それ
それは、おそらく流れている。
過ぎていくものであり、ここにはなく、そしていずれ来ることが薄々うかがえるだけである。
それでいて、まさに我々はその中にいる。
それは、そういうものなのだ。
そうとなのだとしか言いようがない。
それ以上のことが、もう分からない。
私達の中から、その概念がすっぽりと抜け落ちてしまったからだ。
誰の心の中にも、それがなくなった。間違いなく、誰の心の中にもあったはずのそれが。
ないということは分かるのだ。
それがどのようなものだったのか、なんとなく分かるような気もする。
だが、それの具体的な名前を想い出そうとすると、心が空になる。
それに関係した言葉も、どれもみな想い出すことができない。
空を見ると太陽が行き来している。その動いていく光と、そして影を見ると、何かを想い出すような気もする。だが、はっきりしない。
わずかに分かっていることもある。
紙の表にして数字を書いたもの、数字を毎日めくるもの。ガラス瓶の中を砂が落ちていくもの。ゼンマイを巻くものも、電池で動くものも、腕につけているものも、コンピュータに表示されるもの。
それらは、私達が忘れてしまったそれにとても近しいなにかだったはずだ。y
でも、みな忘れてしまった。その動かし方も、読み方も、それらをなんと呼ぶのかも。
必死に想い出そうとすると、誰の心も、みな空になる。
分からない。
想い出せない。
世界中にあまねくそういう存在があることは分かるのだ。私達がその中に産まれたときから浸かっている、水や空気のように、いや、それ以上に当たり前のように周りにあるもの。でも、それを何という名で呼べばよいのか、それとどう関わっていけばよいのか、思い出せない。いや、そもそも理解できない。
分からなくなってしまったのだ。世界中の、誰にも。
電車を待っている。電車はこない。なかなかこない。待っている。ずっと待っている。やっと来る。でも、何がおかしいのか、分からない。駅に書いてある、あの数字の表が何を意味しているのか、もう誰にも分からない。
待ち合わせの約束をした。その場所は分かる。そこに行く。待っている。待っている。なにかおかしい。でも、分からない。待ち合わせにはなにかもう一つ大切な要素があるはずなのだ。しかし、どうしてもお互いにそれが分からない。そこには、たしかにずれている”なにか”がある。そこまではぼんやりと思いつく。でも、二人がうまく会えないその理由までは分からない。
テレビを見ている。ずっと「ひちじのニュース」をやっている。「ひちじ」という言葉が何を意味しているのか、誰にもにもよく分かっていない。きっとアナウンサーにも分かっていない。ただ、誰もがそれをじっと見ている。見てさえいれば、画面を見続けてさえいれば、大事ななにかを思い出せるかのように。
画面の隅に表示される数字が、その大事ななにかに関係しているように感じることもある。その数字が次第に変化していくこと、それ自体がなにかとても大切なことだったような気がする。気がするのだが、しかしそれについて、それ以上くわしく考えることができない。考えようとすると、心の中に霧がかかったようになり、何も分からなくなる。いつも、いつも。
自分は会社に行きたい。行きたいのだが、よく分からない。始まりが分からないし、終
わりも分からない。そもそも、始まりと終わり、という言葉の意味もじわじわと不可解に
なりつつある。それは何だろう。仕方がないので、あたりが明るくなったら会社に行って、
暗くなったら帰ってくることにしている。しているのだが、どこか釈然としない。これで
良かったのだろうか。
世界の奥行きだけが分からなくなってしまう病がある。
視界が目の前にへばりつき、なにかおかしいと分かっていても、遠くと近くという概念を直感的に把握することができなくなる。
実感を言葉で説明するのはとても難しいが、たしかにそういう病がある。
きっと、それと似ている。
私たちの心の中から、なにか、とても大切なことが欠けてしまった。人類全体の心の中から。
当たり前のように感じていた、それが消えてしまった。
おそらく、もう二度と戻らないのだろう。
そして、それが何なのか、決して分からない。私達には分かりようがない。失ったものについて語ることは常に困難だ。
それが当たり前であったものであるほどに。
そうなのだ。
それは、おそらく流れている。
過ぎていくものであり、ここにはなく、そしてこれからくるものである。y
流れていくものであり、私達がその中でなすすべもなく流されていくものでもある。y
それは、そういうものなのだ。
それ以上のことが分からずとも、そのことだけは分かる。
私達は生きている。生きていく。葛藤していく。思い悩んでいく。流れながら、流されながら。
この、不思議に澱んだ世界で。
ただ太陽が昇って、ただ太陽が沈んで、暗くなって、また太陽が昇って。
人類の心の中から大切ななにかが失われた世界の中で。
<完>