静岡県民の憂欝



 初めは重い地響きがしていた。
 次いで、グラッときた。
 さらにゆっさゆっさと揺れた。
 人々は、一瞬パニックに陥りかけたが、やがて静かに揺れのおさまるのを待った。
 長い地震であった。大きな揺れであった。ざっと一分間は揺れていた。広いグラウンドに集まった人々は、何も考えずにただ地面と一緒に右や左に動いていた。
 むろん、他のことなどできなかったこともあるだろう。それにしても、人々は、この大きな地震に対して余りにも冷静に対処していた。いかにこの静岡県民が、常日頃から、予想された大地震に備え、日常生活において対地震訓練をつんでいるとしても、これは理解しがたい光景であった。
 どうしたわけだろうか。
 揺れはおさまった。だが、人々は、いまだ緊張が解けないようすで、静かに地面に座っている。
 やがて、グラウンドのはじっこに建っている ---- 今の揺れで半ば潰れかけてはいたが ---- テントから、一人の男が這い出してきた。
 男は、地震のような緊急時には似つかわしくない背広などを決め、ネクタイなどをダイヤモンドらしいネクタイピンで止めていた。いささか緊張しているのは、その男の動きを追っているテレビカメラを意識しているためであろうと思われた。
 男は、非常用電源につながったマイクに向かうと、二度三度、「本日は晴天なり」を広場全てに届く小声で繰り返し、やがて、おもむろにこう宣言した。
 「ええー、ただいま、内閣総理大臣殿から、御連絡がございまして、今回のこの地震を、『東海人工地震』と命名することに決定いたしました。ええー、静岡県下の皆様におかれましては……」
 もはや、誰もその話などを聞いてはいなかった。
 くすだまが割られた。「祝 東海地震」のたれ幕が落ちる。
 人々は、ようやくその緊張を爆発させた。広場自体がどよめきを発したのではないかと思えるほどであった。おたがいに肩をたたきあい、狂ったように笑う者もいれば、あたふたと自分達の家の様子を見に行く者もいた。そうなのだ、人々は、ようやくあの圧迫感から逃れることができたのだ。


 いわゆる、「東海地震」の発生が予測されてから、はや何十年かが過ぎ去っていた。当初は、その地震は明日にでも起こりうるという印象が強く、人々は不安に怯え、缶詰や、非常用食料を大量に買い込み、常に懐中電灯とラジオと枕許に用意したものだった。子供は帽子の代わりにヘルメットを被って学校に行き、教室では分厚い「防災頭巾」を尻の下に敷いて授業を受けていた。九月一日の防災記念日には全県あげての防災訓練を派手にとりおこない、県民は間近に迫った災害に向けて懸命に立ち向かっていった。戦時中のような頭巾をかぶり、不思議に真剣な顔をして整然と校庭に出てゆく小学生の姿がテレビ中継された。
 ところが、である。

 明日にでもくる、と言われ続けて、やがて年月は過ぎていった。

 十年が過ぎ、二十年が過ぎた。
 ヘルメットや頭巾をかぶった小学生だった子供は、いつのまにか高校、大学を卒業し、大人になっていった。いったい、地震はいつやってくるのだろう。人々はふと疑問に思った。もしかしたら、やってこないのではなかろうか。地震は、私達のことを忘れているのではなかろうか。
 だが、地震の専門家達は、そういった楽観的な希望を木っ端みじんに打ち砕いてしまった。
「あの駿河湾プレートに、地殻の歪みのエネルギーが蓄積されていることは事実です。したがって、地震は、必ず起きるのです。地球にとっては、二、三十年のずれなど、ほんの一瞬でしかありません。皆さんが忘れた頃に、必ず地震はやってきます。しかし、それが明日なのか、それとも五十年後なのか、それはわかりません」
 無責任極まりない発言でもあったが、それはまた事実でもあった。しかし、忘れた頃にやってくる地震に対して常日頃から気を配っていれば、消して忘れることはあり得ず、そうすれば地震は永遠にやってこないことになる。一方、静岡県民は永遠に地震に対して備え続けなくてはならなくなる。おかしな論理だが、地震が実際にやってこない以上、こうしたことも半ば本気で考えられた。それほど静岡県民は、この地震に関して深く深く悩んでいたのである。


 そうこうしているうちに、また時は流れた。
 相変わらず、地震大国日本には大きな地震がたくさん起きてはいた。南は九州から北は北海道まで、日本中をまんべんなく地震は襲った。この国で最も安全と言われていた関西地方ですらその被害を免れ得なかった。が、どういうわけか、そのどれもが不思議と静岡県を巧妙に避けて起きていた。他のどの地域よりも、静岡県は安全な場所であった。震度5以上の揺れはこの20年間全く観測されていなかった。
 長年に渡り、静岡県には沈黙が続いていた。
 しかし、だからといって安心などまったくできないと言うことは、静岡県民自身が一番よく知っていた。
 地殻のエネルギーは決してなくなることはない。じわじわと移動するマントル対流の上の薄い地殻は、時とともにその歪みを増大させているはずなのであった。この20年以上にわたって、延々と破壊力を貯え続けているはずなのであった。
 このままでは、たまりにたまった地震のエネルギーは、その放出時に、静岡県の地上にあるすべての建物を破壊してしまうのではないかと思われた。
 静岡県民は気が気ではなかった。いつ巨大地震がやってきて、自分達の生活を破壊してしまうかわからないのだ。その危険は、明日に迫っているのかもしれず、また十年経ってもやってこないのかもしれなかった。日常生活は夜明けの緊張と共に始まり、日没の恐怖と共に終わった。そして、人間などという生き物は、所詮は薄い卵の殻のようなものの上でへばりついて暮らしている黴のようなものなのである、という認識を持たざるをえなかった。そのはりつめた心が成せる技だったのか、この地域の火災、事故率は全国でもトップクラスの低さであった。

 日々が過ぎていった。

 人々の緊張は高まった。もうそろそろ来ても良さそうなものだ。だが、それはやってはこない。そう、それはあたかも決してやってはこないかのようだった。だが、相変わらず、専門家達は、いつか必ずやってくる、と同じことを言い続け、静岡県民のプレッシャーを科学的にあおることに精を出していた。

 ちょうどその頃であった。
 世界に誇る日本の地震学を出し抜いて、南アフリカの地震研究所がかなり正確に予想できる地震予知理論を発表したのだ。それに呼応するかのように、ロシアとドイツが人工地震についての詳しいデータを世界に向けて公開し始めた。遅れを取り戻すため、日本の地震学者達はそれらの理論、データ類を必死に研究した。
 そしてついに、それを応用した、人工地震についての理論を完成したのだ。
 一方、温暖な地域に暮らす静岡県民は、相変わらずいつ来るかわからぬ地震に備えて日々の生活を暮らしていた。他のことをまったく考えていなかったわけではないのだろうが、しかし、大体においてその生活は常日頃からの緊張を強いるものであった。歴史的に脳天気なこの県民に対し、そのストレスはあまりに大きすぎた。
 したがって、この人工地震の理論を応用し、来るべき大地震を人間のコントロール下において誘発し、被害を最小限で押さえようと言う世界で初めての計画に最も賛成したのは、当然ではあるが、他でもない静岡県民であった。
 そして、その予定日が決定したときから、静岡県は、その日に向かって暴進し始めたのだった。
 ちょっとしたごたごたは存在した。普通、人工地震によって期待される効果とは、地震の巨大なエネルギーを複数の小さい地震に分散させて起こすことにより、被害を無くすことにある。当然、この計画にもそれは当てはまった。当初の計画では、震度三から四程度のものを十数回にわたって起こすということだった。そこにクレームをつけたのは、なぜか当の静岡県民であった。
 長い間待ち続けた“大”地震が、あっけなく震度三の大きさに化けてしまうことに対して、彼らは何か割り切れないものを感じたのだ。
 市民団体は連日陳情に押し寄せた。「大地震を返せ」「ビッグウェイブ かむばっく」等のプラカードが駿府公園の堀の周りを埋めた。地方ならではの、アクセントの若干を異にするシュプレヒコールがこだました。
 県民側と県庁との間でとぎりぎりの折衝が行われた。そしてとうとう、県民側と県庁側は『マグニチュード 6.7 駿河湾沿岸部での平均震度5』というところで歩み寄った。結果的に、老朽化している静岡県庁の崩壊が予想されたために、県民側が一歩引いた形となった。
 人々はおもむろに動き出した。
 長い間の恐怖から、ついに逃れることができるのだ。とうとう来るのだ。夢にまで見たあの大地震が、とうとう来るのだ。人々は希望をもってその日に対して備えた。あらゆる家具を固定し、食糧を備蓄した。繰り返される避難訓練、消火訓練にも喜んで耐えた。そんなものの苦しみは、この数十年間にわたって味わってきた、遠火の弱火でこんがり焼かれるような苦しみに比べれば、どうということもないではないか。その通りだ。他の県民に、この気持ちがわかってたまるか。
 そうして、ついに、今、念願の地震を迎えることができたのだ。

 人々の喜びはひとしおであった。
 どこかで酒が入ったらしく、乾杯の音頭が聞こえてきた。テレビカメラの前では、偶然にかすり傷を負ったまぬけな警備員が、笑顔でそのときの様子をおおげさに繰り返していた。あたりは、祭りのような盛り上がりを見せていた。「祝 東海地震」ののぼりが青空に映えている。
 この騒ぎは夜になっても収まる様子はなく、結局一晩中続いていた。


 ぷっつりと緊張の糸が切れてしまった静岡県では、翌日から事故、火災が多発するようになった。消防車の出動も、以前に比べかなり遅くなり、被害はさらに増えた。県知事はこの様子を重く見て、繰り返し広報機関を通じて注意をうながした。が、効果はほとんど無かった。

 さらに、世界初というタイトルの新しい実践にはつきものの、「予想外の影響」によって「活性化」させられた駿河湾プレートは、一週間後にM8.8の「東海大地震」を引き起こした。静岡県での被害は、例の県庁の倒壊を手初めに、死傷者三万二千人、東海道新幹線、東名高速道路、東海道本線、国道一号線等の主要交通網の寸断、さらに相当な高さの津波などにより、被害総額は延べ数兆円に達した。再起までにどれだけの時間がかかるのかは、定かではなかった。
 唯一の救いといえば、もう百数十年間は大地震はこないであろうとの地震学者のコメントであった。
 もっとも、それもたいして慰めにはならなかったようであったが。



<完>


初出 Cygnet4 (1989)
一部改稿 本稿(1997)
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