう,とあなたは思い出そうとする..
 そうだ.こんな,黄色の菜の花にかこまれて,あなたは誰かと一緒に過ごしていた.相手の顔と輪郭を漠然と覚えている.しかし,それがどんな人物であったのかを思い出そうとすると,あなたにはもうわからない.
 何か悲しい思い出があるような気もする.
「だから,思い出してはいけないんだ」
 あなたの耳元で,また誰かがささやく.
 菜の花.
 いちめんの菜の花.
 いちめんの菜の花.
 ゆれる世界.
 いちめんの菜の花.
 なつかしい,だれかの面影.
 大切だったはずの,その人.
 それはだれ.
 わからない.
「思い出したくないので,君はここを通ったのだろう」
 そうかもしれない.
 そうなのかもしれない.
 その人の部屋にたどり着いてはいけないのだ.
 なぜなら.
  なぜなら.
   なぜなら.
 そんな場所は存在していないから.
 これは,長い冬の間に,あなたが見続けている夢なのだから.
 この,どこともしれぬ世界の中で,あなたが紡いでいた孤独な夢なのだから.
 夢の中に夢を重ねて,すでに自分がどこに位置しているのかすら分からなくなっているあなたの一人の世界.
 そのことを,今あなたははっきりと思い出す.そして,自分自身の声によってそのことを思い出さなければならなかった理由もわかりはじめる.
 一人きりになるはずの夢の中で,他人の存在を求めはじめた以上,この夢はもう終わりなのだ.また新しい夢を紡がなければいけないのだ.
 静かな夢を.
 一人きりの夢を.
 輝く黄色一色に染まる視野の中で,あなたは自分の叫びと,そして世界そのものが,どこともしれない彼方に吸い込まれていくのを眺める.


 あなたの暖かい夢の外側で,冬が静かに続いている.



<完>