落とし物




 夕刻だった。
 それは、人通りの多い駅前の、商店街の歩道のわきに落ちていた。
 始めに下校途中の中学生がそれを見つけ、突然棒立ちになって動かなくなった。口を大きく開き、目は瞬きもせずに見開かれたまま、彼は雑踏の中に立ちすくんでいた。
 次にそれを見つけたのは中年の婦人だった。ハンドバックをしっかりと脇に抱えて早足で歩いていた彼女は、ふと制服の中学生を眼にとめた。
 彼の姿は、どこか尋常ではなかった。
 無意識に彼の視線の先を追った彼女は、それが眼に入った瞬間にハンドバックを取り落としていた。拾うこともせずに、腕はまだバックを抱えた形のまま、その婦人も、また茫然と人の流れの中で静止した。
 しばらくの間、その二つの異様な事態は誰の眼にもとまらなかった。家路へと急ぐ人々はただ前を見て歩んでいた。婦人が落としたはずのハンドバックも、いつのまにか見えなくなっている。
 やや時間が過ぎて、一人の身なりのよい老紳士がその婦人にわずかにぶつかった。婦人は意外なほど大きくよろめいたが、しかし視線は相変わらずその何かに注がれたままだった。
 老紳士は、静かな口調で何事か詫びの言葉を繰り返した。だが、相手の関心が自分に向いていないことに気付き、何かもう一言いいかけたところで婦人の視線を追って、そのまま石化した。
 老紳士の杖が倒れ、その乾いた高い音が2、3人の注意を引きつけた。
 その数人が立ちすくんでからあとは早かった。5、6人が一つの何かを中心にして棒立ちになっているのを見た人々が、次々と寄り集まっては同じように立ちすくんだ。それを中心に、半径1メートルの円の周囲に静かなる人の垣が出来はじめていた。
 人は人を呼んだ。何かがあることに気がついた人々がどっと押し寄せてあたりは混乱しはじめた。立ちすくむ人々を押し退けて前へ出ていった大学生たちはそのまま戻っては来なかった。人込みを当て込んでやってきたスリは、棒立ちになっている人々の財布を鮮やかな指使いで抜き取って行き、人垣の最前列まで達した時に自分もその列に加わった。何事かあったらしいと雰囲気でかけつけた警察官が整理をしようとして、人々の中に大声を出しながら分け入った。しばらくしてその声もきこえなくなった。

 人垣はさらにふくれ上がって入った。一目でもそれを見たものは、魂を抜かれてしまったように口を開け、表情をうつろにさせてただ立ちすくむのだった。あらゆる年齢、あらゆる職業、あらゆる立場にいる人間たちが、同じ反応を示していた。人垣はみな同じうつろな顔をしておし黙っていた。
 やがてあたりは奇妙な沈黙につつまれはじめた。

 あまりの人の数に近づけないと考えた新聞記者は、近くのビルの3回から望遠レンズつきのカメラを向けた。人ごみの中にほんのわずかな空間があり、その中に何かがあった。窓から身を乗り出してそれにピンとを合せた途端、記者はカメラを忘れ去っていた。
 とうとうテレビ局がやってきた。人ごみの中にレポーターが突入し、カメラが後を追った。静まり返った人々の背中を強引にかきわけるレポーターの後ろ姿を中継車が全国ネットで放映した。しばらくして、黙って立ち止まってしまったレポーターを呼出す声が画面にむなしく流れた。カメラはレポーターを脇にのけて、その人垣の中心にある何かを映し出した。
 その一瞬、日本中を軽い衝撃が駆け抜けた。
 カメラマンはそのままぴくりとも動かなくなった。中継車の人員もみなモニターを見つめたまま呆然としていた。本局の人々も、地方局の人々も、みな何もできなかった。そして、この映像を何気なく眺めていた日本全国の人間がテレビ画面を眺めたまま化石となった。
 日本で何か異変が発生した、というニュースは世界中に広まった。いかなる問い合せにも何の反応も返ってこなかった。
 やがて調査隊が出かけていっては音信不通になった。さらにいろいろな国の調査団がやってきては、核心に迫るところで消息を断った。最後に勇気あるテレビ局が乗込んで、衛生中継で生放送を全世界に向けて放映した。
 世界中が沈黙した。

 私の知っているのはこんなところさ。それ以上のことはどうしても知りようがない。いったいそれとは何だったのか、私にも実はわからないのさ。何だったのだろう。恐ろしいもの何だろうか。それとも人を麻痺させてしまうくらいあまりにも美しいものなのか。あるいは私には想像できないような別な何かだったのだろうか。私にはわからない。
 君が何としても知りたいというのなら私は止めないよ。あの駅前の歩道のわき目指してゆくといいよ。
---- でも私にはできない。それがいったい何なのか、知った瞬間にきっと私は……


<完>



初出 Cygnet2(1986)
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