注意事項



「前略。こんな物がいきなり扉の裏に貼ってあるので、びっくりしただろうか。なによりもまず読んでもらいたかったから、とにかく目立つ袋にいれておいた。僕は君の前にここに住んでいた者だ。君が今度ここに住むことになった以上、僕はいくつか説明をしておかねばならない。たいしたものではない。この部屋に住むに当たっての、ちょっとした注意事項だ。
「6畳間に、4畳半のキッチンスペースがあって、押し入れは半間、ユニットバスにシャワーがついて、これで月に3千5百円。どういうことだろう。立地条件も悪くない。駅からは少し歩くものの、一応、町の中だ。どこかおかしいと思わなかったろうか。もっとも、気にならなかったからこそ、こうしてこの手紙を読んでいるのだろう。僕と同じだ。
「本当の問題は別なところにある。とりあえず部屋をのぞいてみたまえ。初めて見るんだろう。急に引っ越しが決まって、下見もしていないにちがいない。君をここに紹介したあの不動産屋の顔が目に浮かぶ。
「ずいぶん広い。とても6畳ではすまない。畳敷きではないから、正確なところ はわからない。だが、10畳は軽くありそうだ。こんな広いアパートは見たこと がない。この部屋だけでも奥行きが車三台分はある。まるでマンションだ。でもおかしい。このアパートを横から見てみる。そんな厚みがあるか。ない。その通り。問題はここだ。
「この部屋は空間的に圧縮されているらしい。おかしな顔をするな。僕もいまだによくわかってはいない。僕は君に、僕の知っていることを伝えようとしているだけだ。とにかく、この部屋は本来ならばありえない構造になっている。でも気にしなくてもいい。空間と一緒に君の体も押しつぶされているから、それほどおかしくは感じない。部屋が広く使えてむしろラッキーだ。このあたり説明がなにか変かもしれないが、あまり気にしないように。
「一番最初にこの部屋に住んだ人が物理屋さんか何かだったらしい。彼が部屋の狭さに音をあげてなんとかしようと考えて、空間をねじ曲げる機械を作ってみた。それが作用した結果、この部屋に別な空間が取り込まれて両方がうまく溶け合っている。らしい。繰り返すけれどはっきりしたことは僕にもわからない。このことは、前の住人から伝えられただけだ。伝言ゲームみたいなもので、内容も変わってきているのかもしれない。今となってはどうでもいいことだ。
「そういうことだ。わかったかい。そう、少しおかしいけど何とかなりそうかい。よかったよ。
「少し注意しておくことがあった。その空間圧縮を行ったときの、ちょっとした『おつり』が残っている。例えば、君がこの部屋に荷物を運んだとする。すると妙な気分がするかもしれない。荷物の重さが、部屋の中の位置によってなんとなく違うような気がする。そうだ。この部屋には部分的に重力異常がある。おおげさなものではないけれど。でも、場所によっては重さが3倍近くになるところもあるから気をつけて。へたなものを積むとひしゃげてしまう。無重力に近い部分もあって、そこにはいろいろと荷物が置ける。空間の有効利用がはかれるわけだ。
「たんすや机をまっすぐに置こうとしても、どうやってもうまくいかないところがある。きちんと合わせているはずだが、壁と家具がぴったりあわない。空間の境と部屋の壁が一致していないところだ。それは仕方がない。うまく使ってくれ。家具の配置の仕方を工夫すればそれほど気にならない。
「この部屋では時計もあまり信用してはいけない。何十年も遅れたり進んだりする、などということはないようで、僕の経験ではせいぜい数十分程度のぶれだ。聞いた話だと、昔の住人で3日徹夜したら3年過ぎてた人がいたそうだ。めったにないことだとは思う。
「時々、どこか部屋の中から人の声が聞こえてくるかもしれない。君の幻聴ではなく、過去か未来のこの部屋の住人の音声が届くことがあるそうだ。気にしないでいい。
「電気水道ガス電話等の使用にも若干の留意が必要だ。使ってみればわかる。これに関しては僕からは何も言えない。経験から学習してほしい。なぜかというと、住人が変わるたびにそれらの挙動が変わるからだ。持込む機器によるのだという説や、住人の精神状態に呼応するのだという話もある。このあたりはまだよくわからないらしい。一応僕の場合を挙げておくと、電話はかかってきていないのに鳴り出すし、かかってきているのに鳴らなかった。そのあたりを直感で受話器を取るようになったのが半年を過ぎた頃だったか。意外にわかるようになるものだ。人間の適応力を馬鹿にしてはいけないらしい。
「これを忘れるところだった。君が部屋に入ったら、すぐ左上を見てほしい。押し入れの扉の、20センチ上のところだ。網が張られており、中に蠅が数匹いる。じっとしているはずだ。そこに触ってはいけない。そこは時間経過が途方もなく遅い空間領域だ。その蠅は、最初の住人の実験の時からいる。それ以来、ずっと止まっている。計算では、こちらで数十年過ぎて、やっとそこでは1秒過ぎる、というぐあいの遅さだ。万一そこに頭でも突っ込むと、気づかないうちに体のほうはぼろぼろになってしまう。気をつけて。
「今まで書いてきたものは、部屋の中のノートに歴代の住人によって詳しく研究されている。部屋の柱の部分にナイフでつけたような刻み目があるのが見えるだろう。天井にもある。それがこの部屋の基準座標系だ。おかしな現象のある部分は、そのノートの中で座標化されているからよく読んでくれ。付け加えると、この原点もわずかずつ移動するようで、今の原点は南西の上の隅になっている。比較的最近に証明されたらしい原点移動の近似式も書いてあるから、そのあたりうまく読み替えてほしい。
「いいこともある。周囲の空間から浮いているから、地震程度では部屋はびくともしない。時間変動もうまく制御できればレポートに追われている時などに役に立つ。詳しいことはノートを読みたまえ。他にもいくつか有効な使い方が載っている。他にも、部屋におかしな生き物が現われるようになった場合の対策とか、どうやってもドアから出られない場合に助けを求める方法とか、そういう事についても書いてあるから、早いうちにノートには一通り目を通しておいたほうがいいだろう。
「わかったかい。これが君が今から住む部屋だ。なに、逃げ出したくなった。賢明かもしれない。でもこんなに安い部屋が他に見つかるかどうか。僕には見つからなかった。たぶん君にも。だいじょうぶ。慣れればどうということもない。むしろ面白味があっていい。ここで言う『面白い』のニュアンスには、若干の問題があるかもしれないけれど。君がある程度ユーモアを理解する心の余裕のある人であることを望む。
「最後に一言、特に注意しておかなければならないことがある。いや、そんなに緊張するほどのことでもない。
「押し入れの隅に、おかしな機械がある。それが例の初代の住人の機械だろう。旧式のキーボードがあって、キーが幾つかテープで固定されてる。いじらないほうがいい。下手にいじると、『世界』や『宇宙』や『時間』の何がどうなるのかまるで保証がない。冗談を言っているわけではないことは、ここまで読んできた君になら分ってもらえるだろう。
「本体は向こうの空間に設置してあるようで、こちらからは見えない。そうだ。『向こうの空間』だ。そこに大きい丸い筒があって、中にその空間が見える。懐中電灯で照らしてみるとよくわかる。君はそこに入ってゆくこともできる。これが別な世界への入り口だ。
「別な世界。
「この機械は時空間的なものだけじゃなく、世界線ごとねじ曲げている。らしい。部屋を広げたときに、その副産物としてこの穴が生まれたということだ。だが、むしろこの副産物のほうが問題なのだ。この向こうの世界がどんなものかといえば、……
「しばらく表現を考えてみたが、やめておくことにした。詳しく説明してもしょうがないし、また僕の拙い筆では何も伝えることはできないだろう。非常に簡単にいうと『面白い』世界だ。別な言葉に直せば、荒唐無稽、いい加減、ご都合主義、何とでも言える。いわゆる現実世界の、捨てられた可能性が無数に積み重なって構成されている世界、ありえない宇宙の集合体だ。まったく夢のようだ。物理法則や、因果律や、そういった僕らの行動を束縛してきたものの一切が存在しない。今となっては、そのことがごく自然に思えてくる。いろいろな制約の下で世界を構成してきた『そちら』の常識がどんなに無理のあるものだったのか実感している。要するに、ぼくらは束縛されているのが当然と考えていたから、自分自身でそれに合せた世界の解釈をしていただけなんだ。自分達の認識が自分達の生きる世界を作り上げてしまっていた。でも、そういう内在する枠が取り払われた時にはじめて『世界』の真の姿が見えてくるのだ。君も時々こちらに来てみるといい。僕の言うことが理解できるだろう。
「そして、さらに言えばその『別な世界』のどこかにもまたこの部屋のようなおかしな部分が穴をあけていて、そこにこの不思議な機械のコピーのようなものが存在しているようだ。その穴を通ればまた別な『別な世界』に潜り込むことができる。これを繰り返すこともできる。深く潜れば潜るほど、次々と素晴らしい世界が現れてくる。世界の連なりには果てがない。
「イメージだけでもつかんでもらえただろうか。本当はもっともっと素晴らしいものなのだけれど、僕には伝える言葉がない。もっとも、誰であってもこの世界を言葉で伝えることなど出来はしないだろう。そういうものだと『今の僕』には思える。
「実を言えば、この部屋に住みはじめてからいろいろなことがあった。で、僕は結果的に『そちら』の世界の就職を蹴って、『こちら』の世界に住むことにした。『そちら』にそれほどの未練はないので考えることもなかった。さらに言うなら(聞いていないのかもしれないが)この部屋の住人が次々と行方不明になってしまったのも、皆あの機械を通ってあちらの世界に行ってしまったからなのだ。理由は僕と似たりよったりだ。
「僕の言うべきことは終わった。あとは君次第だ。君もなんとなく、とりつかれたようにこの部屋に住み着いて、奇妙な生活を送ることになるだろう。
「大家さんにはよろしく言っておいてほしい。いつもと同じようにいなくなりました、と伝えてくれれば、それでわかる。僕も、そう伝えるように前の住人から頼まれていた。お願いするよ。では、さようなら。

草々

次の住人の方へ
前の住人より

追伸 もう気がついたかもしれないけれど、実はこの手紙も僕が書いたものでは なく、昔の住人が書いた同じものをずっと回しているだけなのだ。

では、がんばってくれたまえ。

<完>

初出 hotline who's who1989(1989)
再掲 Cygnet5(1994)
一部加筆 本稿(1996)
go upstairs