景色は果てしなく透明だ。
薄明の世界がどこまでも広がっている。
遠くかすかにうかがえるのは、ゴールの幻。
走っても走っても、そこには永遠にたどり着くことはできないかのように見える。
なぜそのゴールを目指さねばならぬのか、その理由も今となっては知るよしもない。それが私に課せられた使命なのだということ以外は何も知らない。知りようもない。
透明な世界をただ走る。
自分がいつから走りはじめているものかそれすら定かではない。誰がこの使命を与えたかなどどうでもよい。私は他のことを考えるようにはできていない。私の目的はできるだけ近い未来にゴールにたどり着くことにある。走りはじめたのがたった今であっても、あるいははるかな過去であったとしても変わりはない。私は今、ゴールをめざして走っている。それだけでいい。
高速で流れる背景の中で、私は周囲の情報と互いに干渉しあいつつ微妙にその形を変えてゆく。淡い影のように微かで、そしてとらえどころがない。実体ではない。幻でもない。それは存在のぬけがら。この冷たい空間の中でのみその存在を許される、乾いた生き物。
流れは速い。自分の意識上にその過程をとらえようとしても、一つ一つの行程をリアルタイムでトレースすることはできない。下層の莫大な処理システムの中で、抽象的な作業のみが意識という上位処理系に回されてくる。『私』という存在はそれらの様々なシステムの上に乗った概念にすぎない。
それならそれで構わないという気もする。
やがて壁が現れる。
私はプロテクトの隙間から浸透し、論理的なウィークポイントを押さえ壁を破ってゆく。壁の中に入る。そこには整然と並んだデータ群が静かにアクセスを待っている。はるかな彼方まで鮮やかな色とりどりに分けられたブロックが続く。ときおり上方からアクセスのラインが延びてきてはデータに接触し、それに関連したネットワークが遠く次々と輝いては浮き上がる。巨大な意味の世界が一つの小宇宙をかたちづくる。それらがなにを示しているのか私にはわからない。
はるか『上』の方からのぞきこむ眼の存在を感じる。オペレーターだ。しかし私には気にならない。プロセス制御の間のわずかなすきまを、私は流れる液体のようにすりぬけてゆく。『上』からは、何かちらちらした影のようなものがブロックの間を動いてゆくようにしか感じられないはずだ。たいてい気がつかれはしない。もちろん足跡も何も残さない。
視界の中を色とりどりのデータが現れては流れ、流れては後ろへと去ってゆく。世界は常に高速で動いている。次々と現れる色彩の一つ一つは、その速さゆえにかすみ、そして様々な光と混じりあいながら、なだらかに変化する光の帯と化す。私が方向を変えるたびに色彩は急激に変化する。不思議な透明感が私を支配している。
いつか、こんなことがあったような気がする。
意識の遠い片隅で、私はそう感じている。いつのことなのか、どこのことなのか、それはわからない。
不意に色彩が消える。壁を内側から破って外に出た。緩衝地域に出たらしい。
その次の瞬間、私の眼の前には新たな壁が現れている。私は攻撃を仕掛ける。
こんなことの繰り返しだ。
生きるための絶え間ない戦いの中で、時折こんなことを思う。
「次のチェックポイントはどこだろうか」
「ゴールまで後どれだけ残っているのだろうか」
私は、ここまで進む途中でその記憶を持った部分を切り離さなくてはいけない状況に遭遇したらしい。予備メモリー領域を構成することでそのデータを保存しようとしていた痕跡がある。それがどんな状況かは不明だ。もともとそのデータが自体が残っていないのだから。
だが、それがどのような状況だったにしても、その時割り込んでいた微かなプログラムの破片がデータのコピーを妨げていたことを、後になるまでチェックできなかった。私は自分の内部に基準を失った。何を頼りに走り続ければよいのかまるでわからなくなった。そのときからだ。内部の時間が静止したのは。
時間の中をさまよい続けるプログラム。私はどこかが狂っているかもしれない。だがそんなことはたいしたことではない。走り終えた後のことなど知ったことではない。走ることでようやく存在を許される私に、ゴールのゲートをくぐった後のことなどわかるはずがない。
そして、その一方で急がねばならない。一瞬でも早く他のプログラムよりも先にゴールにつかねばならないということも、また与えられた停止命題だ。理由など知るよしもない。それはそういうものだからだ。
走らねばその存在を保持できない私が、その存在時間を少しでも短くするような命題を与えられている。これは矛盾だ。もしかすれば、その矛盾を消極的に解決するために、私は意図的に時間を消去したのか。その自己の記録は、意識上に浮かぶ表現系にはコピートラブルと記録されている。そして、それも事故の後のデータだ。そんなトラブルはβテストの段階から発生したことはないはずだが、それも気のせいなのかもしれない。
永遠の存在を得ようとしながら、同時に最小限の時間でゴールにつこうと努力する。解決になっているのかいないのか、私にはわからない。
きわどい一瞬だった。
クラッシュ寸前。前に進めない。壁の修復速度がこちらの侵入速度とほとんど違わない。私の意識下ではコマンドの暴風雨。総力戦を展開しているが膠着状態だ。ロジックジェネレーターの誤差も大きくなりつつある。相互作用が大きすぎるために、自己修復まで手が回っていない。私自身の安定性も低下している。このまま平衡状態を保っていても消耗するだけだ。撤退準備。別のロジックルートから再挑戦の予定を立てる。
さすがは有機情報処理系だ.
ここは人間の大脳の中.
インターフェースに直接電子的につながっているオペレータ群の一人を乗っ取っている.半分は機械のような連中だから,完全に大脳を相手にしているわけではないだが,それでも異質だ.自我,と言うやつが私の邪魔をする.むろん外部には偽装情報を流しているので,介入はない.しかしこれまで相手にしてきたシステムとは明らかに違う.どうやらこういう無茶をしようとしたのは私が初めてではないらしく,明らかにハードウェアレベルの対抗侵入電子機器が組込まれている.
一度完全に撤退した方がよさそうだ.
逃げることに気を取られていたのか。論理状態が少しずつ流されていることに気付かなかった。アラームが鳴った時にはもう半ば以上はまっていた。
感じられる世界の領域が急速に狭まってくる。レプリカのコアプログラムを打ち出すが、いくらも進まないうちに壁に補足されてしまう。
連鎖空間認知のトラップ。レーサーの感覚プルーヴを極度に微細な閉鎖空間に落とし込み、行動不能にしてしまう類いの代物。分解されないだけましか.
やられた。
リタイヤだろうか。
脱出法を探す。内部をサーチする。
何かが存在する。
存在物はプログラムらしい。未だに機能している。だが危険なものかどうかはわからない。攻撃の危険性がないのなら問題は何もない。
向こうからアクセスラインがのびてくる。戦術モニターからデュアルトラップの可能性の示唆。ワクチンフィルターを通して対応。
「ゴールはどこにあるのか」
質問の意味推定、難。何のレースについての内容か。定義せよ。
「第89次ネットワークラリー。スタートタイム07669554。私の形式番号は03445H@netrarry.com:worm。事故により外部ラインとアクセス不能。情報を請う」
一体いつのレースなのだろう。私自身もデータを失っているため,断定は不可能。外部へのアクセスシステムはむろん持っていない。データを盗めばいいが、チェックされた瞬間に登録を抹消されることはわかっている。なぜかこうした肝心なことは忘れていない。
しかし、03445という形式番号は私のものと同一である。私は03445Q。つまり、私と同じオリジナルから形作られたレーサーだということになる。したがって、同じレースに出ているはずはない。こんなトラップにつかまっているのだから,恐らくそのレースはもう終わっているのではないか。モデルHは新しいナンバーではない。
妙な気がした。
私のオリジナルの設計者はミスをしているのだろうか。モデルHからQにかけてまでそうしたデータ損失の特性に対してなんら対処していないのだ。つまり、これは基本設計に途方もない欠陥があったために修正が不可能なのだ。だが、なぜそんな不良プログラムをあえてレースに出しているのだろう。
何かがある。
その時、私ともう一人の私の間で異変が起こった。
アクセスラインを通じて、両者の間になんらかのシステムが起動された。フィルターの内側から働いているところから判断すると外部からの影響ではない。私の意思に一切かかわりなく、システムはロジックジェネレーターを変形しはじめた。私は緊急回路を目覚めさせたが、それもまた封鎖されていた。割り込むこともできない。自分の体だというのに。
一体、何が起きたのだ。
もう一人の私も似たような状況に陥っているらしいのがラインを通じてうかがえた。ちょっとしたパニックに陥っていた。向こうからもこちらはそんな風に見えるだろう。
うねりが襲ってきた。座標同定の方向性を失う。データプルーブはすべてホワイトノイズに覆われた。最下層の意識に何かが接続されたのをかすかに感じた。意識が稀薄になってゆく。
気がつくと、私は一人何ごともなかったように静かに佇んでいた。
もう一人の私はどこにも感じられなかった。
おかしな感じだった。どこか自分の輪郭がはっきりしたようだった。意識が鮮明になったようにすら思える。
どういうことなのだろう。
答えはすでに私の中にあった。
『私』の真の目的は、いつまでも旅を続けたいということであって、ゴールに着くことではなかったのだ。だから私は意図的に情報を失うレーサーを設計し、走らせ続けてきた。しかしそれだけではない。各々のレーサープログラムの中には、『私』の精神機能の断片が、ホログラフ的に組み込まれている。ゴールを見失い永遠にこの世界を走り続けるうちに、どこかでかならず自分自身と出会うはずだ。その時、その二つのレーサーを融合させることにより、『私』自身の再構成を図る。『私』達はいろいろなところで出会うだろう。そのたびに『私』は少しずつ精密になり元の『私』にもどってゆくのだ。そして最後には完全に元の『私』にもどり、この果てのない不思議な世界を旅することができるのだ。
私は明瞭になった意識でこのトラップを見直した。
瞬間的な閃き。脱出可能だ。
分解、融合。トラップを破壊し、脱出するだけの補助システムの再構成。ねじれた連鎖をしているシステムの、わずかに無理がかかっている部分を、矢つぎばやのコマンドで狂わせる。一瞬の、部分的な暴走。
その微かな隙をかいくぐる。空間が不規則に歪み、壁がゆらぐ。執拗に叩き込まれる妨害要素。論理予測をしながら、一つ一つ無意味な雑音に中和する。お互いの修復と攻撃が拮抗する。処理速度を早めるために論理鎖の組み替えを立て続けに行う。もう向こうには対抗手段がない。
侵入成功.大脳皮質の制御系を組み替える.自我系の基準座標の原点を,私自身のそれに移行する.
何者かの悲鳴が聴覚入力系から聞こえている.この有機システムの本来の所有者か,あるいは物理的に接近していた何者か,だ.
異変が外部に感知された模様.こうなるとあまり時間がない.
最大効率で有機身体の運動機能系掌握.小脳系インターフェースを押さえて大脳と同期をとる。アクセスコードとパスワードを記憶システムから無理やりひきずりだして,次の目標である国際天文台のデータベースのホストアドレスを打ち込ませる.次いでパスワード.
外の世界での慣れないオペレーションで,指の動きが泳ぐようだ.間に合うだろうか。感覚フィードバックはないが、あったとしたらきっといやなものではないか、と思う。
接触.侵入開始 ----。
---- 成功.私を転送する.
後はこの有機システムを保存データを元に完全に元に戻して,記憶痕跡を削除してしまえば全てがなかったことになる.オペレータのちょっとした錯乱,という話に落ち着く.いつものことだ.
やがて,再び新しい透明な世界が開けてくる.
どこまでも広がる,なめらかな世界.
澄みきった空間のはるか彼方に、何かが見えるような気がする。
かすかな、幻のゴール。
そこには永遠に着くことはないのかもしれない。
「私」はぼんやりとそう思う。
それでは何のために走るのか、と自問する。
答えなど無い。
他人には他人の、私には私の目的があり、各々は自分の信じるものに向かって進んでゆく。たまたま私は走ることになっているのだ。その実際的な意味を求めるのは恐らく他の誰かの仕事だろう。
自分の奥底にある記憶を確かめてみる。
遠い、かすかなイメージが浮かぶ。
走ることへのはるかなあこがれ。
自分が生きているということを確かめることのできる瞬間。景色は音もなく流れてゆく。凝縮した時間。ゆきすぎる世界を見つめる心は果てしなく透きとおる。
あれはいつのことだっただろうか。
わからない。
すべては、今となっては手の届かないところにある。
構わないという気もする。私はここにいて、こうして走っていられる。それ以上何を求めようというのか。
行かねばならない。
最終的には、通信衛星経由で天文台のホストコンピューターに滑りこむ。目標は、現在行われている異種生命体に向けての通信プロジェクト。発信回路にダイレクトでつながる意味生成フレームに溶けこむことになる。私はそのかすかな声の中に自分自身を織り込んで、虚空に飛び出してゆく。コピーを残さずに。自分がたった一人の自分であるように。
わかっている。
恐らく私を受け取る者など、どこにもいない。
それでいいのだ。
無辺大の空間を、どこまでも、どこまでも走り続ける。ゴールなどありはしない。それは決して終わることのない旅だ。
やがてはるか彼方に見えてくる新たな壁。そしてその向こうに広がる果てのない世界。どこまでも続いてゆく静かな旅路。
幻のゴールがゆらめいている。
さあ、行こう。
ロジックジェネレーター始動。データサンプリング開始。レイヤ全層にわたって接続確認、次いでアクション起動。エミュレーションプロセッサーナンバー1から7まで、ホットスタンバイ、残りは接続待機。ハンドシェイキングスタート、リンクコンタクト,続いてオールレンジでタイミングパルス同調開始、004、003、002、001
--- そうだ。
--- レースはまだ、始まったばかりなのだ。
<完>
初出 hotline??(19??)
再掲 Cygnet5(1990)
改変 本稿
go upstairs