空が飛べるようになったからといって,何が変わるわけでもなかった.
確かに羽根は軽かったし,思った通りにはためくこともできた.はじめは恐怖心もあったが,いろいろな飛び方をしてみて落ちることはまずないのだと気がついてからは,それも消えた.この羽根について別段何かの不満があるわけでもなかった.色もそれなりに気に入っているし,形も良い.こんな羽根で空を自由に飛べるのは幸せなことなのかもしれなかった.そして彼女の生活は何も変わらなかった.
空には誰もいなかった.地上でも人付き合いのない彼女は,空に昇ることで一層孤独になった.地上では前後左右に人がいないわけだが,ここではそれに加えて上下にも誰もいない.なにもない空間のただなかに,彼女は一人で存在していた.空を跳べる人間が彼女しか存在しないのだから,それは仕方のないことだった.
確かに,飛んでいる間はいい気分だった.高いところからいろいろなものを見下ろすことができると,考え方も変わる.地上を無数にうろうろしている人間を眺めて,彼女は人間が飛べない理由がわかるような気がした.また,彼らがどうして飛んでいる彼女に気がつかないのかもわかるような気がしていた.
しかし,それも飛んでいる間のことだった.地上に降りた彼女は,いつもの通り朝になると目覚めていくべきところに出かけ,暗くなると疲れて帰ってきた.そうして休みの日になると一人で空を飛んだ.せっかく飛べるのだからその羽根で会いに行きたい人間もいたが,しかし相手は忙しそうだった.
生活はあまりに単調で,空を飛ぶことがその単調なリストに加わっても,以前と比べてそれほど大きな変化は見出されない.彼女はそう思ってため息をついた.
ある時,彼女は一つの冒険を思いついた.
いつも飛んでいるのはせいぜい住んでいる周辺であって,高さもせいぜい数十メートルというところだった.それ以上にはあたりには何もなく,上昇するのは無意味なように思われたからである.しかし,彼女が考え付いたのは,できるだけ高く上がってみよう,というものだった.
空の上のほうは相当気温が低いはずだった.数回乗ったことのある飛行機の外側はとても寒そうだった.だから,なるべく厚着をして行くべきだった.もしかすれば星が見えるような高度まで上昇できるかもしれない.それはもしかすれば簡単ではないのかもしれないが,冒険というものはそういうものだ.
せっかく空が飛べるというのに、どうしてこんな簡単なことにこれまで挑戦しなかったのだろうと,彼女は自分を不思議に感じた.普段の生活はあまりに彼女を束縛し,自由にものを考えることも忘れさせていたのかもしれなかった.
そこで彼女は少し厚めの服と手袋などを準備した.長くなることもあるかもしれないと思い,リュックサックに食べ物と飲み物を詰めることにした。
そして,ある休日の朝,彼女は決意した。
自分の部屋の窓から出て,そしてまず屋根に上った.そこであらためて辺りの街並みを見回した.周囲の屋根が暖められてかげろうのようにゆらめているのをまぶしそうに眺めた。風のない、いい日だった。
彼女が羽ばたくと、体はゆっくりと上りはじめた。
上だけに注意を集中する。上に。上に。
空はひたすら青く、雲も出ていなかった。彼女は、その青の中をひたすら上り続けた。
しばらく上昇したとき、彼女は少し下を眺めてみた。街はすでにはるか下方で、家々の区別はつかなかった。灰色の街と、濃緑色の森があり、少し遠くには細かく輝く群青の海が見えた。反対側には、はるか彼方の山並みが、薄くなりながら地平線に消えてゆくのがかすかにうかがえた。
空中で、彼女はたった一人で浮いていた。あたりには誰も居らず、そして何もなかった。
彼女はさらに上昇していった。
上を向いて,羽根を動かして,ひたすら進んでいった.
どれくらい上っただろうか。彼女はあらためて下を見下ろした。そこには、非常にかすかになった地上が見えた。あまりに遠いため、地形すらもう判別できなかった。地上は、青い空気の底に遠く沈んでいた。
彼女は妙な気がした。これだけ高く上がっていれば、もうそろそろ空は暗くなって、星が見えるはずだった。また、相当寒くなることを覚悟していたが、気温は全く変わっていない。相変わらず上空は水色の空間が広がっており、その先には何も見えなかった。
空腹を覚えた彼女は、浮いたままで軽く食事をした。
あたりには何もないため、物を置く場所もなかった。彼女は両手に小さなペットボトルと自分で作った握り飯を持ち、中ぶらりんで食事をした。何か妙な気分だったが、悪い気はしなかった。
飲み終わったペットボトルが、不意に手からこぼれ落ちた。それは、あっという間に落下し、彼女の下方に向かって急速に遠ざかり、やがてかすんだ点になり、消えた。
高い。
これまであまり気にしていなかったが、あらためて見ると、とても高いところまで来ているようだ。
彼女は迷った。
そろそろ戻ってもいいのではないか。これ以上進んだとしても、この状況に変化があるのかどうか、彼女には自信が無くなっていた。一方で、もしもこの状態で帰っていったとしたら、自分はきっと後悔するのではないか、という気もした。
この羽根そのものに不安はなかったが、しかしもしも宇宙に出てしまったらこの羽根は飛ぶのに効果があるのだろうか、ということもどうも疑問だった。
しばらく逡巡した末に、彼女はまだ先に進むことに決めた。実際のところ、彼女が戻らなかったとしても、他の人間はそれを気にすることもあまりないだろうし、きっと誰も自分の失踪には気がつかないだろうと思った。今の生活がそれほど楽しいわけでもない。失敗したところで、失うものは事実上何もないのだ。
だから、自分で行き着くところまで行ってみよう、彼女はそう思った。
それからまた彼女は上りはじめた。
羽ばたいて上昇しながら、ふと、太陽がどこにあるのかと思い、首をめぐらしてみた。不思議なことに、どこにも見慣れた光の塊は見つけられなかった。しかし、あたりは透明に明るく、空は相変わらず青かった。
さらに上り続けてから下を見ると、驚いたことに、地上はまったく見えなくなっていた。どこまでも透明に見える空気の向こうには、もはや何も見えなかった。
彼女は水色の空間の中にぽつんと浮いていた。
上下左右には、何もなかった。
それでも彼女は昇り続けた。上という概念が希薄になってきていたが、自分が上だと思う方向に向かってひたすら進んでいった。
彼女は昇り続けた。
やがて、上に何かが見えてきた。とても大きなものだった。まるで、立ちはだかる壁のようなものに見えた。
それは、はじめぼんやりしていたが、近づくにつれ、次第にその細部が定まってきた。
群青があり、深緑があり、灰色があった。
やがて、海が見え、山が見え、街が見えた。
見慣れた地上とよく似ていた。
さらに近づくと、まるで同じではないかと思えてきた。
しかし、一つだけ違うものがあった。
彼女だけではなく、無数の人間が空を飛んでいたのだ。羽根を使って、自由気ままに飛び交っていた。
彼女が地上に向けてさらに降下してゆくと、そのうちの一人が近づいてきた。顔をよく見てみると、懐かしい感じがした。ずいぶん昔からよく知っている顔にちがいなかった。
彼は、一緒に降りて行きながら、休暇はどうだったかを彼女に訊ねた。
<完>
初出 Cygnet9(1998)
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