リタイア


 今日もまた、朝から雨が降りそうだった。
 自分はまだ生乾きの傘をとると、扉の外に出た。
 今にも降り出しそうな空だ。
 ここしばらく、雨が続いている。梅雨時でもないのになんだかじめじめしているのは憂鬱だと思った。
 自分は職場に向かって歩きはじめた。
 荷物はいつものように重かった。
 公園に、いつものようにたくさんのテントが張ってあるのが見えた。人々はブ ランコやシーソーに座って佇んでいた。公園の人々は、静かな、穏やかな眼をし ていた。そして、誰も動いてはいなかった。
 しばらく前から、公園はもはや子供のための場所ではなくなり、行き場をなく した大人がなにをするでもなく集まる場所になっている。それはそれで仕方がな いことだと自分は思った。そして、その数が年々日に日に増えているような気が するのも、無理もないことなのかもしれないと思った。
 職場は遠かった。
 通勤に使っていたバス路線が不採算で廃止されてから、自分はずっとこの長い 道のりを毎日歩いている。あれはもう何年前だったろうか。職場に近い場所に引っ 越しも考えたが、家賃の金額をきいてあきらめた。思えば、あの頃からこの世の 中は少しずつ縮まっていたのかもしれない。
 自転車でも買わないと、時間がかかりすぎて大変だとは考えている。実のとこ ろ、一度は自転車に乗っていたこともある。そして、それが買ってから一ヶ月で 鍵を壊されて盗まれてから、自分はずっと歩いて職場に通っている。新しいもの を買ってもいいのだが、自分もまた、貯えなどどこにもないし、毎月のやりくり をするだけで必死である。ボーナスが出るような職種ではないので、いつのこと になるのかわからない。
 歩きながら、自分はもしかしたら、職場に行きたくないのかもしれないと思っ た。
 長時間の労働で、ワークシェアリングという名目で賃金で給料は削られ続け、 それでいて働く時間が短くなるわけでもない。結局自分の仕事を自分でこなすた めには、自分で必要なだけ働かなくてはいけないのだから、仕方のないことだと 思った。ついでにいうなら、毎朝の軍隊のような朝礼も、隣の同僚が気にもせず に吹き上げるタバコの煙も、ほとんど意義を感じられない仕事内容も、行きたく ないという印象を強めているのかもしれないと感じた。
 角を曲がり、小道に入り、大通りを越え、所々に残る小さな畑のわきを過ぎ、 交差点を歩道橋で渡り、自分はいろいろなところを進んでいく。まだ職場にはつ かない。
 途中でいくつかの公園の横を通り過ぎた。どこの公園でも、同じように人々が 佇んでいる。動いているものはいないように見えた。どこの公園も同じようだっ た。いつからこんな風景が日常的になったのか、思い出そうとしてみたが、自分 にはよくわからなかった。ただ、自分が子供のころには、こんなことはなかった はずだと漠然と感じたが、しかしはっきりしたことはわからないと思った。もし かしたら、その当時からこんな兆候はあったのかもしれず、子供の自分はそれを 理解できていなかっただけなのかもしれなかった。
 街はどこまでも広がっている。自分は歩きつづける。毎日歩いているはずの道 なのに、今日はどうしてこんなに遠いのだろう。
 静かな小道に入ってしばらく進んだ後、ふと、なにかの気配を感じた。
 振り向くと、道の脇の空き地の茂みから、大きな黒いものが現われた。黒いものはのそのそと道に出てくると、ゆっくりと自分に視線を向けた。
 熊だった。
 大きな熊だと思った。
 熊は、自分の上から下までを一通り眺めおわると、興味を失ったように道の反対側に移動して消えていった。
 熊だ。
 自分は、足を止め、何となく熊の消えた跡を眺めていた。
 熊だ。
 熊だ。
 ふと、顔に何か冷たいものがあたったような気がした。道を見ると、小さな黒点が目立ちはじめている。
 自分は再び歩きはじめた。
 しばらくの間はそのまま歩いていたが、しだいに雨脚が強くなる。仕方なく自 分は傘をさした。傘をさすと、片手でこの荷物を持っていかねばならない。いつ か、もう少し小さなコンピュータが手に入るといいのだが、と思った。しかし、 それもいつのことになるのかまったくわからなかった。
 道は職場に向かってどこまでも続いている。
 自分はこれまで何回この道を歩いてきたのだろうか。そして、この毎朝毎晩の 道行きに、いつか終わる日が来るのだろうか。
 わからなかった。
 自分には、いろいろなことがわからなかった。
 自分が過ごしているのは現在であって、過去のことは覚えている範囲のことし かわからないし、未来のことはまったくわからない。しかし、自分がこの道を行 かなくなるということは、それは自分が行く場所が無くなることを意味している のかもしれないという気はした。それは少し恐いことだと思った。
 いくつめかの歩道橋の上で振り返ると、遠く、これまで通り過ぎてきた街並み が霞の中に沈んでいるのがうかがえた。
 あのぼんやりした世界に、私と同じような思いで毎朝を過ごしている人が、お そらくとてもたくさんいる。自分の日々に漠然とした疑問を感じながら、それで いてその流れから積極的に脱出するわけでもなく、ただその流れに従って生きて いる人がたくさんいる。なにかが変わるかもしれないと思いながら、そのくせ変 わるのを少し恐れている人たちがたくさんいる。それはそういうものだ。
 そして、熊もいる。たくさんいる。いろいろなところに熊はいる。なにをして いるのかはよくわからないが、熊がいる。それもそういうものだ。熊たちはいろ いろなものを眺め、そしてあたりを歩き回っている。毎日そうしているようだ。 いつからいるのか、なんのためにいるのか、といった疑問を持ったところで、仕 方のないことだ。現に熊は存在する。それが簡単な答えで、そして今の自分には それで十分なのだろう。
 ふと、熊たちは自分の毎日の生活をどう感じているのだろうかと疑問になった。 しかし、熊は熊なのだから、あまり深くは考えていないのかもしれないという気 もした。熊はあくまで熊なのだ。それ以上のものを考えなくてよいのだ。
 ぼんやりと考えながら歩いている。
 道はまだ続いている。
 職場は遠い。
 どこまでも遠い。
 自分は少し疲れはじめてきた。雨の中、荷物はますます重くなる。靴も湿ってきた。
 ずいぶん歩いてきたが、まだまだたどり着かない。
 もしかしたら、今日は職場につかないのかもしれないと思った。
 運によっては、そういう日もあるのだろう。y  それでもいいのかもしれない。
 本当にそうなのだろうか。
 よくわからない。
 雨脚がまた少し強くなる。本当に今は朝なのだろうか。
 自分は少し下を向いて歩きつづける。アスファルトが黒く光っている。
 なんとなく熊のことを考える。
 熊。
 熊。
 次第に、人が熊になる。
 いつの日からか、そうなった。
 人々は、自然に、当たり前のように、熊になった。
 職を無くし、居場所を無くし、心のつながりやよりどころを失った人間達が、突然熊になる。
 穏やかに、静かに、定めのように。
 熊になった人は、もう責任をとらなくていいのだ。熊なのだから。熊になってしまったのだから。もう何もする必要も義務もない、熊になってしまったのだから。それは仕方のないことなのだから。どうしようもないことなのだから。
 熊、熊、熊の群れ。
 考えつづけると、しだいに頭の中が熊でいっぱいになる。無数の熊が心の中を うろうろしている。右に左に、街を覆う熊の群れ。世界を埋め尽くす熊の群れ。
 自分は熊のことを考えながら歩く。歩きつづける。
 荷物はまた重くなる。
 道は遠い。
 道はまだ遠い。
 ……そうだ。
 いつまでも、この道は終わらないのに違いない。
 一生、このままなのだ。明日も明後日も。変わらないのだ。いや、それどころ か、一生に終わりというものが来るかどうかすら、定かではない。
 自分は永久にこのままなのだ。
 ずっとずっとこの道を歩き続けて、どこにもたどり着けないのだ。
 どこかで間違えて、はまってしまったのに違いない。復帰できないルートに入っ てしまったのだ。ゲームをすすめることもできず、ゲームを終わることもできな い、そういう状態になってしまったのだろう。知らないうちに、いつのまにか、 そうなっていたのだ。神様の作ったゲームにも、バグはあるのにちがいない。
 そう気がついた。
 気がついてしまった。
 その瞬間、不意に荷物を取り落とす。
 なぜだろうと思う。
 自分の手を見ると、どこか毛深い、指の短いずんぐりしたものに変わっていく。
 ゆっくりと、しかし確実に。



<完>


初出 静岡大学SF研究会浜松支部部内誌SFR vol.() 
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