椎名誠



 高校時代,夜十時ごろからやっているFM番組を聴いていた.それは,当時出回り始めた「コンパクトディスク」という新しい音源を世に広めるための目的で作られていたらしく,当時のフュージョンという類の音楽を1回に2局づつ流していた.
 番組の音が良かったのがCDのためだったのか,それとも単にFMだったからなのかは今となってはよくわからないのだが,何にせよその番組でかかる音楽はきれいで,自分の趣味にも合っていた.自分は毎日その番組を聴くのが大変楽しみであった.
 そのうち,その音楽の脇で低い声で喋っている「ディスクジョッキー」の名前が「しいなまこと」という名前であるということを覚えた.よくよく聞いてみると,その人の話は大変面白く,音楽と同時にその人の話を聞くのが次第に楽しみになっていった.
 その人の話は,主として世界中のいろいろなところに行ってみた感想などを語っていた.印象深かったのは,「今週は,オーストラリアのグレートバリアリーフのお話を……」という出だしであった.これはずいぶん続いていたような気もする.実を言うと,内容までは記憶に残っていないのだけど,とにかく面白かった.
 そして,たぶんその「しいなまこと」という人は作家なのだろう,という程度の知識を得た.


 大学時代に,東京から静岡のふるさとまで戻るのに鈍行列車を使っていた.東京から静岡の自分の実家の駅までは4時間ちょうどかかる.その間,何か読むものが欲しかった.自分はときどき意図的に本を持たずに移動に臨んで,その場その場で出会った本を楽しんでみよう,という「冒険」をする.そのときも東京駅のキオスクで,適当な文庫本をぱらぱらとやっているうちに,その「ぱらぱら」においてとても楽しそうな文章が引っ掛かってきた.
 「赤目評論」と言うタイトルで,作者は椎名誠,という人だった.
 あのディスクジョッキーをしていた「しいなまこと」という人物がこの人に違いなかった.何だか楽しそうな気がしてきた.
 列車が出発し,しばらくは周囲の東京の風景などを茫然と眺めつつ,心の準備運動をしたところで,さて,と自分はおもむろにその本をとりだして読みはじめた.
 そして,あっというまにのめりこんでしまった.
 面白い.
 こんなに面白い文章を書く人がこの日本にいたのか.すごいぞ.
 めったやたらにパワーがあった.
 表現が斬新だった.
 そして何より,その書きっぷりに瓢逸な面白みがあった.
 最後の方にあった「あやしげな日本風CM」のネタを使ったこんな台詞を読んだ時は,混んだ列車の中で思わず笑い声を上げないように苦労した.
「もうぽくためてすぽくくいえるものわすれたよ」
「たいちょうぶ.はくいえるものわすれないよ.あついとりとえびいてみろ」
 そのコマーシャルが実際にこう喋っていたのか,それとも椎名さんが思い出しながら適当に再構成したのか,それはよくわからないのだけど,とにかくインパクトがあった.この後この台詞をきちんと声に出して読むという行為をしてみると,それがまた何ともあじわい深かった.
 こういう点も含めて、とにかく,書いてあること一言一言に「そうそう」などと相づちをうち,独特の絶妙な「プロレス的」表現を楽しんだ.

 それでいて,全体の主張のようなものは実に共感できると思った.
 基本的に,世の中の愚かしい「無駄」に対して怒っている人のようだった.それは誠にもって自分も同じことを感じていたりした.結婚式の派手な演出,何でもかんでもカバーを掛けてしまうこと,海外で日本人がどのようにふるまうか,ということ,などについて,実に「正しく」憤っていた.本当に全くそうだ,その通りだ,と自分は「共感」してしまったのだ.
 同時に,こういう「怒り」がきちんと表わせて,それでいて説教臭くない,というのは,相当な手練だ,とも感じた.
 故郷までの列車は,あっというまについていた.


 それ以来,椎名誠さんの本を何冊か買い入れた.とはいうものの,自分は文庫というもの以外は視野に入らない類の心と懐が貧乏な人種なので,せいぜい10冊程度であった.もちろんそれらは片端から読みまくり,やはり「赤目評論」が最高だ、とか「全日本食えばわかる図鑑」あたりもよろしいな,などと一人で思っていた.
 最近になって,友人の森岡君がその椎名誠さんの本をたくさんくれた.
 彼も椎名さんが好きなのだが,椎名さんに限らずあらゆる本がたまりにたまって,「今捨てないといつ捨てられるかわからない」から,というわかるようなわからないような理由で自分に本をくれた.
 実にたくさんあった.まだこんなにあったのか,と正直驚いてしまった.自分がこれまで読んできた椎名さんの本は,実のところ極々一部でしなかったのだ,ということをそのとき始めて知った.
 彼のくれたたくさんの本,しかも全てが単行本だったのだが,それらを読んで,椎名誠という人のことを比較的深く知るようになったのだが,実際驚く事ばかりだった.
 20台の半ばですでに本を出している.それは,今のようなエッセイや小説とは違って,当時椎名さんが働いていた業界の解説書のようなものらしいのだけれども,それにしてもすごいと思った.そういう業界の人がみな本を出しているわけではないのだから,才能があふれていたのに違いない.
 20才台の後半では,一つの雑誌を見事に作り上げ,会社の重鎮になっている.それはきっと単に雑誌を作ったという功績による以上に,人々が彼の迫力というのか存在感というのか,そういうものを認めたし,またそこに期待したが所以なのだろうと思える.
 さらに,それとは別に,自分自身の新しい雑誌を作り上げ,それを運営し,いつの間にかサラリーマンをやめ,物書きになっている.
 そうした過程が実にいい.
 特に、書評誌に関しての“持って行き方”は見事だと思った。その雑誌は取り次ぎを通さず、自分達が直接配本することで、くだらない出版業界の“圧力”などというものとは無縁なものとして設定し、言いたいことを好きなように書ける、そういう作り方をしていた。自分の意志というものをまっすぐに貫いているではないか。それはきっと、文章中に書いていないこともいろいろとあったのだろうけれど、それにしても結果として生まれた「本の雑誌」というものが世の中の多くの読み手に信頼に足るものとされているのは、こうした「信念」の下に生まれたことを人々がよく知っているために違いない。


 フリーの物書きになってからは,日本中,世界中を旅行している.本当にいろいろなところに行く人だと思う.日記のようなものでそれを記述しているのだけれど,本当に毎日忙しい人だ.そうして行った先のことを書く.それがまたとても面白い.映画を撮る.映画会社に配給なんかしないから,自由に作る.自分たちで回す.カヌーで河を往来して,ビールを飲んで,子供のことを書く.そして小説,おまけに(なんてこった)SFまで書ける.
 うらやましいと思った.
 どこにも行かずに,一つ所にのんきにするのが好きな自分から見ると,スーパーマンのような人に見える.
 すごいものだ.
 こんな人がいるのか.
 自分はそう思った.
 今でもそう思っている.



 あれだけの事を書くためには,逆に書斎に閉じこもっているわけにはいかないだろうという気もする.出力するためにはそれに相応する分の入力が必要であって,いろいろなところに出かけていくのは必要に迫られてなのだろう,と思う.
 不思議なもので,椎名さんのご家族というのも世界中のいろいろなところに出かけているみたいで,もう家族揃ってばらばら,というあんまりよくわからない表現なのだけれど,まあそういう感じになっているということが「お父さん」の文章のはしばしに出てくる.一家の主人が世界中を往来すると,それに家族のメンバーも影響される,ということなんだろうか.
 飼い犬まで世界中をカヌーにのって冒険しているのだから(もともとが野田さんのカヌー犬計画の『成果』だったとはいえ),もはや怖いものなしの冒険家族,という感じである.いつかこの家族が一堂に会して『手に汗にぎる』大冒険を繰り広げてくれないものか,という気さえしてしまう.まあ何か勘違いしているのは自分でもわかるのだけれど,どこかにそういう家族がいてもいいなあ,と思うのだ.



 実をいうと,自分は、椎名さんの「小説」にはいささかくせがあるように感じる.あの文の音読感覚は,自分が小説として感じとりたい「突き放した主観」というものからやや離れているようだ.エッセイとして読む場合には,椎名さんの主観というものはそれだけで一つの価値であり,芸でもある.読み手は作者の主観そのままに視点を合致させ,書いてある内容を反芻する.ある意味で、自分が椎名さんになるのだ。これが小説になると,作者と読者の間に登場人物が割って入る.読み手は作者ではなく,登場人物に感情移入をする.作者は登場人物を操作するけれど、読み手は書き手とはまた別なイメージ(エッセイの読み方に比べて、“読み手”自身の主観がより多く混ぜられているだろう)を投影する。そういった意味で、小説の登場人物というものについては、読み手・書き手のいずれの側からもある程度の中立性を要求されるように自分は感じる. そうして眺めると、椎名さんの小説には,人物の描き方に書き手の影がちらついて見える.例えば、常識の異なるはずの異世界の場面の中に、エッセイ的なイメージが妙に「見えて」しまう.だから自分には抵抗感がある.
 もちろんそれは椎名さんの力量なのであり,おそらく意図的に仕込まれた隠し味なのかもしれない.



 椎名さんは現在も順調に書き続けている.東京駅の横の八重洲ブックセンターには特別に?「椎名誠のコーナー」というものが設けられていた.椎名さんを囲むいろいろな人々も活躍中である.こういう「怪しい仲間」のような集団は見ていて楽しい.「椎名誠」を囲むどのまとまりにも、おしなべて各領域のプロが集まっている.そうした「職業人」であると同時に「男の子」「女の子」たちであり続ける「大人」たちが,今後どういう方向で世の中とわたりあっていくのか,というあたりが気になってしかたがない.


 そうして,中でも特に,とびきりの“大人の男の子のプロ”である「椎名誠」という人がこれから歳を取っていきながら,どんな風に世の中を見つめていくのか,その上でどういうものを書き続けるのか,を追っていくのはとても楽しみなことだ.


<完>