なにか悲しい夢を見たらしく、目の回りが濡れていた。
台所から妻が朝食の準備をしている音が聞こえてくる。
ぱたぱたと足音が近づいてくる。私を起こしに来たのだろう。
「あなた、もう起きないと間に合いませんよ。朝はしっかり目を覚まさないと気分が悪いって、いつもおっしゃっていたのに」
そうかもしれない、と思った。
私はゆっくりと起き上がると、目をこすった。
「夢を見たんですね。でも夢は夢。いくらいい夢でも、それを目が覚めてからもいつまでもその夢のことを思いつづけていると、夢をひきずってしまうの。あるはずのないものが現れたり、気がついてみると別な世界にいたりするの。だからそれをやってはだめ。気をつけてください。さ、ご飯ができましたよ」
いまだ覚めやらぬ頭でぼそぼそと食卓にむかう私の向かいに妻がいた。うっすらと透き通るその姿の向こうに、そこだけ暗い部屋の片隅が見えた。
仏壇の中にあるのは、妻の写真のように思えた。
不思議に味のない朝食の後、いつも通り出かける準備をした。今日も会社に行かなくてはいけないのだろう。そんな気がした。
重い扉の円形の取っ手を両手で回して、外に出た。
あたりには濃い霧が立ち込めていた。重みのある白い闇の中を、私は駅に向かって歩いていった。
霧の中に、都市の整然とした町並みとそれが崩れ落ちた廃墟とが、二重露光の写真のように重なって揺れていた。灰色の街路を、形の定かでない車がのろのろと動いている。一面にさざ波のような雑踏がこだましている。スーツ姿のサラリーマンの群れが不意に空間の中から出現し、不安定に歪みながらどこへともなく通り過ぎてゆく。点滅する信号だけが妙に周囲から浮いている。そうして、どこか遠くで調子のはずれたサイレンが鳴っていた。
誰もが自分の夢をひきずっている。自分の世界をもう一度作り出そうとあがいている。
だが、まだ不安定だ。
もっと夢を見るんだ。そうして、ここに生き残っている全員が同じ夢をひきずることができれば、きっと昔の世界が帰ってくる。あの懐かしい世界が。
顔のない人々が沈黙し続けている静かな満員電車に揺られながら、私は、自分と妻と、そして子供達のことを考えていた。
あの子たちは帰ってくるだろうか。
そうだ。こうして夢をひきずり続けさえすれば。いつまでも、どこまでも逃げ続けていられさえすれば。
帰ってくるとも。いつかきっと。
<完>
初出 hotline??
再掲 Cygnet(1990)
一部改稿 本稿(1996)
go upstairs